『ヴァルハラ・ライジング』”Valhalla Rising”

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“Valhalla Rising” (2009) Nicolas Winding Refn
(米盤DVDで鑑賞→amazon.com

 2009年製作のデンマーク/イギリス映画。監督は『プッシャー 麻薬密売人』『Bronson』のニコラス・ウィンディング・レフン。マッツ・ミケルセン主演。
 口がきけない片目のヴァイキング戦士のダークで幻想的な遍歴を描いた、寓意的なコスチューム劇。

 主人公は《片目》と呼ばれるヴァイキング風の戦士。多神教のケルト風部族の捕虜であり、鎖に繋がれ檻に入れられ、ときおり闘犬のように他の捕虜と死闘をさせられている。
 ある日彼は、隙を窺い反撃に転じて脱走するが、その際に同じく奴隷にされていた別部族の少年も共についてくる。
 逃げた二人は、キリストを信仰する戦士の一団(エンドクレジットでは「クリスチャンのヴァイキングたち」と表記)に出くわし、「共に聖地へ戦いに行こう」と誘われる。
 二人はこの一団と共に出帆するが、凪で船が動かなくなり濃い霧に包まれる。いっこうに風も吹かず霧も晴れない中、やがて戦士の一人が「これは呪いのせいだ」と少年を殺そうとするが、《片目》はそれを返り討ちにする。
 暫くすると、船はいつの間にか真水に浮かんでおり、霧が晴れると、そこはいずことも知れぬ森の中の川だった。
 一行が上陸すると、木の櫓が立ち並んだ場所があり、櫓の上にはネイティブ・アメリカン風の装飾品を付けた死体が置かれている。
 一同はこの地に、神の征服の印として十字架を立てる。
 しかし一人が忽然と姿を消し、彼の持っていた剣だけが見つかる。また、一行が川の上流に向けて出帆すると、どこからか石の鏃の矢が飛んできて、また一人殺される。
 いずことも知れぬ場所で謎の敵に囲まれているうちに、一行は次第に狂気に囚われていく。そして、自分たちは既に死んでいるのではないか、《片目》が自分たちを地獄に連れてきたのではないかと怪しみ始め……といった内容。

 なかなか意欲的な作品ではありました。
 セリフは極端に少なく、登場人物も《片目》を除いては全員名前すらなく、その《片目》ですら、口がきけない彼のことを、捕らえていた部族の者がそう呼んでいたというだけで、実際の名前ではない。
 そしてこの《片目》を始め、登場人物のは全員、出自について全く説明がなく、会話や服装などから、各々の立ち位置を何となく想像するしかない。劇中で起きる様々な出来事も、何故そうなったのか、どうしてそのキャラはそう思ったのか、等々、これまた合理的な説明は一切排された作り。
 というわけで、一見史劇風には見えるんですが、表層的なものには囚われずに、これはそういったモチーフを使って描いた、一種の寓意劇のようなものだと考えた方が良さそうです。
 正直、ストーリーだけを追うと「ワケワカラン」系の内容なので、普通に血湧き肉躍るヴァイキングものとかを期待すると、裏切られること間違いなし。

 いちおう私の解釈では、これは「信仰と贖罪と救済の話」だという気がします。
 劇中で繰り返し出てくるモチーフに、幻視の中の《片目》の姿というものがあるんですが、その色が最後だけ変わっている理由とか、また、キリストの名のもとに聖地を求めながら、実は富や権力を目的としている戦士たちと、純粋に《片目》を信じてついてくる少年との対比とか、更に、生き残った者と死んだ者の間には、どういう違いがあったのか……などといったあたりに、そこいらへんの鍵があります。
 つまりこれは、(ネタバレを含むので白文字で)《片目》にとっては、それまで犯してきた己の「罪」を、我が身を犠牲にして少年を救うことで「贖い」、少年にとっては、ただひたすらに《片目》を「信じる」ことによって、最終的に一人だけ生きのびることができ、故郷にも帰れる約束を得ることで、結果として、《片目》と少年の二人が共に「救われる」という話であり、則ちそれは、キリストとキリスト者の関係に重ね合わされているということ。
 そしてそれらを、宗教の名の下に行われる、戦士たちの世俗的な欲望と対比させることで、上辺だけの「信仰」と、本質的なそれとの差異を明らかにしている……というのが、私個人の解釈であります。

 全体の雰囲気は、スケール感があって美しい自然描写と、生々しくグロテスクな人間たちの描写の対比や、ポストロック風の音楽の使い方など、ヴェルナー・ヘルツォークの『アギーレ 神の怒り』を思い出させます。
 映像はかなり凝っていて、静謐で美麗な絵あり、ホラーそこのけのオソロシイ系ありと、鮮烈で印象的なイメージが多々あって、映像的な見所はいっぱい。
 グロテスク要素には、残酷描写も含まれています。
 例えば、石で砕かれた頭から脳ミソが見えているとか、ナイフで腹を切り裂いて腸を摑み出すとか。
また、一行が狂気に陥るシーンでは、沼に突っ伏したヒゲモジャのむっさい男を、同じく髭面の巨漢が後から、泥まみれになって犯す……なんて場面も。残念ながら二人とも着衣ですけが(笑)。

 というわけで、これは紛れもなく見る人を選ぶ映画。
 私としては、自分なりに内容を咀嚼できた感があるのと、美と汚穢が同居する映像的な魅力などもあって、もう一押し何かに欠ける感はあれども、好きか嫌いかなら問答無用で「好き」な作品。
 前述した要素がツボにはまる人、そしてヘルツォーク好きの人には、かなり琴線に触れる部分ありかも。
 にしても、このニコラス・ウィンディング・レフン監督、過去に見た2本『プッシャー 麻薬密売人』『Bronson』と、今回の『Vaihalla Rising』、どれもこれもスタイルが全く異なるのが興味深い。
 今年のカンヌで監督賞獲った新作『Drive』が、ますます気になります。

【追記】2012年9月14日、日本盤DVD発売。

ヴァルハラ・ライジング [DVD] ヴァルハラ・ライジング [DVD]
価格:¥ 4,179(税込)
発売日:2012-09-14

“Rakht Charitra”、”Rakht Charitra 2”

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“Rakht Charitra” (2010) Ram Gopal Varma
(インド盤DVDで鑑賞)

 2010年製作のインド/ヒンディ映画。とはいえ撮影は主にテルグ語で、テルグ版とタミル版もあるらしいです。ラーム・ゴーパル・ヴァルマ監督作品。
 南インドの実在政治家をモデルに、血で血を洗う壮絶な政党抗争を描いた叙事詩的な作品で、無印と『2』の2部作に分かれています。

