「非実在青少年」規制問題に関する余談2

 続いてしまいました(笑)。
 そろそろ仕事に集中しないとヤバいんですが、もうちょっとだけ。
 前回同様に今回も、この問題に対しての具体的なあれこれからは少し離れて、こういった問題が生まれる背景について考えてみたかったので、内容もいささか戯れ言めいて感じられるかも知れません。

 私が海外の、特に欧米のジャーナリストやファンの方と話していて、たびたび受ける質問に、こういうものがある。
「モデルを使ってるの?」
 私の答えは、毎回同じ。
「マンガに関しては、モデルは使っておらず、ほぼ全て頭の中の記憶と想像だけで描いている」
 この質問は本当に多く、中には、私の使っている(だろう)モデルを、自分もモデルとして使いたいから、紹介して欲しいという写真家もいた。
 しかし、日本でこの質問をされることは、ほぼない。せいぜい、日頃マンガに触れる習慣が全くなく、マンガを読む機会があるのはゲイ雑誌上だけといった感じの、主に年配の方から、マンガだけではなくイラストも含めた質問として、2、3回聞かれたことがある程度だろうか。

 で、今回の問題に関して、いろいろ読んだり考えたりしているうちに、ふと、こう思った。
 ひょっとして、欧米と日本では、「絵」に対する感覚が根本的に異なっているんじゃないだろうか、と。
 日本人で、日常的にマンガに馴染みのある人ならば、一般的にマンガを描くのにモデルは使わない、というのが、既に共通認識としてありそうだ。だから、前述の質問をする人もいない。
 ところが欧米だと、写実の伝統が長いこともあって、絵を描くということとモデルを使うということが、日本人が感じるそれよりも、ずっと密接なものとして、意識の奥底に根付いているのかも知れない。
 だから、いくらマンガと言えども、それがチャーリー・ブラウン級にデフォルメされたカートゥーンでもない限り、半ば無意識的に背後にモデルの存在を感じてしまうのでは。しかも、それがリアル(これは写実的という意味のリアルではなく、自分に迫ってくる生々しさを感じるという意味でのリアル)であればあるほど、そんな「モデルの気配」が強くなる、とか。

 さて、ポルノ規制を主張する人曰く、「児童ポルノの被害者」というのには二種類あるらしい。具体的には、製作過程で性的虐待を受けた児童という被害者と、製作された画像を見ることで苦痛を受ける被害者ということらしい。<参照元>
 後者の「制作された画像を見ることで苦痛を受ける被害者」に関しては、前回のエントリーで既に意見を述べている。
 では、前者の「制作過程で性的虐待を受けた被害者」についてはどうかと言うと、実写のポルノグラフィーならばそのまま納得できるのだが、マンガ(やアニメやゲーム)に関しては、とてもそんなものが存在するとは思えない。
 ならば、マンガは規制論の対象外になりそうなものであるが、上記の参照元の言う「世界的」な基準(なにをもって「世界的」と規定するのか、という問題は、ここではとりあえず置いておこう)では、そうではない。
 これは、矛盾してはいないか。
 では、エロマンガにおける「被害者」が、「見ることで苦痛を受ける」ことのみに絞られるのだとしたら、そしてその論点が、実害の有無を問うのではなく、マンガの存在そのものが視覚的な暴力だというのなら、それは「児童虐待」ではなく「セクシュアル・ハラスメント」の問題であろう。

 しかし、現実に見られる論は、必ずしもそうではない。
 例えば、「社団法人 東京都小学校PTA協議会」が提出した、「青少年健全育成条例改正案の成立に関する緊急要望書」を読むと(因みに、この組織の会長である新谷珠恵氏は、実は、今回の条例案作成に関わった、東京都青少年問題協議会委員でもあるので、この要望書と今回の都条例の主旨は、ある程度以上は合致すると判断しても良いような気がする)、「私たちは、子どもたちが児童ポルノの犠牲者となり、その姿が大人の性的視線にさらされ、インターネット上で永久に広まっていくことを許すことができません」とか書いてある。
 これが、実在する児童のことであるのなら、私も全く異論はないのだが、しかし今回は「非実在青少年」である。ということは、マンガの登場人物である青少年が、性暴力の被害者だと言いたいのだろうか。どうも良く判らない。

