雑記」カテゴリーアーカイブ

お見舞いとご報告

 東北地方太平洋沖地震の被災地の皆様に、心からお見舞い申し上げます。
 東京在住の当方は、崩れた本の山やラックから飛び出したCDやDVDで、床が足の踏み場もなくなりましたが、家具自体が倒れたりすることもなく、私も相棒も怪我ひとつなく無事であります。
 とりあえず、お見舞いとご報告まで。

カセットテープのデジタル化計画〜GarageBand編

【この記事、ブログ人サービス終了にともなうブログ移行時に、手元のバックアップデータが見つからなかったために、画像がありません】

 昨日、ここで「後日書くかも」と書いた、ION AUDIO TAPE EXPRESS をGarageBand(以下ガレバン)と組み合わせて使う際の、図解入りHow To記事です。
【準備】
 まず、Tape Express(以下プレイヤー)とMacを付属コードで繋ぎ(電源がUSB供給なので、Mac本体のUSBスロットに繋いだ方がいいかも。電源供給なしのHUBだと動かないかも知れません)、プレイヤーのイヤホンジャックを外部スピーカーと繋ぐか、もしくはイヤホンを差すかして、再生するテープの音をモニタできるようにします。
 これで準備は完了。
【録音】
 カセットをプレイヤーに入れて、ガレバンを起動し、録音用に新規プロジェクトを作ります。
 まず、プロジェクトの種類を選ぶメニューが出てきますが、デフォルトの「Piano」のままでOK。
 続いてプロジェクトのファイル名を決めるウィンドウが出てくるので、自分の判りやすいタイトルを付けて保存します。
 カセットを1本丸々録音してから、後で必要部分のみを切り出していくという場合は、カセット全体(アルバムとか)の名称をファイル名にすると判りやすいでしょう。そうでなく、一曲一曲こまめにファイルを分けて録音するのなら、曲名=ファイル名にするのがベスト。
 下の方にある「テンポ/拍子記号/キー」等のメニューは、今回の作業には全く関係ないので、デフォルトのままでOK。
 すると下図のようなウィンドウが出てくるので、ウィンドウ左下の「+」マーク(1)をクリックして、新規トラックを作成します。
Gb0
 新規トラックのメニューから「リアル音源」を選んで「作成」。
 すると下図のようになり、上から二番目に(1)の新規トラックが出来ています。このトラックに、これからテープの音を録音していきます。
Gb1
 まず、下図の(1)、右下の「入力源」から、「ステレオ1/2 Pup Audio Device」を選びます。
 次にプレイヤーでテープを、音をモニタしながら再生します。すると、テープの音と合わせて、左上(2)のインジケーターが光りながら動きます。
 インジケーターを見ながら、右下(3)の「録音レベル」をドラッグして、録音する音量を調整します。インジケーターの黄色がたまに点滅し、しかし一番右の赤ランプは点灯しないくらいを目安にします。
Gb2
 これで録音準備は完了です。
 テープを巻き戻して、下図の(1)、中央下の赤い録音ボタンをクリックすれば、録音がスタートします。
 デフォルトでは、録音と同時に「カチ、カチ…」とテンポを刻む音が聞こえて耳障りかも知れません。これはメトロノーム機能がデフォルトではONになっているからです。このメトロノームの音は、実際の録音には入らないので問題ないんですが、気になるようなら消しましょう。「コントロール」から「メトロノーム」を選んでOFFにするか、もしくは「command+U」で消すことが出来ます。
 テープの音が録音されていく様子が、(2)の帯のようなもの(リージョン)がどんどん伸びていくことで、リアルタイムで視認できます。
 中央下のウィンドウ内の青い文字(3)は、デフォルトでは音符マークになっていて、その右側に表示されている数字は小節数になっています。この音符マークをクリックして時計マークに切り替えれば、表示される数字も小節から時間に変わります。
 録音を止めたいときは、(1)の録音ボタンをもう一度クリックします。
Gb3
 録音に関しては、これで全部。終わったら保存するのを忘れずに。
【編集】
 録音済みのファイルを編集して、不用な部分を消去したり、必要な部分だけ切り出して、それをiTunesに書き出す方法の解説です。私の場合、まずカセットを1本分丸々録音してしまい、それを作業用のマザー&バックアップファイルとして保存してから、改めてそこから一曲ずつ切り出し、そのファイルを別名保存してiTunesに書き出す、というやり方をしています。
 録音が終わったファイルは、下図の(1)のように、紫色の帯(リージョンといいます)になっています。
tTrim01
 このリージョンをダブルクリックします。するとリージョンの色が濃くなって選択状態になり(1)、下部に「オーディオリージョン」という拡大ウィンドウ(2)が出てきます。