 舞台は南インドのアーンドラ・プラデーシュ州アナンタプール県。
 人望の厚い地元政治家が、ライバルの謀略と身内の裏切りによって、人々の見ている前で銃で撃たれ、更に頭を岩石で叩き潰されて殺される。殺された政治家の長男は復讐を誓い、残された父の部下たちと共に、敵の配下を次々と殺していく。
 また、都会の大学に通っていた次男プラタープ(これが主人公)も、父が殺されたとの報せを受けて帰郷する。兄は弟に「復讐は自分がするから、お前は学問を続けろ」と諭すが、そんな兄も敵とその一味である警察の手によって惨殺されてしまう。プラタープは怒りに燃え、父と兄の敵である3人を自分の手で殺すと誓う。
 その誓いの通り、彼は敵を一人ずつ殺していくが、一番の悪玉の息子で、その所行から悪魔のように怖れられている男が、自分の兄を候補者に立てて選挙に臨む。そして対立候補を全て暴力で排除していき、その魔の手は映画スターから政治家へ転じた大物の身辺にまで及ぶ。
 大物政治家はその対抗措置として、プラタープに政界に進まないかと声をかける。彼はいったんは悩むが、例の悪魔のような男が、昼日中に街の娘を誘拐して強姦したにも関わらず、訴え出た警察には相手にして貰えず、娘は焼身自殺してしまったという話を、その被害者の兄から聞く。
 主人公は、社会というシステム自体の持つ問題と、銃よりも政治の方が強いと考え、件の大物政治家を後ろ盾に自ら選挙に立候補する……という内容で、ある程度の区切りがついたところで「第2部へ続く」となる。

 とにかくバイオレンス描写の強烈さが話題になった作品で、もうアヴァンタイトルの段階から、人は死ぬわ血は飛び散るわ……。で、そこに「ガンジーは『インドの魂は田舎にある』と言ったが、その田舎では暴力の連鎖が延々と続き……」ってな講談調のナレーションが加わって、映画はスタート。
 本編に入ってからも、もう次々と人が死ぬ死ぬ。
 普通の復讐モノのパターンだったら、父と兄の敵3人を斃してめでたしめでたし…となるところが、この3人も何と映画の前半1時間で全員御陀仏。後半に入っても同様で、何のかんのでバッタバッタと人が死にまくり。
 実話を元にしているということもあるんでしょうが、いわゆるストーリー的なヒネリとか起承転結とかは、ほぼ皆無という作劇で、最初から最後までアクセル全開で突っ走る感じ。政治的なパワーゲームとか謀略とかいった部分は、必要最小限のドラマはあるものの、基本的にはほぼナレーションで説明。
 でもってこのナレーションがまた、何とも大時代的な口調で「彼はまだ、自分が二度と引き返せない道に踏み込んだことを知らなかった!」とか「ここで物語に新しい人物が登場する!」とかいった塩梅で、最初は何じゃこりゃとか思うんですけど、それが次第に叙事詩的な効果へと転じていくのがスゴい。
 そういう具合でストーリーとしては、次々と起きるバイオレントな事件が串団子になっただけみたいな感じなんですけど、その団子も串も特大とでも言うか、凄まじいパワーで押しまくり、弛緩もなければインフレもなく、思わず肩に力が入りっぱなしのまま、気付いたら2時間経過というスゴい作品でした。

 役者さんの熱演もそのパワーに一役買っていて、特に主人公プラタープを演じるヴィベーク・オベロイは、インドにしてはアッサリ目のハンサム君ですが、冒頭の平凡な大学生から、復讐に燃えるバイオレントな男、そして冷徹な政治家への転身というキャラクターを、見事に演じています。
 というわけで、暴力が渦巻く人間の世界を、その是非や虚しさを説くでもなく、事象のみ淡々と(ってのは視点の話で、描かれるもの自体は淡々どころかギッラギラなんですけど……)綴っていくという、一種の神話的な叙事詩みたいな味わい。
 第2部がどうなるかは判りませんけど、いや、こりゃスゴいわ……。
 ってのが、1本目の無印を見終わったときの印象でした。

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“Rakht Charitra 2” (2010) Ram Gopal Varma
(インド盤DVDで鑑賞)

 そして、無印が公開されてから数ヶ月後に封切られた、第2部にして完結編。
 第一部で父と兄の敵をとり、政治家としても成功し、邪魔者も悉く排除し、今や怖れるものは何もなくなったかに見えたプラタープだったが、ある日爆弾で命を狙われる。彼は辛うじて難を逃れるが、暗殺の主犯は父の敵として自分が殺した男の息子、スーリヤだった。
 いったん地下に潜ったスーリヤを探し出して殺すために、プラタープは配下にスーリヤ周辺の人間を一人ずつ始末していくよう命じる。しかしプラタープの動きを警戒した警視が、まずスーリヤの妻を保護し、それを通じてスーリヤに投降するよう薦める。
 警戒が厳しくなったプラタープを暗殺するのは当分困難であり、しかも刑務所に入れば自分の身の安全も確保できると踏んで、スーリヤは自分の復讐を長期戦に切り替えて入獄する。プラタープは自分の政治力でスーリヤを始末しようとするが、それが不可能と判り刑務所に刺客を送り込むが、スーリヤはそれを撃退する。
 実はスーリヤは、プラタープに父親を殺された後、残された母や妹弟を守ることを優先して、一度は復讐をあきらめていた。しかしその母や妹弟が、プラタープが関与しているTV爆弾の犠牲となってしまい、以降プラタープを憎み、彼を殺すことだけが生きがいになったのだった。
 互いの事情を鑑みて、プラタープはスーリヤと話し合いを試みるが、スーリヤの意志は頑として変わらない。そして、獄中で何もできないかに見えたスーリヤだったが、獄中で彼の話を聞き、彼に心酔するようになった仲間の助けや、打倒プラタープのため彼の立場を利用したい対抗政党の思惑も絡み、それはやがて、彼の妻をも巻き込む大きな動きになっていき……といった内容。

 第2部を見て、な〜るほど、こう来たかぁ…と、まず感心。
 第1部で主人公プラタープが、暴力の被害者から復讐者を経て冷徹な政治家へと変身していったのを踏まえ、第2部にはまるで第1部前半のプラタープの写し身のようなスーリヤというキャラクターを出し、その二人を拮抗させる。これは上手い。
 見ているこっちとしては、最初は第1部の延長線上でプラタープに心情的に寄り添って見ているのだが、スーリヤの背景が明らかになっていくと共に、必然そちらの方にも感情移入してしまう。
 そうやって見続けた結果、善悪という定規は完全に喪われ、残るは、いったいどうすればこの憎しみの連鎖を止められるのか、二人の主人公をそこから解放できるか、観客自身で考えざるを得なくなる。

