表現規制を正当化する思想とゲッベルスの演説

 先月、何度かこのブログにエントリーをアップした「非実在青少年」規制問題ですが、残念ながら、現時点では審議続行で結論が先延ばしになっただけであり、まだ根本的な解決はされていません。
 また東京都のみならず、福岡県ではヤクザ漫画の販売規制が始まり、大阪府では女性向けコミック、ボーイズラブ・コミックも含めた規制に向けての動きが、京都府でも現職知事がマニフェストに同種の要項を盛り込むなど、その内容や場所がどんどん拡大しつつあるようです。
(全体の詳細はまとめサイトなどを参考に)
 そんな中で、先日、フリッツ・ラングの映画『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』のDVD(紀伊國屋書店)に封入されていた解説書を読んだところ、興味深い文章を見つけました。
 1933年3月28日、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの「ドイツ映画産業会議」における映画改革についての演説内容です。
 現在の日本で進行中の、表現規制に関する動きと比較すると、特にここで書いた記事の後半部や、同記事の最期で引用している規制推進派の発言と読み比べると、その思想的・レトリック的な類似がいよいよ興味深く思われるので、ここに紹介することにしました。

「映画は自由だが、一定の道徳的・社会的見解を考慮する必要はあり、社会の根本的な考えを認めなければならない。映画の危機の原因は道徳的なものにあり、検閲はそういったものに対立する作品に対してである。映画を画一化したり業界を弾圧する意図はなく、逆に業界団体は映画製作に大きな力を持つだろう」
(「運命の映画『怪人マブゼ博士』/小松弘」から筆者による要約)

 比較対象として、より判りやすくするために、前述した以前の記事で引用した発言も、内容の順番を揃えて要約してみます。

「言論や表現の自由は、それが社会のモラルや品格を損なうものであれば、その権利は必ずしも保障されるものではない。規制によって悪質な出版社にペナルティーを科して消していけば、健全な出版社を生かすことになり、出版業界全体のためにもなる」

 規制の内容自体に対する云々も問題ですが、個人的にはそれよりも、こういった規制の根本に潜むロジックの類似にこそ、これまで何度も述べてきたような、行政が「健全な社会」を要求すること(そのために「不健全なフィクション」を排除すること)と、それを社会が無自覚に受け入れてしまうこと(当時のナチスの支持率は50%近くだったそうな)に対する恐ろしさを感じてしまい、危機感がますます募ります。
 というのも、これらのロジックは「健全」「モラル」「道徳」「品格」といった、実態が極めて曖昧ながらも、それを是とするのが「社会通念として正しい」とされているものを利用したものだからです。それはそのまま、無自覚に受け入れられやすいということにつながってしまう。
 更には、それぞれの主張を個々の「人格」にまで拡大解釈されやすい、という側面もあります。規制派からすると、それに反対する「人物」は「不健全」なのだという情報操作もできるし、規制されたくない派にとっても、自分がモラルに欠けている人間とは思われたくないとか、ポルノ好きだとは公言しにくいとかいった、反対するのに及び腰になっても無理からぬポイントがありす。
 だからこそなおさら、「思考」や「表現」といったフィクション世界の問題と、「人格」や「犯罪」といったリアル世界の問題は、はっきりと分離して考えるべきであり、それを無意識に混同してしまう危険性や、意図的に混同しようとする忌まわしさを、私は改めて強調しておきたい。
 因みに、この映画『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』は、その完成と同じ年にアドルフ・ヒットラーが首相に就任、つまりナチス政権が誕生して上映禁止となり、監督フリッツ・ラングが故国ドイツを捨てて亡命する、そのきっかけとなった作品でもあります。

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 解説書によると、上映禁止の理由は「公的な秩序と安全を脅かす」といった曖昧なものであり、当時上映禁止処分になった映画には、こういった理由が不明のものが少なからずあったらしい(記事中ではジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『にんじん』が例として挙げられています)です。
 これもまた、私が前にこの記事の後半で述べたような、「曖昧な基準で恣意的に内容を審査できるルール」の「いかがわしさ」を示す実例と言えましょう。