 そこで、なぜ名言しないかの理由を、勝手に二つ想像してみた。
 まず、あえて「架空の児童」と「実在の児童」を区別をつけないことで、現実の児童が被害にあっている「児童ポルノ」という、言葉の持つネガティブ・イメージを利用し、それで「フィクションに対する規制」という実態を覆い隠そうという意図があるのではないか、ということ。
 もう一つは、本音では「犯罪を犯した小児性愛者」だけではなく、「そういうセクシュアリティを持ってはいるが、実際の社会では問題を起こしていない小児性愛者」をも、犯罪者予備軍もしくは絶対的な社会悪として、取り締まりたがっているのではないか、ということ。
 どちらにしても、私にとっては「おぞましい考え方」としか思えない。
 特に、後者の小児性愛の存在自体を社会悪として否定することは、環境次第でそれを同性愛に置き換えても論理が成立してしまう以上、私は断固として認めることはできない。
 幸いにして私は、ゲイにとっては過酷なイスラム圏ではなく、この日本に生まれたが、それは単なる「偶然」でしかない。
 ゲイとしての私が望むことは、どんな世界でもゲイが安全に生きられるということであって、イスラム圏のように異なる状況下であれば、ゲイというだけで鞭打たれても構わないなどという世界では、断じてない。

 ただ、そういったこととは別に、実はここには、最初に述べたような「絵とモデル」に関する感覚の、欧米と日本の根本的な差異が、「マンガにおけるそれも徹底規制すべし」という論が「世界的」な標準として現れる原因の一つとして、見えないところで横たわっているのかも……と、ふと思ったのだ。
 そういう感覚、つまり「一般的に絵とはモデルを使って描くもの」という感覚が、意識的にせよ無意識的にせよ根深く存在するとしたら、確かに「児童のキャラクターが出てくるエロマンガ」にも、「マンガの制作過程上で性的虐待を受けた児童」を感じてしまうかも知れない。
 そして、前述した矛盾や疑問が感じられるポルノ規制論は、欧米的な美術史を背景とした「絵とモデルの密接さ」といった感覚を共有できないまま、規制に関するロジックだけを、「世界標準」としてそのまま日本の文化史に当てはめているために、生じている歪みなのではないだろうか。
 例として言をあげさせていただいた沼崎氏も新谷氏も、どちらも米国で学ばれた経験がおありのようだし。

 まあ、我ながら、いささか想像を逞しくし過ぎているかもしれないという、自覚はある。
 ただ、そういった「絵とモデルの密接さ」に関しては、最初に述べた自分の実体験によるものに加えて、もう一つ別の例をあげてみたい。
 下の二枚の図版をご覧あれ。
carrollBouguereau
 二枚の「絵」ではなく「図版」と書いたのには、訳がある。このうちの片方は、「絵」ではなく「写真」だからだ。
 左が写真である。「不思議の国のアリス」の著者として知られるルイス・キャロルが、自分が撮影した少女のヌード写真に、彩色を施し絵画風に仕上げた作品。
 右は、19世紀フランスの画家、ウィリアム・アドルフ・ブーグローによる油彩画。
 この「写真(という現実の少女)」と「絵(というフィクションの少年)」の差異(二者間の隔たり)を見てから、改めて「写真(という現実)」と「日本のマンガ(というフィクション)」の関係を考えると、これらの二つの関係性は、その成り立ちから何から全く異なるものだ、という感じがしないだろうか。それこそ、会話が通じなさそうなくらい。
 今回は「児童のヌード」という意味で、こういう比較にしてみたが、例えば、ベラスケスの描いた肖像画と、写楽の役者絵の比較でもいい。そうすれば、同じ「実在する人物を絵に写すという行為の結果」とはいえ、それぞれの背景にある文化や感覚が、いかに異なっているかが見えるだろう。
 思想の「輸入」を考えるのならば、こういった文化的差異を踏まえるということは、大前提として必須なことだと思うのだが。

 因みに、キャロルの撮った少女ヌード写真は、ほとんどが破棄され、現存しているのは4枚程度だそうだ。対してブーグローの描く少年少女のヌード画は、美術館にも展示されているし、ポスターなどのインテリア・アートとしても大人気である。
 このことは、写真と絵という二つのメディアの間には、明確な境界線があるということの、一つの歴史的回答のように思える。
 もし今後、いたずらにその境界線をなくし、線の引けない場所に無理やり線を引き、曖昧な前提で解釈の範囲が恣意的に変化しうる状況になれば、昨日まで「健全」な家庭の壁を飾っていたブーグローの「無垢で愛らしい」複製画も、翌日からいきなり「所持することすら禁止」な「いかがわしいもの」になるかもしれない。
 そんな社会が「健全」だとは、私には到底思えない。