 DVDのジャケットには、無印も『2』も共通して、キャッチコピー代わりの2つのエピグラフが記載されています。
 1つはマハトマ・ガンジーの「『目には目を』は、やがて全世界を盲目にする」という言葉。もう一つは『マハーバーラタ』からの「復讐は最も純粋な感情」というもの。
 この2つの矛盾をどうやって解決するか、それを観客自身に考えさせるというのが、おそらくこの映画の最も大きなテーマであり、映画の最後に監督から観客へ向けて、そういったメッセージが字幕で出されます。普通はダイレクトにこういうことをされると、いささか鼻白んでしまいそうなところを、この構成でドラマを見せられた後だと、それも素直に受け止められる気持ちになる。
 そういうわけで、実話に基づく現代のドラマを描きながら、そこに神話的な普遍性を持たせ、叙事詩のように描く(実際、挿入歌の歌詞には「現代のマハーバーラタ」という言葉が出てくる)という点では、実に見事な構成。プラタープとスーリヤのエピソードを意図的に重ね合わせているのも、いかにも叙事詩的で効果大。
 全体を通じての力強さも文句なしで、意欲的な力作として申し分ないと言えると思います。

 ただ惜しむらくは、ひたすらエクストリームなエピソードの連続だった第1部に対して、第2部は謀略やパワーゲームや暗殺といった、より論理性や緊張感やサスペンスが必要とされる内容なのに、ナレーションとムード映像に頼った演出ではそれを保たせられず、あちこち弛緩してしまっているところ。
 ぶっちゃけこのラーム・ゴーパル・ヴァルマという監督は、演出のパワフルさや映像の外連味は良いものの、ロジカルにしっかりくみ上げていく演出の基礎力は、正直あまりないと思います。本来ならサスペンスフルにハラハラドキドキの展開で見せなければいけない部分を、馬鹿の1つ覚えみたいなスローモーションだけで押し通したりするのが、ちょっと「あちゃ〜……」な感じ。
 とはいえ、第2部のもう一つの要である2人のキャラクターの激突に関しては、第一部同様に好演のヴィベーク・オベロイに加えて、タミル映画のスターであるスーリヤが、そのハンパない目力を生かし切った負けず劣らずの好演なので、思い切りエモーショナルに盛り上がります。
 またサポートロールの、プラタープの妻役のラディカ・アプテ(?)と、スーリヤの妻役のプリヤマニが、ここぞという場所でしっかり好演して盛り上げてくれる。
 そういったエモーション面で、ドラマや演出の弛緩部分を補完してくれるので、ギリギリ全体の力強さが持続できている感あり。

 まあ何と言っても重いテーマですし、明るく楽しいシーンなんて1部2部通して2、3箇所あるかないかだし、ましてやインド映画的な歌舞なんて皆無に近い(BGM的な挿入歌意外は、結婚と祭りの場面でちらっと踊りがあるくらい)内容ですけど、とにかくパワフルさは太鼓判。
 2部の個人的な評価はちょっと辛めになってしまいましたが、それでも見て損はない力作であることは間違いなし!

“Veda”

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“Veda” (2010) Zülfü Livaneli
(トルコ盤DVDで鑑賞→amazon.com

 2010年製作のトルコ映画。トルコを代表する大音楽家であり映画監督でもある、スリュフ・リヴァネリ監督作品。タイトルの意味は「farewell (さらば)」
 近代トルコ建国の父、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ)の生涯を、幼馴染みの側近Salih Bozok(サリフ・ボゾク?)の目を通して描いた作品。

 1938年のイスタンブール。ドルマバチェ宮殿でアタテュルクは危篤状態にある。アタチュルクの幼馴染みであるサリフは、彼が死んだら自分も殉死すると誓い、テッサロニキで共に育った少年時代から、現在に至るまでの彼との思い出を、残す自分の息子に宛てる手紙として綴り始める…といった内容。
 死の床にあるアタテュルクを見守るサリフの姿と、テッサロニキで過ごした少年時代から青年期、壮年期に至るまでを交互に配し、イタリアートルコ戦争、バルカン戦争、第一次大戦、トルコ革命、イズミール奪還、アタチュルクの結婚などを、点景的に綴っていく構成。

 画面等のスケール感はタップリ。
 ただしドラマのフォーカスは、歴史劇的なダイナミズムではなく、その中におけるキャラクターの心情などのディテールにあるので、歴史劇的な見応えを期待してしまうと、ちょいと肩すかしになります。政治やパワーゲームといったものよりも、母子関係や三角関係といった、人情劇やメロドラマ的な要素の比重のほうが高い。
 にも関わらず、アタテュルクの人物像は理想化された英雄像そのままで、ダーティな部分や人間的な弱みを見せたりはしないので、どうも全体的に「きれいごと」に留まってしまっている感じ。また、タイムスパンを長くとった内容にも関わらず、尺が2時間弱というせいもあってか、アタテュルク以外ののキャラクターも、それぞれ掘り下げ不足の感は否めない。
 内容的にはエモーショナルで面白いものの、人間ドラマとして見ると、いまいち薄味で食い足りない感じはします。

 ただし映像的な見所はタップリ。
 スペクタクル面では、まずスローモーションだけで描く一次大戦の光景が、迫力、スケール感、映像的な面白さなど、実に見事な見せ場に。あちこちCGを交えながら再現された、当時の風景の数々も大いに魅力的。
 また、母と息子、悲劇の恋人との出会いと別れなどの、感傷的でエモーショナルな情景など、身の丈サイズの見所も多々あり。クライマックス、幼少時代から晩年までを一気に俯瞰するロマンティックで幻想的な仕掛けは、ちょっと感動的でもあります。
 衣装、セット、美術などは、説得力も重厚さも美しさも兼ね備えており、ほぼ満点。

 また、監督が大音楽家のリヴァネリだけあって、音楽が巧みに使われているシーンが多いです。
 それは劇伴だけではなく、酒場で演奏される音楽と踊り、蓄音機で奏でられるSPレコード、恋人のタンブール(リュートのような撥弦楽器)を爪弾きながらの歌、妻となる女性のピアノの弾き語り、合唱する軍人たち、パーティの歌と踊り……といった具合に、ドラマの要所要所に印象的な音楽を奏でる場面が配されるので、トルコ音楽好きにはそこだけでも大いに楽しめるかと。
 私は、見終わってすぐにサントラ盤を探して購入しました。