 ここでは、曲の頭に入っている不必要な無音部分を消去したいので、(3)の三角形をした再生ヘッドをクリックして、オーディオの波形を見ながら、曲の開始位置へとドラッグします。中央下の再生ボタン(右向きの三角形)をクリックすれば、録音されたファイルを聞くことができるので、目と耳で確認しながら頭出しの位置を決めるといいでしょう。
 再生ヘッドを動かすときに、動きがカクカクして狙った位置に止めることができない場合、それはコントローラーが「グリッドに沿う」という設定になっていて、グリッド(この場合は拍単位の区切り)以外の場所には止まらないようになっているからです。それを解除するには「コントロール>グリッドに沿う」を解除するか、「command+G」を押せば、どこでも狙った場所に再生ヘッドを配置できるようになります。
Trim02
 曲の始まりの位置を決めたら、「編集>分割」を選ぶか、「command+T」を押します。
 すると(1)のように、再生ヘッドの位置で、リージョンが前後2つに分割されます。この分割されたリージョンの、前の部分が不要部分なので、これから消去します。
Trim03
 まず、リージョン以外の、濃いグレーの背景部分をクリックします。すると下図のようにリージョンの色が薄くなり、選択が解除されます。
Trim04
 次に、消したいリージョンをクリックします。クリックしたリージョンの色が濃くなり、選択状態になります。
Trim05
 この状態でdeleteキーを押すか、「編集>削除」を選べば、選択したリージョンを消すことができます。
Trim06
 残ったリージョンをクリックして、タイムラインの開始位置までドラッグします。これで、不要部分を消去して曲の頭出しができました。
Trim07
 頭出しをしたのと同じ要領で、今度は曲の終了部分を見つけて、切りたい位置に再生ヘッドを持っていきます。
Trim08
 そして、同じ手順でリージョンを分割し、不必要な後半部分を消去します。
Trim09
 これで一曲分の切り出し作業は終わりましたが、このままだとiTunesに書き出したとき、後半の消去した無音部分まで延々と書き出されてしまいます。そこで、書き出しの終了位置を指定します。
 まず(1)のスライダーを、一番右まで持っていきます。すると右上に(2)のような三角形があります。これがファイルの終了部分を示すマーカーです。
tTrim10
 この終了マーカーをクリックして、そのまま左にドラッグし、紫色のライン(1)が先ほど切り出したリージョンの終了部分にくるようにします。
Trim11
 これで曲の切り出し作業が完了したので、ファイルを別名で保存します。ガレバンからiTunesに曲を書き出す際、「ガレバンのファイル名=iTunesの曲名」になるので、このファイルの名前も曲の名前にします。
 iTunesへの書き出しは「共有>iTunesに曲を送信」を選びます。
 すると下図のようなダイアログが出てきます。この情報はそのままiTunesに反映されるので、アーティスト名やアルバム名など必要な内容をタイプして、共有をクリックします。
Trim12
 すると、下図のような「ミックスダウンを作成中」というメッセージと共に、進捗状況を示すバーが現れます。曲の送信が終わると、自動的にiTunesが立ち上がり、やはり自動的に今書き出した曲が再生されます。
Trim13
 これで完了。
【応用1】
 録音ファイル時間が長いと、リージョンも左右に長く伸びるので、曲の切れ目を探したり、終了マーカーをドラッグするさい、延々と画面を左右にスクロールしなければいけなくて、大変だったりします。
 そんなときは下図の(1)のツマミを左にドラッグします。左にドラッグすればタイムラインやリージョンの左右の幅が縮まり、右にドラッグすれば伸びます。
Ouyoa1
 例えば、さっきまでの説明画面では、ウィンドウ左右一杯でタイムラインの経過時間は20秒強しかありませんでしたが、上図のタイムラインを縮めた状態だと、同じ幅でも表示されているタイムラインは約25分もあります。
【応用2】
 元のテープの状態が悪いと、無音部分にもノイズが入っていたりしますが、トラック音量を調整すれば、それをフェードアウトさせることもできます。
 下図の(1)の三角形をクリックすると、三角形の向きが下に変わり、音声トラックの下に「トラック音量」というラインが出てきます。
Ouyob1
 これは折れ線グラフのようにして、トラックの音量をコントロールすることができます。ラインの上をマウスでクリックすると、変更点を示す丸印が出来ます。それを下図の(1)のような形にすれば、音量がだんだん小さくなるフェードアウトになります。
Ouyob2
 もっと懲りたければ、トラックに様々なフィルタやエフェクトを追加して、低音を強調するとか高音をカットするとか、お好みでアレコレいじったりもできますが、まあ、そこいらへんはDAWソフトとしての使い方になってしまうので、興味のある方は調べて色々と試してみてください。
【オマケ】
今日もこれを録音中にネット検索して…
Img_2946
…これを発見したよ!(笑)
สามโทน (3 Tones) “โป๊ง โป๊ง ชึ่ง (Pong Pong Sueng)”