 というわけで、叙事は絵解きで叙情がメインと割り切れば、映像的なクオリティ自体も高く、感動的な場面や史劇的な目の御馳走も多々あるので、モチーフに興味のある方ならば、お楽しみどころは多々あり……といった感じです。

『Veda』の、感傷的で叙情的な美しい主題のテーマ曲。

『Veda』から、レトロな感じのピアノの弾き語り曲。映画ではこれに男性陣(軍人たち)が唱和して合唱になっていくのが良かったんですが、残念ながらCDに収録されているのは女声ソロヴァージョンのみ。

“El Greco”

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“El Greco” (2007) Yannis Smaragdis
(ギリシャ盤DVDで鑑賞→amazon.co.uk

 2007年製作のギリシャ/スペイン/ハンガリー合作映画。ヤニス・スマラグディス監督作品。「EUフィルムデーズ2011」で日本上映(ただし英語字幕版)あり。
 マニエリスムの巨匠エル・グレコ(ギリシャ人)ことドメニコス・テオトコプーロスの生涯をフィクショナルに描いたドラマ。
 音楽はヴァンゲリス(ただし1995年に限定盤、1998年の公式盤で出た同名のオリジナル・アルバムとは、全く異なる内容)。

 初老のエル・グレコが「私は明日にも火刑に処されるかも知れない」と、自分の生涯を手記に綴り始める。
 ヴェネツィアの支配下にあったクレタ島で生まれ育ち、ビザンチン・イコンの画家であったグレコは、レジスタンスとして闘っていた父や兄に憧れつつも、お前の武器は絵筆だと諭される。そんな中、グレコはヴェネツィアのクレタ知事の娘と恋に落ち、彼女に画才を認められる。
 彼女の口利きで、グレコはヴェネツィアの巨匠ティツァーノの工房に弟子入りし、その工房で、彼と生涯に渡って深い縁となるスペイン人修道士ニーニョ・デ・ゲバラと出会いう。ゲバラもまた、彼の画才に魅せられる。
 やがて恋の破局などを経て、彼はスペインへと渡り、今や高い身分となっていたゲバラの引き立てもあって名声を博するようになる。クレタから影の様に付き添ってくれた旧友との別れ、新たな女性との出会いなどを経て、彼はスペインが自分に名声と愛と幸福をもたらしたと感じるようになる。
 しかしそんな中、スペインに住む同胞のギリシャ人たちが、スペイン語を話せないゆえに異端の罪に問われたことを切っ掛けとして、彼の中に疑問が生まれ、その栄光にも影が差し始める。彼はその思いを画布へと描き、やがて彼自らも異端の疑いを持たれるようになるのだが……といった内容。

 DVDが英語字幕なしだったので、訛りのきつい英語をヒアリングのみで鑑賞しなければならなかったのと、たまにギリシャ語やスペイン語の会話が出てくると、もうサッパリ判らずわやや状態になってしまうので(笑)、かなり情報を拾い損ねていると思うんですが、でもなかなか面白かったです。
 全体の構成は、周囲から「エル・グレコ」と呼ばれながらも、絵にはギリシャ文字で「ドメニコス・テオトコプーロス」と署名しつづけた画家の思いと、その絵画の革新性を、自分のアイデンティティへのこだわりや、体制への反抗心などと重ね合わせるといったもの。
 ビザンチン絵画の「光」と、スペインの陽光という「光」、神性としての「光」、火刑の「光」などを重ね合わせた構成とか、絵画と宗教が対峙したときの、その危険性や優位性の論考など、テーマ的な見所が多かった。
 表現としては、部分的に俗に過ぎる表現があるものの(ちょっと世界市場を意識し過ぎてしまっている感あり)、全体はスケール感があって、重厚で美しい画面も佳良。
 役者さんもそれぞれ雰囲気があって、なかなかよろしい。

 そして部分的ではありますが、同性愛的なニュアンスも含まれていました。
 具体的には、ニーニョ・デ・ゲバラがグレコに寄せる思いがそれに当たるんですが、まあ昔ながらの「邪恋」的な雰囲気なので、同性愛ものとしては方法論が古いというか、さほど面白いものではなかったのが残念。

 絵画好きとしては、エル・グレコの名作のアレコレが、ちゃんとストーリーに有機的に絡んでくるのも面白いし、制作途中の名画だらけのティツァーノの工房シーンなんかも、「え〜、ホントにこれ全部同時期に描かれたの〜?」というのはあるにせよ(笑)、でもやっぱ楽しい(笑)。
 個人的には、このティツァーノの工房でモデルを使って、私の大好きな『プロメテウス』を描いている場面があったのは、かなりお得感がありました(笑)。
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 また余談ですが、劇中でティツァーノが、ドメニコス・テオトコプーロスという名前を覚えきれなくて「……もうグレコでいいや!」とかなっちゃうというシーンがあるんですが(笑)、確かに監督の名前スマラグディスとか、エンドクレジットでズラズラ並ぶ「何とかキス」「何とかプス」といった名前を見ていると、その気持ちも判るような(笑)。

 見やすい反面ちょいとアッサリしていて、もう一つガツンとくるものに欠ける感はありますし、ドラマ的な感動の持っていき方が、いささか安易な感もありますが、コスチュームものとしては、目の御馳走はタップリですし、映画自体の後味も良し。
 モチーフに興味のある方なら、楽しめる一本だと思います。

 ヴァンゲリスの音楽は、まぁ「いつものヴァンゲリス」でしたが、曲によってビザンチン聖歌や古楽がミックスされていたりするのが、ちょっと新鮮だったかな。

“Cenneti beklerken (Waiting for Heaven)”

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“Cenneti beklerken (Waiting for Heaven)” (2006) Derviş Zaim
(トルコ盤DVDで鑑賞→amazon.com

 2006年製作のトルコ/ハンガリー映画。監督はDerviş Zaimという人。
 17世紀、オスマン帝国時代の細密画師の辿る数奇な運命を描いた、寓意的な歴史劇。

 主人公はイスタンブールに住む細密画師。妻と息子を亡くした悲しみから、その面影をいつまでも留めようと、西洋風の写実法(ムスリム伝統下のオスマン帝国では異端的な行為)で二人のポートレイトを描くが、以来それまでの様式化された細密画を描けなくなってしまう。
 そんなある日、主人公はスルタンに呼び出される。罰を覚悟していた絵師だったが、彼に下されたのは罰ではなく、アナトリア地方へ赴き、同地で捕らえられ処刑を待つ身の叛逆の王子の肖像画を、首実検がわりに西洋風の肖像画として描いてこいという命令だった。
 弟子を人質にとられ、兵たちの監視のもと仕方なく同地に赴いた絵師は、その途中で盗賊に襲われたキャラバンの生き残りの娘を拾う。娘も交えた一行は、盗賊や叛乱軍の襲撃の危険に晒されながら、何とか目的地に辿りつき、絵師はいよいよ囚われの王子の肖像画を描くことになる。
 しかし、捕らわれていたのは王子ではなく、その息子だった。スルタンの部下で一行のリーダーである兵士は、厄介ごとを怖れ、真実を知る絵師と、その助手を務めていた例の娘を殺すよう命令するが、そこに王子率いる叛乱軍が襲いかかり…といった内容。

 テーマ的にも表現面もなかなか意欲的な作品で、見応えがありました。
 ストーリーの骨子的は、巻き込まれ型のアクション・アドベンチャーなんですが、実はそれは表層でしかなく、映画の本当のテーマは、その中で起きる様々なエピソードを通じて、細密画とは何であるか、西洋絵画との違いは、いや、そもそも絵とは何であるか、東と西の文化の違いとは……といったことを浮かびあがらせることにあります。
 表現面も、細密画がそのままアニメーションになったり、パンする画面に合成された樹や岩を境に、右と左でカットが切り替わったり、鏡を媒介に現実と虚構を行き来したり……といった技法を用いて、ルネッサンス以降に西洋で確立した絵画文法とは異なる、細密画の持つ時空間の自由さを、映画的に再現しようという試みが見られます。
 というわけでテーマとしては、同じくオスマン時代のイスタンブールの細密画師たちの世界を描いた、オルハン・パムクの小説『私の名は紅』と似ているところがありますが、あちらが殺人事件というモチーフを元に、実に複雑な知の世界を織り上げた『薔薇の名前』のような世界だったのに対して、こちらはもっと平明で、言うならば歴史と文化をモチーフにして語られる、寓意的なお伽噺的といった味わい。

 映画作品としては、いささか意余って力及ばずな感じもなきにしもあらずではありますが(意欲は買うけど力強さや完成度には不満もあり)、なにしろテーマが興味深いのと、スッキリきれいにまとまって後味も上々。
 また、アクション・アドベンチャー的なストーリーと裏腹な、全体を包み込む優しい雰囲気も大いに魅力的。特に、主人公の幼少時の記憶の幻想シーンや、ヒロインとの穏やかなロマンティック・シーンなどは、かなり印象に残ります。
 Wikipediaによると、この”Cenneti beklerken (Waiting for Heaven)”は、Derviş Zaim監督がトルコのアートをモチーフにした三部作の、第一作目にあたるらしいです。
 この後、カリグラフィーをモチーフにした”Nokta (Dot)” (2008)、影絵をモチーフにした”Gölgeler ve suretler (Shadows and Faces)” (2010)と続くそうなので、こうなるとそれらも見たくなりますが、既にトルコでは発売されている”Nokta (Dot)”のDVDは、残念ながら英語字幕なし。ガッカリ……。

“Cenneti beklerken (Waiting for Heaven)” 予告編

 この予告編だと、何だかスペクタクル史劇系の映画に見えますけど、実際の映画の印象とはかなり異なります。
 次に貼る、感傷的で美しいテーマ曲のPVの方が、映画の印象には近い感じ。前述したような、細密画世界の映画的再現という意欲的な表現の実例も見られます。

 因みに今回、映画を見ている間、相棒が横でず〜っと人質になっているお弟子さんのことを気にしていて、何でそんなに気になるのか尋ねたら「いい男だからもっと出て欲しい」……って、そんな理由かい(笑)
 でもまあ、確かにいい男ではありました(笑)。この人

 この映画とモチーフやテーマに共通点がある、オルハン・パムクの小説『私の名は紅』は、こちら。

わたしの名は「紅」 わたしの名は「紅」
価格:¥ 3,885(税込)
発売日:2004-11

【追記】影絵をモチーフにした”Gölgeler ve suretler (Shadows and Faces)” (2010)は、後日無事鑑賞。感想はこちら

“Günesi gördüm (I saw the sun / 私は太陽を見た)”

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“Günesi Gördüm (I Saw the Sun)” (2009) Mahsun Kirmizigül
(トルコ盤DVDで鑑賞→amazon.com

 2009年制作のトルコ映画。マフスン・クルムズギュル監督。同年の東京国際映画祭にて『私は太陽を見た』という邦題での上映あり。
 長引くクルド紛争によって故郷を追われた村人たちの離散や、引き裂かれていく家族の絆と、トルコという国そのものの姿を重ね合わせながら、スケール感タップリ、アジア的な泣かせどころもタップリに描いた、社会派感動大作。

 25年に渡る戦闘で過疎状態にある、クルド地方山間部の村。残っている数少ない数家族は、それでも幸せに暮らしていたものの、戦闘が激化していくにつれ、兄弟同士で軍とゲリラに分かれてしまったり、地雷で片脚を喪ったりといった悲劇が降りかかってくる。
 やがて軍とゲリラは大規模衝突を起こし、最後まで村に残っていた家族もついに立ち退くことになる。ある家族はイスタンブールに行って仕事に就くこと選び、別の家族は親戚を頼ってノルウェイに密入国しようとする。
 イスタンブールに行った家族は、狭いながらも親戚一同が共に暮らせる家を見つけ、港湾で魚の水揚げの仕事も見つかる。しかし、母親が体調を崩して入院中に、女子続きの末ようやく授かった待望の男子を、年長の子供たちの無垢ゆえの不幸な事故で亡くしてしまう。
 その結果、父親は裁判所によって扶養資格なしと判断されてしまい、まだ幼い子供たちは全員孤児院に入れられてしまい、子供を取り上げられた父親は悲嘆にくれつつも、入院中で重体の妻にはそれを打ち明けることができない。
 また、この一族にはトランスジェンダー傾向の青年がいて、田舎にいた頃から女性歌手の歌マネなどをしており、彼の兄はそれを苦々しく思っていたのだが、この青年は都会に来て初めて、自分と同様のトランスジェンダー/ゲイの仲間と出会う。
 今まで「ゲイ」という言葉すら知らなかった彼は、すぐに「生まれて初めて出会った自分と同じ仲間」と仲良くなるのだが、当然のごとく彼の兄はそれを快く思わず、ついに暴力を振るって弟を家に監禁してしまう。
 青年の仲間たちは、このままでいるとアンタは家族に殺されてしまうと、彼を脱出させて自分たちのところに密かに匿うが、青年の兄は、家出した弟を何としても捜し出そうとする。
 一方のノルウェイを目指した一家は、密航の手引きをしてくれる怪しげな男を頼り、コンテナに閉じ込められて窒息しそうな思いをしながら、何とか目的の地に辿りつく。
 頼りにしていた親戚とも無事に会え、言葉が通じない不自由さがありつつもスーパーでの仕事も見つかり、地雷で片脚を喪った息子の義足も手に入るのだが、やがて当局に不法滞在がばれてしまい……といった内容。