カセットテープのデジタル化計画

ION AUDIO TAPE EXPRESS  TAPEEXPRESS ION AUDIO TAPE EXPRESS TAPEEXPRESS
価格:¥ 7,350(税込)
発売日:2010-04-30

 PCにUSB接続できるウォークマン型のカセットプレイヤーを買いました。
 昔、旅行先で買った外国のカセットテープの音源を、テープがいかれちゃう前にデジタル化しておきたいな〜、と思いまして。
 機械の造りはけっこうちゃちいけど、値段(割引価格で5000円前後)を考えれば、良しとしましょう(笑)。
 私的なメリットは、まず設置型ではないので、作業時に場所をとらないところ。電源がUSB供給なので、アダプターいらずなのもマル(単3乾電池2本でも駆動可)。
 専用ソフトも付随していますが、Macだとそれをインストールしなくても、OSデフォルトのドライバーでちゃんと機器を認識してくれます。というわけで、ソフトはインストールせずに、録音はQuickTimeProかGarageBandか、どちらかでやることにしました。
 ちょいと両方試してみたところ、操作性と後編集のやりやすさから、ガレバンに決定。プレイヤーはオートリバース機能付きなので、1本丸々ガレバンで録音しちゃってから、後から曲単位で切り出すのも可能。
 機器をMac本体のUSB端子に接続して、新規プロジェクト作成。リアル音源トラックを作成して、入力源をUSB PuP Audio Deviceに指定。あとはカセットのプレイボタンを押して、入力レベルの調節をしたら、最初に巻き戻してカセット再生、ガレバンで録音。
 ここいらへんは、ガレバンの扱いに慣れていれば簡単至極なんですが、ガレバン使わない方にはニーズがあるかも知れないので、後日図解つきのHow To記事でも書きましょうかね(笑)。
 カセットプレイヤーにはイヤホン端子が付いているので、私はそれを外部スピーカーに繋いでモニタにしました。最初はガレバンでモニタリングしてみたんですが、フィードバック云々のエラーメッセージが出てしまったので。

 さ〜、これでかつて旅行先で買った色んな国のカセットの中から、お気に入りだったヤツをデジタル化するのだ!
 ……とはいえ、カセットがこんな感じで12ケース分あるので、
tape_case
まだまだ先は長いであります。ノンビリしているあいだにOSが変わって機器が対応しなくなった……なんてならないように気をつけなきゃ(笑)。

 余談。
 今回ちょいと困ったのが、ガレバンで録音用のプロジェクト名を何と付けようか、ということ。
なんせ私がデジタル化したいカセットテープは、表記がアラビア文字やらタイ文字やらオンリーで、アーティスト名も曲名もロクに読めない……ってなパターンが多いもんで(笑)。
 で、ふと思いついて、Wikipediaでアラビア文字の一覧表を探して、カセットのジャケと見比べながら、1文字1文字見つけ出してはコピペしていく……という方法で、何とかアーティスト名らしいものをアラビア文字で組んでみました。
 で、それを再度丸ごと検索窓にコピペしてググったところ……!
このカセットは……
tape_SaiedKhalifa
Saied Khalifa سيد خليفةと判明、しかも動画発見!

そしてこっちのカセットも……
tape_AbuArkyBakhit
同様にAbu Arky Bakhit ابو عركى البخيتで、やはり動画が!

 インターネットってすごい!!!
 これ、どちらも19年前にエジプトのアスワンで買った、スーダン音楽のカセットテープなんですが、いや〜、こんな便利な世の中になるなんて、あの頃は夢にも思わなかったなぁ……。
 まったく私も歳くったもんです(笑)。

CDのジュエルケースを簡単に分解する方法

 遠隔地の友人とCDのソフトケース化についてやりとりしていて、CDのジュエルケースの分解はコツを掴めば簡単なんだよと、iSight使ったムービーをYouTubeにアップして説明しました。
 で、このブログのアクセス解析を見ると、CDスリムケース関係の検索キーワードでいらっしゃる方が、けっこう定期的にいらっしゃるようなので、何かお役にたつかもと思い貼っておきます(笑)。スリムケース自体に関しては、この記事この記事をどうぞ。

 サラリーマン時代にマルチメディア・コンテンツ関係の仕事をしていたときに、ポリドールの偉い人に教えて貰ったやり方です(笑)。
 手順を文章で書くと、
1)ブックレット側のケースを外す
2)CDをインレイ側のケースから外す
3)インレイ側ケースの外側の角をつまむ
4)つまんだ角と対角線側を指ではさみ、ちょっとひねるような感じに外す
……ってなトコでしょうか(笑)。