 いや、実に堂々としたもの。お見事!
 故郷を喪った二つの家族を通じて、トルコの社会が内包する問題ゆえの家族の離散や団結といった物語を、ダイナミックに、力強く、そして感動的に描いています。
 映像も素晴らしく、雄大なランドスケープから身の丈サイズの風景まで、しっかりとした撮影と効果的なカメラワークによって、重厚かつ美麗に見せてくれます。
 役者さんたちも、いずれも見事。
 似たタイプが多くて、慣れないと顔の見分けがつけにくいのが難点なんですが……まぁムサいヒゲモジャのいい男だらけなのは嬉しいんですけど(笑)……オッサンも青年もおっかさんもおじいちゃんも子供たちも、それぞれ実に良い顔&良い演技で、キャラクターの説得力とストーリーの盛り上がりに大いに貢献している感じ。
 監督と脚本と主演を兼ねているマフスン・クルムズギュルは、元々はクルド出身のシンガーソングライターで、映画監督としてのキャリアは、これでまだ2本目なんですが、その堂々たる演出手腕は、既に巨匠の風格すら漂っているかのよう。
 これを見た後、老人問題を扱った処女長編“Beyaz melek” (2007)を見たんですが、これがまたとても処女作とは思えないなかなかのもの。最近日本盤が出た、テロを描いた第3作『ターゲット・イン・NY』(2010)は、残念ながらこの2作と比べると、ちょっと出来が落ちる感はありますが、それでも部分的には見所が多々ありでした。

 さて、予告編では何故かあまりフィーチャーされていないものの、実は件のトランスジェンダーの青年を巡るエピソードが、タイトルとも関連してかなり大きなパーツを占めているのも、個人的には大きな収穫でした。
 この要素に関しては、ストーリーとしてはとても辛くて、決して見ていて楽しいものではないんですが、ホモフォビアによる悲劇を描いた、その見応えにズシンとやられました。特に、英語版のポスターにもなっているこのシーンなんか、思い出すだけでも辛くなるんですが、その力強い鮮烈さは忘れがたいものがあります。
 また、そういったテーマ部分での見応え以外にも、イスタンブールの男娼やゲイ・クラブといった、日頃あまりお目にかかれない風物が垣間見られたのも良かった。

 シリアスなテーマを真摯に扱った内容なので、いささかメッセージ性が露骨に感じられたり、エモーショナルな表現が過剰に感じられるきらいはありますが、社会派的なテーマと娯楽性を両立させた、堂々たる大作としての佇まいや、随所に見られる映像美など、見応えも見る価値もタップリです。

ターゲット・イン・NY [DVD] ターゲット・イン・NY [DVD]
価格:¥ 5,040(税込)
発売日:2011-08-05

“Undertow (Contracorriente / 波に流れて)”

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“Contracorriente” (2009) Javier Fuentes-León
(米盤DVDで鑑賞→amazon.com英盤DVD米盤Blu-rayあり)

 2009年製作のペルー製ゲイ映画。原題”Contracorriente”、2010年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で、『波に流れて』の題で日本上映あり。
 保守的なペルーの漁村を舞台に、既婚男性独身男性の愛を描いた内容で、アカデミー賞外国語映画賞のペルー代表候補にもなった作品。

 主人公ミゲルは、古風な水葬の風習が残るペルーの田舎の漁村の漁師。妻帯者でもうじき初子も生まれるのだが、実は同じ村に滞在している余所者の画家サンティアゴと同性愛関係にあり、廃屋や人の来ない海辺などで逢瀬を繰り返している。
 しかし、村人たちは余所者のサンティアゴを敬遠しており、村の女たちも彼は同性愛者だと噂していたりして、ミゲルも表だっては決してサンティアゴと接しようとはしない。
 そんな中、サンティアゴは市場でミゲルの妻に話しかけ、後にそれを知ったミゲルは、そのことでサンティアゴを責める。二人は激しく言い争い、その日を境にサンティアゴは姿を消してしまう。
 ミゲルは後悔にくれるが、それからしばらくしてサンティアゴが、教会やミゲルの自宅といった、それまで決して来なかった場所に姿を現すようになる。実はサンティアゴは海で事故にあって死んでおり、幽霊となってミゲルの元を訪れていたのだ。
 サンティアゴの幽霊はミゲルにしか見えず、そしてこの地方の風習では、亡くなった人間は儀式を踏まえて水葬しなければ成仏できないとされていた。サンティアゴを成仏させるために、ミゲルは海に潜って彼の亡骸を探しつつも、彼の幽霊が他の人には見えないおかげで、初めて人前で堂々と一緒に歩ける幸せを味わう。
 そしてミゲルは、ついに海底に沈んだサンティアゴの遺体を発見するのだが、人に知られず共に過ごせる喜びを逃したくないあまり、その亡骸が発見されないよう水底の岩にロープで括り付けてしまう。
 ところが、サンティアゴの家に無断で入り込んだ村の娘が、彼が密かに描いていたミゲルの裸体画を見つけてしまう。その噂は瞬く間に村中に拡がり、ついにはミゲルの妻の耳にも届いてしまうのだが……といった内容。

 これは良い映画、
 鄙びた農村と美しい海を背景に、見事な演技で裏打ちされた魅力的なキャラクターたちの、様々な想いが交錯する様が丁寧に綴られ、ストーリーも先を読めない面白さ。ロマンティシズムもあれば現実の苦みもあり、しっとりと切ないような何とも言えない情感が全体を包み込んでいます。
 ストーリーの基本にあるのは、男同士の切ないラブストーリーと、自己受容を巡る物語ではあるんですが、キャラクターの動かし方が、ラブストーリー的な予定調和や、ゲイ的なメッセージのためといった、作為性を感じさせないのも良い。ミゲル、ミゲルの奥さん、サンティアゴ、それぞれが得たものと喪ったものが、きちんと描かれているので、結果、単純なラブストーリーやゲイ的なお説教とは一線を画した、より汎的な「人間のドラマ」になっている印象があります。
 というわけで、メインとなる主題は男性同士の同性愛ではありますが、一方的にそこだけに肩入れするのではなく、周囲の人々の心情も含めて丁寧にドラマが描かれるので、おそらくゲイでもノンケでも男性でも女性でも、作品に対してそれぞれの見方や印象が残るのでは。