イベント、無事終了しました

 油断していたら日が明けてしまいましたが、日曜日のイベント、無事終了しました。
 主催側に伺ったところ、大してパブを打つ前の段階から予約が集まり、何と宣伝用フライヤーが刷り上がったときには、既に予約でほぼ満席になってしまっていたそうで(笑)。
 というわけで、もし「行きたかったけど予約間に合わなかった〜」という方がいらっしゃいましたら、どうも申し訳ありませんでした。
 さて、イベントの方は、ゲスト一人ずつ+ホストという組み合わせのトークを、大越孝太郎先生、私、町田ひらく先生という順番で、一人あたり30分くらい(?)で一巡して、その合間に東方力丸さんのマンガ朗読(紙芝居のようなもの、と思っていただければ)を挟みつつ、最後に三人一緒に鼎談、という形でした。
 マンガ朗読は、大越先生のが『猟奇刑事マルサイ』から「恍惚の女医」、町田先生のが『たんぽぽのまつり』から「#9(…だったと思います、間違っていたらゴメンナサイ)本日確認したら、朗読作品は「たんぽぽの卵 #9」で、『たんぽぽのまつり』は収録単行本名でした……私のが『男女郎苦界草紙 銀の華』から冒頭部分、という内容でした。
 東方さんの朗読はシアトリカルで、私の『銀の華』に関しては、音の入っていないモブシーンでも、それっぽいガヤを入れてくださったり、全体的に男っぽい感じの声音だったのが、何だか嬉しかったです(笑)。
 町田先生のときに、バックスクリーンの投影画像にミスがあって、画像の天地がひっくり返ってしまっていたりしたのは、ちょっと残念でした。
 トークの方は、大越先生も町田先生も、流石に個性的で内容の濃いマンガを描かれているだけあって、お話しに一本「ドン!」とした芯が通っていて、実に聞き応えがありました。ポリシーというかフィロソフィというか、そんなものをしっかり持っておられるのだな、と。拝聴している私も、改めて我が身を振り返り、背筋がシャンと伸びるような、そんな心持ちに。
 で、質問コーナーでは私も調子に乗って、町田先生にネーム(セリフ)構成のコツなんかを、お聞きしてしまったり(笑)。いや、個人的に町田先生の作品の「余白」に、ずっと心惹かれておりましたもので……。
 大越先生のお話しでは、『猟奇刑事マルサイ』を巡るあれこれが、個人的にいろいろと考えさせられるものがありました。第三者である私がオープンにして良い内容なのかどうか、ちょっとその判断が難しいので、ここで詳細には触れませんが、何はともあれ本というものは、いつか買おうと思っているうちに、諸般の理由でいつの間にか市場から消えてしまい、気がついたときにはもう入手できなくなっている……なんてことが幾らでも起こりうるものなんですな。
 おそらくこういったリスクは、市場が狭かったり内容が先鋭的であったりする、マニアックでコアなものほど高いので、皆様、欲しいと思ったときが買い時ですよ、私の単行本も含めて(笑)。
 私も改めて、「『天国に結ぶ戀』と『マルサイ』の単行本、買っておいて良かった〜!」と思いました。
 事前の打ち合わせや出番の合間には、三人でアレコレ雑談をしていたんですが、「ひょとしてこういう話こそ、トークショーでやった方がいいんじゃない?」なんて言い合っていたくらい、イロイロと面白い話も出ていたので、これはお聞かせできなかったのが残念(笑)。
 で、ワタクシ、「せっかくの機会だから両先生の本を持参して、サインをお願いしようかな〜」なんて、事前には考えていたんですけど、当日そのことをコロっと忘れてしまい……てゆーのも、例によってめったに使わない携帯電話の発掘と充電で頭がパニックっちゃいまして、他のことがスッ飛んでしまい、更に打ち合わせの待ち合わせ場所まで間違えてしまったくらい、あたふたしてしまいまして……カバンに本を入れ忘れ(泣)。
 でも、諦めきれなかったので、急遽カバンに入っていたメモ帳(……がわりの折りたたんだコピー用紙)を出して、失礼を承知でサインお願いしちゃいました。
 それが、こちらこちら
 このまま保存しようか、それとも両先生の本の見返しに貼り付けちゃおうか、現在思案中(笑)。
 そんなこんなで、個人的には思いっきり楽しめちゃったイベントだったんですが、ご来場くださった皆様にも、ご同様にお楽しみいただけていたら良いんですけど。
「サインを…」と話しかけてくださった方、差し入れをくださった方、などなど、皆様どうもありがとうございました!

「田舎医者(後編)」休載のお知らせとお詫び

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 先ほど「バディ」編集長氏のブログでもご報告がありましたが、今月20日発売の「バディ6月号」掲載予定だったマンガ、『田舎医者(後編)』ですが、先月末、締め切り前に右手が腱鞘炎になり、絵を描ける状態ではなくなってしまったために、編集部にご相談した結果、一回休載ということにさせていただきました。
 これで完結編となるところ、楽しみにしていてくださっている読者の皆様と、ご迷惑をおかけしてしまったバディ編集部の皆様に、この場を借りてお詫び申し上げます。

 腱鞘炎の方は、一時期は絵を描くことはおろか、マウスを持つこともできないほど痛みましたが、現在では既に本復しておりますので、ご心配はご無用にお願いいたします。
 発症時、このままでは締め切りに間に合わなさそうだと見込まれた段階で、早めに担当編集氏にご相談して、やはり早めに休載という措置をとっていただけたおかげで、それ以上の無理をしないで済んだのが、スムーズな回復へと繋がったのではないかと思います。

 それにしても、腱鞘炎なるものは初めての経験だったので(今まではどんなに無理をしても、鉛筆を持てなくなるほど痛むようなことにはなりませんでした)、症状が最も酷かった時期は、メンタル面でかなりこたえました。このまま絵を描けなくなるんじゃないか、とか、直ったと思っても再び描き始めたら、またすぐ痛むようになるんじゃないか、とか。
 というわけで、少し休んでからマンガ作業を再開したとき、痛みが戻ってこなかったのには、心底ホッとしました。

 そんなこんなで、『田舎医者(後編)』の掲載は、来月発売の7月号になります。
 上に載せた下絵でお判りのように、モブが多くて作画が厄介な回ですが(笑)、頑張って作業中ですので、来月までいましばらくお待ち下さいませ。

表現規制を正当化する思想とゲッベルスの演説

 先月、何度かこのブログにエントリーをアップした「非実在青少年」規制問題ですが、残念ながら、現時点では審議続行で結論が先延ばしになっただけであり、まだ根本的な解決はされていません。
 また東京都のみならず、福岡県ではヤクザ漫画の販売規制が始まり、大阪府では女性向けコミック、ボーイズラブ・コミックも含めた規制に向けての動きが、京都府でも現職知事がマニフェストに同種の要項を盛り込むなど、その内容や場所がどんどん拡大しつつあるようです。
(全体の詳細はまとめサイトなどを参考に)
 そんな中で、先日、フリッツ・ラングの映画『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』のDVD(紀伊國屋書店)に封入されていた解説書を読んだところ、興味深い文章を見つけました。
 1933年3月28日、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの「ドイツ映画産業会議」における映画改革についての演説内容です。
 現在の日本で進行中の、表現規制に関する動きと比較すると、特にここで書いた記事の後半部や、同記事の最期で引用している規制推進派の発言と読み比べると、その思想的・レトリック的な類似がいよいよ興味深く思われるので、ここに紹介することにしました。

「映画は自由だが、一定の道徳的・社会的見解を考慮する必要はあり、社会の根本的な考えを認めなければならない。映画の危機の原因は道徳的なものにあり、検閲はそういったものに対立する作品に対してである。映画を画一化したり業界を弾圧する意図はなく、逆に業界団体は映画製作に大きな力を持つだろう」
(「運命の映画『怪人マブゼ博士』/小松弘」から筆者による要約)

 比較対象として、より判りやすくするために、前述した以前の記事で引用した発言も、内容の順番を揃えて要約してみます。

「言論や表現の自由は、それが社会のモラルや品格を損なうものであれば、その権利は必ずしも保障されるものではない。規制によって悪質な出版社にペナルティーを科して消していけば、健全な出版社を生かすことになり、出版業界全体のためにもなる」

 規制の内容自体に対する云々も問題ですが、個人的にはそれよりも、こういった規制の根本に潜むロジックの類似にこそ、これまで何度も述べてきたような、行政が「健全な社会」を要求すること(そのために「不健全なフィクション」を排除すること)と、それを社会が無自覚に受け入れてしまうこと(当時のナチスの支持率は50%近くだったそうな)に対する恐ろしさを感じてしまい、危機感がますます募ります。
 というのも、これらのロジックは「健全」「モラル」「道徳」「品格」といった、実態が極めて曖昧ながらも、それを是とするのが「社会通念として正しい」とされているものを利用したものだからです。それはそのまま、無自覚に受け入れられやすいということにつながってしまう。
 更には、それぞれの主張を個々の「人格」にまで拡大解釈されやすい、という側面もあります。規制派からすると、それに反対する「人物」は「不健全」なのだという情報操作もできるし、規制されたくない派にとっても、自分がモラルに欠けている人間とは思われたくないとか、ポルノ好きだとは公言しにくいとかいった、反対するのに及び腰になっても無理からぬポイントがありす。
 だからこそなおさら、「思考」や「表現」といったフィクション世界の問題と、「人格」や「犯罪」といったリアル世界の問題は、はっきりと分離して考えるべきであり、それを無意識に混同してしまう危険性や、意図的に混同しようとする忌まわしさを、私は改めて強調しておきたい。
 因みに、この映画『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』は、その完成と同じ年にアドルフ・ヒットラーが首相に就任、つまりナチス政権が誕生して上映禁止となり、監督フリッツ・ラングが故国ドイツを捨てて亡命する、そのきっかけとなった作品でもあります。

フリッツ・ラング コレクション 怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺書) [DVD] フリッツ・ラング コレクション 怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言) [DVD]
価格:¥ 5,670(税込)
発売日:2007-04-28