 同性愛的な問題として描かれるのは、保守的な社会におけるホモフォビアと、その背景にあるラテンアメリカ的なマッチョイズム。
 特にマッチョイズムに関しては、それが当事者自身の自己受容を阻む原因にもなっている。但し、ここで面白いのが、単純にマッチョイズムを否定するのではなく、それに対する考え方自体のシフトが描かれるところ。詳細は省きますが、表層的な「男らしさ」によって自分がfagだと認められなかった主人公は、しかし「男らしさ」に基づいて自分の同性に対する愛を受け止めるに至ります。これはちょっと新鮮でした。
 こういった、既成概念に対する問いかけといった要素は、脇の女性キャラにも見られ、例えば、男性やセックスに対して積極的な、古い価値観では「尻軽女」とされるようなキャラが、実はその保守的な既成概念に捕らわれていないがゆえに、ある意味で主人公の心情に最も優しく、しかしさりげなく寄り添ったりします。

 演出も上々。
 視覚的に派手なものではなく、どちらかというと地味で淡々とした表現ですが、無駄もなければ弛緩もない。叙事と叙情のバランスも良いし、特殊効果など一切使わない幽霊の描出も見事。
 ラブシーンやセックスシーンも、セクシーさとロマンティックさとリアルの匙加減が絶妙。
 役者もそれぞれ、見事なまでの存在感と自然な演技。
 特に主人公ミゲルの、オシャレなゲイとか過剰なマッチョとかではない、普通にもっさい感じの漁師といった佇まいが、個人的には大いに魅力的。
 対するサンティアゴも、ここはバッチリかっこいい青年で押さえてくれて、更に、大地や太陽の匂いがしそうなミゲルの奥さんも良く、こういった役者のアンサンブルの良さも、映画の魅力に大いに貢献しています。おかげで映画の後味が、もう切ないのなんのって……。
 因みに映画を見終わった後、一緒に見ていた相棒から「今度こんな漫画を描きなさい!」と言われてしまいました(笑)。

 というわけで、ストーリー自体に対する好み云々はあると思いますが、ゲイ映画としての見応えと、ゲイ云々関係なく映画としてのクオリティの高さを求める方ならば、まず満足できると思います。
 オススメの一本。

『アイアン・メイデン 血の伯爵夫人バートリ (Bathory, Countess of Blood)』

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“Bathory, Countess of Blood” (2008) Juraj Jakubisko
(英盤DVDで鑑賞→amazon.co.uk

 2008年製作のチェコ/スロバキア/ハンガリー/イギリス合作映画。
 処女の生き血風呂で美貌と若さを保ったという、エリザベート・バートリー(バートリ・エルジェーベト)の生涯を描いた映画。

 字幕なしのヒアリングオンリー鑑賞だったので、あちこち細かな部分が良く判らなかったのですが、要するにエルジェーベトを、実は血に飢えた伯爵夫人とかではなく、ハンガリー対ハプスブルグ、プロテスタント対カソリックの犠牲となり、無実の罪を着せられた一女性として再話した内容。
 というわけで、生き血風呂は実は赤いハーブ風呂で、内臓を取り出し云々は恋人となった画家のため、発作的な狂気は誤った調合の薬を飲んでしまったため…といったような感じになっていて、エルジェーベト本人に関するゴシックホラー的な描写を期待すると、ちょい肩すかしをくらうかも。
 とはいえ、対オスマン戦争や魔女裁判、エルジェーベトを魔女に仕立てる陰謀や麻薬の幻覚など、血生臭かったり怪奇だったり耽美だったりするエピソードやイメージは盛り沢山です。演出のタイプが映像派で、叙事をじっくり描くよりも、イメージとしての新奇さを優先しているので、ゴシックロマン的な雰囲気はタップリ。
 戦場を逃げ惑う全裸のトルコ美女たちにハンガリー軍が襲いかかるとか、地下墓地に保存されている氷詰めの嬰児の遺体を、帽子のつばにロウソクを点して写生する画家とか、デカい人面の駒を使った屋外チェスとか、不気味なダンジョンとか華麗な仮面舞踏会とか、オモシロ映像もいっぱい。
 また、衣装や美術は豪華だし、画面のスケール感もあります。

 ただ、一人の女性の生涯を描いた大河ドラマとして、様々な要素が盛り込まれている反面、あれこれ盛り込みすぎて、ちょいとサービス過剰の部分もあり。
 例えば、ストーリーには一人の若い画家が絡んできて、これがエルジェーベトの数少ない理解者&恋人になるんですけど、その画家の正体が実はカラヴァッジオだったりとか、エルジェーベトの周辺で起きる奇怪な事件を、旅の修道僧とその弟子のコンビ探るという『薔薇の名前』風の展開が入ってきて、更にその修道僧が珍奇な発明好きで、ローラースケートやらハンググライダーを駆使するなんていう、『スリーピー・ホロウ』か『ヴァン・ヘルシング』ですかってな展開とかは、ハッキリ言って要らないと思う(笑)。
 そういう感じで、なんか悪い意味での娯楽性みたいのを意識しすぎていて、結果、前述した耽美性とか、ストーリーの主軸である、歴史上の有名な人物を「××と思われていますが、実は○○だったんです」という視点で描くという、真面目なスタンスと齟齬をきたしている感じ。

 エルジェーベト役はアンナ・フリエルという女優さん。過去の出演作では『タイムライン』を見ているはずですが、正直印象には残っておらず。
 まあ、そこそこキレイな方ではあるとは思うんですが、いささか風貌が庶民的というか、気品や凄みといったものが感じられないのは、この役柄としてはちょいと残念。
 フランコ・ネロも出ていますが、これはホントにゲスト・スターみたいな感じで、出演シーンもちょびっとでガッカリ。
 他も、これといった印象に残る役者さんがいないのも、全体のイマイチ感に繋がってしまっている感あり。

 そういうわけで、ちょっとウ〜ムな部分も散見されますが、それでもコスチュームプレイとしての絵的な見所は多々あるし、耽美映像派系の黒ミサ幻覚シーンなんてのもあるし、あちこち血もオッパイも盛り沢山だし…と、個人的にはけっこう楽しめました。
  惜しむらくは、全裸女性拷問はあるのに、全裸殿方拷問はなかったことかな〜(笑)。