 解説書によると、上映禁止の理由は「公的な秩序と安全を脅かす」といった曖昧なものであり、当時上映禁止処分になった映画には、こういった理由が不明のものが少なからずあったらしい(記事中ではジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『にんじん』が例として挙げられています)です。
 これもまた、私が前にこの記事の後半で述べたような、「曖昧な基準で恣意的に内容を審査できるルール」の「いかがわしさ」を示す実例と言えましょう。

「非実在青少年」規制問題に関する追補と警鐘

 今回は、少し「ゲイ寄り」な内容です。
 前回で終わりにしようと思っていたんですが、エントリーをアップした後に、下のまとめ記事を読んだところ、これはもう一言つけくわえておくべきだと思ったので。
「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ〜Giazine
 とりあえず、私が最も気になったのは、以下の部分。

「マイノリティに配慮し過ぎた挙句、当たり前の事が否定されて通らないというのはどうしても納得出来ない」
「説明や調査データを示す必要も無いくらい規制は当たり前の事だ。正論でガンと言ってやれば良い」

 前のエントリーで私が参照として挙げた、「東京都小学校PTA協議会会長」にして「東京都青少年問題協議会委員」である新谷珠恵氏の発言だ。
 詳細を知りたくなり、実際の原典(第28期東京都青少年問題協議会 第8回専門部会議事録(PDF)/p.26〜27)に当たってみた。 すると、こういう内容だった。

「(前略)何でそういった人のことまでそんなふうに考えなきゃいけないのかなと思います。(中略)マイノリティに配慮しすぎたあげく、当たり前のことが否定されて通らないというのはどうしても私は納得できない。(中略)そういう団体の方たちに対する説明とか調査データもそうなんですが、極論を言うと、示す必要もないくらい当たり前、正論でガンと言っていいのではないかなと、そのくらい強く私は思います」

 婉曲な言い回しと語調のせいで、要約された記事ほどラディカルな印象ではないが、私が「気になった」部分に関しては、全く同じである。
 それは、世界を「当たり前」と「そうでないもの」に分けて考え、何の疑いもなく自分を「当たり前」に属するものとして定義し、その主観に基づく価値観を「正論」と表現することについても、やはり何の疑問も抱いていない、ということである。
 以前のエントリーでも危惧として述べたことではあるが、これははっきりとした言質だったので、改めて紹介してみた。
 こういった「無自覚の正義」による言動が、どれだけ恐ろしい可能性を孕んでいるのか、「当たり前」ではないセクシュアル・マイノリティならば、なおさら良くお判りいただけるのではないだろうか。
 私にとって身近なことろで言えば、以前このブログでも紹介したトルコの青年アーメット・イルディスも、2008年夏、そういう「当たり前」な人々の名誉を傷つけたという理由で、「正論」として実の家族の手で殺害されたのだ。
 元の発言を読むと、その主張をグローバル・スタンダードに基づくもののように言っているが、自分の主張を正当化するために、一部の既成事実を利用しているに過ぎないようにも見える。
 児童の保護というお題目にしても、同様だ。仮に、そもそもの発想の根本はそこにあったとしても、やはり前回のエントリーで私が想像したように、「目的」の達成のための「手段」として、意図的に「実在」と「非実在」の区別を排除した、抽象概念としての「子供のイメージ」を利用しているだけなのではないか。
 それが「教育」や「行政」の現場に存在し、その考えに基づく「法」が、知らないうちに密かに成立しそうになり、そして今も、成立の危機は去っていない……というのが、現状なのだ。
 しかも、幾らでも拡大解釈が可能なやり方で。
 それでもまだ「でもこの規制って、オタクやロリコンの問題でしょ? ゲイには関係ないじゃん」と思われる方には、昨今はネット上のコピペでも良く見かける、反ナチスを謳ったマルティン・ニーメラーの詩をもって、私の言に代えさせてただこう。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。
<参照元>〜Wikipedia日本語版

 最後にもう一つ。
 この問題に関して、私はTwitter上で、こんなことを呟いていた。

過去、行政が表現、特に絵画について、主観に基づく「健全・非健全」という定規を用いて介入した先例はと考えると、やはり最初に思い出されるのは、ナチスが唱えた「退廃芸術」かな。(original)
表現活動全般に拡げて、行政が創作物の内容を制限したり、創作者自身をも断罪した例と言えば、旧ソ連のあれこれ(社会主義リアリズムとかジダーノフ批判とかパステルナークとかソルジェニーツィンとかモソロフとかパラジャーノフとか……ああ、きりがない)とか。文革もそうか。(original)
だいたい、あんまり「健全、健全、健全……」と強調されるのを見ていると、「それって優生学?」って感じ。(original)

 いささか軽口めいたものだが、下記の新谷氏の発言を見ると、どうやら冗談ごとではないようにも思えてくる。

「(前略)雑誌・図書業界のためにも、きちんとした規制をしてあげることが、結局、悪質な業者、悪質も出版社が淘汰されていくということにもなるので、(中略)健全な業者、出版社を生かすために、どんどん悪質なものはペナルティーを科して消していくというような仕組みがかえって皆さんのためにもいいのではないかと思いました。(中略)言論の自由とか表現の自由とおっしゃいますけれども、それはプラスα、芸術性のあるときだと思います。(中略)やはり社会としてのモラルとか、品格とか、いろいろなものへの影響、そういったもののマイナスを考えれば、自由とか、そういったものの権利とかプラス、そういったものも減じられるというか、なくなると私は思います。(後略)」(第7回議事録(PDF)/p.35)

 この内容、特に、後半で語られる「モラル」と「芸術性」を念頭に置いて、ぜひもう一度、ここで例に挙げた、ムーアとレイトン、二つのヴィーナス像の逸話を思い出していただきたい。

「非実在青少年」規制問題に関する余談2

 続いてしまいました(笑)。
 そろそろ仕事に集中しないとヤバいんですが、もうちょっとだけ。
 前回同様に今回も、この問題に対しての具体的なあれこれからは少し離れて、こういった問題が生まれる背景について考えてみたかったので、内容もいささか戯れ言めいて感じられるかも知れません。

 私が海外の、特に欧米のジャーナリストやファンの方と話していて、たびたび受ける質問に、こういうものがある。
「モデルを使ってるの?」
 私の答えは、毎回同じ。
「マンガに関しては、モデルは使っておらず、ほぼ全て頭の中の記憶と想像だけで描いている」
 この質問は本当に多く、中には、私の使っている(だろう)モデルを、自分もモデルとして使いたいから、紹介して欲しいという写真家もいた。
 しかし、日本でこの質問をされることは、ほぼない。せいぜい、日頃マンガに触れる習慣が全くなく、マンガを読む機会があるのはゲイ雑誌上だけといった感じの、主に年配の方から、マンガだけではなくイラストも含めた質問として、2、3回聞かれたことがある程度だろうか。

 で、今回の問題に関して、いろいろ読んだり考えたりしているうちに、ふと、こう思った。
 ひょっとして、欧米と日本では、「絵」に対する感覚が根本的に異なっているんじゃないだろうか、と。
 日本人で、日常的にマンガに馴染みのある人ならば、一般的にマンガを描くのにモデルは使わない、というのが、既に共通認識としてありそうだ。だから、前述の質問をする人もいない。
 ところが欧米だと、写実の伝統が長いこともあって、絵を描くということとモデルを使うということが、日本人が感じるそれよりも、ずっと密接なものとして、意識の奥底に根付いているのかも知れない。
 だから、いくらマンガと言えども、それがチャーリー・ブラウン級にデフォルメされたカートゥーンでもない限り、半ば無意識的に背後にモデルの存在を感じてしまうのでは。しかも、それがリアル(これは写実的という意味のリアルではなく、自分に迫ってくる生々しさを感じるという意味でのリアル)であればあるほど、そんな「モデルの気配」が強くなる、とか。

 さて、ポルノ規制を主張する人曰く、「児童ポルノの被害者」というのには二種類あるらしい。具体的には、製作過程で性的虐待を受けた児童という被害者と、製作された画像を見ることで苦痛を受ける被害者ということらしい。<参照元>
 後者の「制作された画像を見ることで苦痛を受ける被害者」に関しては、前回のエントリーで既に意見を述べている。
 では、前者の「制作過程で性的虐待を受けた被害者」についてはどうかと言うと、実写のポルノグラフィーならばそのまま納得できるのだが、マンガ(やアニメやゲーム)に関しては、とてもそんなものが存在するとは思えない。
 ならば、マンガは規制論の対象外になりそうなものであるが、上記の参照元の言う「世界的」な基準(なにをもって「世界的」と規定するのか、という問題は、ここではとりあえず置いておこう)では、そうではない。
 これは、矛盾してはいないか。
 では、エロマンガにおける「被害者」が、「見ることで苦痛を受ける」ことのみに絞られるのだとしたら、そしてその論点が、実害の有無を問うのではなく、マンガの存在そのものが視覚的な暴力だというのなら、それは「児童虐待」ではなく「セクシュアル・ハラスメント」の問題であろう。

 しかし、現実に見られる論は、必ずしもそうではない。
 例えば、「社団法人 東京都小学校PTA協議会」が提出した、「青少年健全育成条例改正案の成立に関する緊急要望書」を読むと(因みに、この組織の会長である新谷珠恵氏は、実は、今回の条例案作成に関わった、東京都青少年問題協議会委員でもあるので、この要望書と今回の都条例の主旨は、ある程度以上は合致すると判断しても良いような気がする)、「私たちは、子どもたちが児童ポルノの犠牲者となり、その姿が大人の性的視線にさらされ、インターネット上で永久に広まっていくことを許すことができません」とか書いてある。
 これが、実在する児童のことであるのなら、私も全く異論はないのだが、しかし今回は「非実在青少年」である。ということは、マンガの登場人物である青少年が、性暴力の被害者だと言いたいのだろうか。どうも良く判らない。