【追記】2015年5月、『アイアン・メイデン 血の伯爵夫人バートリ』の邦題で日本盤DVD出ました。

“The String (Le fil)”

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“The String (Le fil)” (2009) Mehdi Ben Attia
(米盤DVDで鑑賞→amazon.com英盤DVDあり)

 2009年製作のフランス/ベルギー/チュニジア映画。
 フランスからチュニジアに帰国した白人とアラブ人ハーフのゲイ男性が、母の使用人のアラブ青年と恋に落ち…という内容のゲイ映画で、母親役が往年のスター、クラウディア・カルディナーレ。

 主人公のマリクはフランスに留学し、以来同地で働いていたが、父親の死を切っ掛けにチュニスの実家に戻り、そこで使用人として働いていたアラブ人の青年、ビラルに心惹かれる。
 母や祖母は、マリクとの再会を喜びつつ、彼の結婚、そして子供の誕生を望むが、マリクは夫を亡くして心痛の母を労りながらも、幼い頃から自分の自由を縛ってきた社会的なしがらみを再意識せざるをえず、自分がゲイだとカムアウトすることができない。マリクは自分の気持ちを押し隠しつつ、時に町に出て男遊びなどもするのだが、母親との関係はどこかギクシャクしてしまう。
 そんなおり、マリクの仕事の同僚でレスビアンのカップルが、人工授精で子供を作ることを決める。生まれる子の法的な父親となるために、マリクはカップルの片割れと結婚することにして、母親にも彼女を紹介する。
 そんな中、次第にマリクと打ち解けてきた使用人ビラルは、より自由な人生を見つけるために、マリクの家を出ることを決意する。マリクはそれを引き留め、それが切っ掛けとなって二人は、互いの気持ちを確かめ合い結ばれる。
 しかし二人が同衾しているところを、マリクの母親に見られてしまう。同性愛への禁忌や階級差の問題などによって、母親は思い悩み、そして周囲の人々の間にも波風が立ち始めるのだが…といった内容。

 旧弊な価値観に基づく社会内での同性愛が、近親者や縁者の間に波紋をもたらし、同時に当事者たちもそれとどう向き合うかが描かれるという、ゲイ映画では昔からある定番の題材ですが、チュニジアという西欧寄りのイスラム社会ということもあって、あまり手垢のついた感は受けなかったです。
 人間ドラマとしては、いささかキャラクターが掘り下げ不足な感は否めませんが、変にドラマチックに盛り上げようという意図がなく、わりと些細な日常エピソードの積み重ねでストーリーが語られていくので、なかなか滋味のある作品になっています。
 また、ゲイ・コミュニティの政治力や、同性婚などが確立していない社会下で、その社会状況に併せながら、その中で周囲の理解なども得て、いかに個々人がセクシュアル・マイノリティとしての幸福を獲得できるか……といったことを考えるという点では、現代の日本社会とも通じる部分が多々あり。
 もう1つ興味深いのは、フランス育ちで、本来ならば最もそういった意識は先鋭的であってもおかしくない主人公のマリクが、実のところは、最も旧弊な価値観に捕らわれているように描かれていること。
 これを通じて、人間の人生や幸福を決定するのは社会ではなく、一人一人が、自分は如何に生きるのかを決めることによって左右されるのだというメッセージが感じられ、ここはなかなか凛とした清々しさが感じられました。
 そしてラストの母親の独白によって、そういったテーマがゲイ限定ではなく、汎的な人の幸福へと拡がるあたりも上手い。

 映像は、さほど特筆する要素はありませんが、端正に美しく撮られています。シビアさがありつつ、全体の印象は軽やかに仕上げている演出も佳良。
 役者さんは、クラウディア・カルディナーレは流石にオバアチャンになってましたが、流石の貫禄と存在感。アラブ人青年ビラルは充分にセクシー。だけど肝心の主人公マリクが、個人的には見た目がイマイチで、あまり魅力的ではなかったのが残念。
 監督/脚本(チョイ役で出演もしている)が、Mehdi Ben Attiaという名前から察するにアラブ系だと思うんですが、そのせいもあってか、下世話なオリエンタリズム的な視点がないのも好印象。逆に、もうちょいエキゾチシズムを入れた方が、観光映画的な魅力も出たんではないかと思うくらい。

 わりとあっさりした作品ですが、手堅く纏まった出来の良さ、通り一辺ではないテーマ意識、甘々でもなければ鬱々でもないドラマ、後味の爽やかさ、ロマンスやセクシーもあり……と、全体の印象はなかなか佳良な一本。
 モチーフに興味を抱かれた方なら、見て損はないと思います。

ちょっと宣伝、新シリーズ『ACTINIA (man-cunt)』前編、掲載です

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 8月21日発売の「バディ」10月号に、マンガ『ACTINIA (man-cunt)』前編、掲載です。短期集中シリーズで、前中後の全3回を予定。
 先月までの『冬の番屋』が情緒メインのソフトな内容だったので、その反動でキツめのエロを描きたくなり、編集氏にもそう申し伝えたところ、「こちらもそんな感じでお願いしようと思っていました!」とのことで、めでたくスタート。
 というわけでSM系、主人公は黄金パターン(笑)の毛深いヒゲマッチョ親父、更にSci-fiテイスト加味という形になっております。

 で、前の『冬の番屋』のときに、Hypeというアプリで作ったHTML5を使った簡易PRアニメーションを作ったんですが、今回も同様に、この『ACTINIA (man-cunt)』の予告編っぽいアニメーテッド・バナーを作ってみました。
 本家サイトの[HOME]ページに貼ってありますので、宜しかったら(ただし18歳以上の人のみ!)見てみてください。
 そしてこの『ACTINIA (man-cunt)』、ちょっとキツめの内容というか、いささかエグめの展開を予定しておりますので、SM好きの方は特に、この続きにご期待あれ。
【公開終了】

 さて「バディ」さん、リニューアル以降、毎回どんなの表紙が来るか楽しみなんですが、ふふふ、今月号もやってくれました。
 山伏コスプレの伝奇風味!
 うひょひょ、こ〜ゆ〜の大好き。
 更に本文グラビアは「一寸法師!?」ってな凝った内容ですし、裏表紙のAgehaの広告もヒロイック・ファンタジー・テイストだったりして、いや〜アレコレ個人的にちょ〜ツボでございます(笑)。
 皆様、ぜひお買い上げくださいまし。

Badi (バディ) 2011年 10月号 [雑誌] Badi (バディ) 2011年 10月号 [雑誌]
価格:¥ 1,500(税込)
発売日:2011-08-20