 そこで、なぜ名言しないかの理由を、勝手に二つ想像してみた。
 まず、あえて「架空の児童」と「実在の児童」を区別をつけないことで、現実の児童が被害にあっている「児童ポルノ」という、言葉の持つネガティブ・イメージを利用し、それで「フィクションに対する規制」という実態を覆い隠そうという意図があるのではないか、ということ。
 もう一つは、本音では「犯罪を犯した小児性愛者」だけではなく、「そういうセクシュアリティを持ってはいるが、実際の社会では問題を起こしていない小児性愛者」をも、犯罪者予備軍もしくは絶対的な社会悪として、取り締まりたがっているのではないか、ということ。
 どちらにしても、私にとっては「おぞましい考え方」としか思えない。
 特に、後者の小児性愛の存在自体を社会悪として否定することは、環境次第でそれを同性愛に置き換えても論理が成立してしまう以上、私は断固として認めることはできない。
 幸いにして私は、ゲイにとっては過酷なイスラム圏ではなく、この日本に生まれたが、それは単なる「偶然」でしかない。
 ゲイとしての私が望むことは、どんな世界でもゲイが安全に生きられるということであって、イスラム圏のように異なる状況下であれば、ゲイというだけで鞭打たれても構わないなどという世界では、断じてない。

 ただ、そういったこととは別に、実はここには、最初に述べたような「絵とモデル」に関する感覚の、欧米と日本の根本的な差異が、「マンガにおけるそれも徹底規制すべし」という論が「世界的」な標準として現れる原因の一つとして、見えないところで横たわっているのかも……と、ふと思ったのだ。
 そういう感覚、つまり「一般的に絵とはモデルを使って描くもの」という感覚が、意識的にせよ無意識的にせよ根深く存在するとしたら、確かに「児童のキャラクターが出てくるエロマンガ」にも、「マンガの制作過程上で性的虐待を受けた児童」を感じてしまうかも知れない。
 そして、前述した矛盾や疑問が感じられるポルノ規制論は、欧米的な美術史を背景とした「絵とモデルの密接さ」といった感覚を共有できないまま、規制に関するロジックだけを、「世界標準」としてそのまま日本の文化史に当てはめているために、生じている歪みなのではないだろうか。
 例として言をあげさせていただいた沼崎氏も新谷氏も、どちらも米国で学ばれた経験がおありのようだし。

 まあ、我ながら、いささか想像を逞しくし過ぎているかもしれないという、自覚はある。
 ただ、そういった「絵とモデルの密接さ」に関しては、最初に述べた自分の実体験によるものに加えて、もう一つ別の例をあげてみたい。
 下の二枚の図版をご覧あれ。
carrollBouguereau
 二枚の「絵」ではなく「図版」と書いたのには、訳がある。このうちの片方は、「絵」ではなく「写真」だからだ。
 左が写真である。「不思議の国のアリス」の著者として知られるルイス・キャロルが、自分が撮影した少女のヌード写真に、彩色を施し絵画風に仕上げた作品。
 右は、19世紀フランスの画家、ウィリアム・アドルフ・ブーグローによる油彩画。
 この「写真(という現実の少女)」と「絵(というフィクションの少年)」の差異(二者間の隔たり)を見てから、改めて「写真(という現実)」と「日本のマンガ(というフィクション)」の関係を考えると、これらの二つの関係性は、その成り立ちから何から全く異なるものだ、という感じがしないだろうか。それこそ、会話が通じなさそうなくらい。
 今回は「児童のヌード」という意味で、こういう比較にしてみたが、例えば、ベラスケスの描いた肖像画と、写楽の役者絵の比較でもいい。そうすれば、同じ「実在する人物を絵に写すという行為の結果」とはいえ、それぞれの背景にある文化や感覚が、いかに異なっているかが見えるだろう。
 思想の「輸入」を考えるのならば、こういった文化的差異を踏まえるということは、大前提として必須なことだと思うのだが。

 因みに、キャロルの撮った少女ヌード写真は、ほとんどが破棄され、現存しているのは4枚程度だそうだ。対してブーグローの描く少年少女のヌード画は、美術館にも展示されているし、ポスターなどのインテリア・アートとしても大人気である。
 このことは、写真と絵という二つのメディアの間には、明確な境界線があるということの、一つの歴史的回答のように思える。
 もし今後、いたずらにその境界線をなくし、線の引けない場所に無理やり線を引き、曖昧な前提で解釈の範囲が恣意的に変化しうる状況になれば、昨日まで「健全」な家庭の壁を飾っていたブーグローの「無垢で愛らしい」複製画も、翌日からいきなり「所持することすら禁止」な「いかがわしいもの」になるかもしれない。
 そんな社会が「健全」だとは、私には到底思えない。