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画集”Conan, The Phenomenon”

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“Conan, The Phenomenon: The Legacy of Robert E. Howard’s Fantasy Icon”
 ロバート・E・ハワードの「蛮人コナン」の図像的イメージを、その誕生から現在に至るまで辿った大判画集。
 版元は、現在フルカラーでコナンのコミックスを刊行しているダークホース社。おそらく、自社コミックスのPR的な意味もあるのでしょう。

 ハワードのコナンといえば、ヒロイック・ファンタジーの祖でもあり、そのイメージは「裸で大剣を振り回す、マッチョの野蛮人」という感じですが、そんなイメージがいかにして確立し、そして定着していくかを、豊富なカラー図版で追うことができるので、なかなか面白く見応えのある画集でした。
 例えば、初出時の1930年代の”Weird Tales”誌では、マーガレット・ブランデージによるカバー画の中に、コナンの姿を見ることができるんですが、現在のコナンのイメージとは全く異なっています。
 ブランデージの絵の特徴は、女性的なしなやかなエロティシズムと怪奇性にあるので、例え上半身裸で剣を振り回している男を描いても、粗野とか野蛮とかいったイメージとはほど遠いもので、描かれたコナンも、まるでルドルフ・ヴァレンティノか何かのように見える。ブランデージの作風に、ハワードのそれが合致していないんでしょうな。これがハワードではなく「ジョイリーのジレル」のC・L・ムーアだったら、イメージ的にピッタンコなんですけどね。

 で、そうなるとブランデージよりも男性的な作風で、エドガー・ライス・バロウズ作品の挿画などで有名なJ・アレン・セント・ジョンや、その一世代後のロイ・G・クレンケルが描くコナンなんてのを見たくなるんですが、残念ながらそういうものは存在していないのか、この画集には収録されていませんでした。
 ただ、セント・アレン・ジョンに関しては、前述の”Weird Tales”誌のカバー絵が一点掲載されています。残念ながらハワードではなく、『火星の黄金仮面』で知られる、バロウズ・フォロワーのO・A・クラインが書いた、金星もののカバー・ストーリーらしいのですが、コナンというアイコンを考えるにあたっては、図像学的な共通点もあって興味深いです。
 この、ハワードとバロウズという比較は、作品の内容的な共通点はもとより、図像学的には、アメリカではフランク・フラゼッタが、日本では武部本一郎や柳柊二が、いずれも双方の作品の挿画で人気を博しているので、コナンからもうひとつ幅を拡げて、「空想世界で戦う裸のマッチョ」の図像学を考えると、いろいろと面白い発見がありそうな気もします。

 さて画集では、それから時代が下って、50年代にノーム・プレスから出版された、コナンの単行本のカバー画も見ることができます。
 これらは、エムシュ(エド・エムシュウィラー)やフランク・ケリー・フリース、あと私の知らないところで、ジョン・フォルテやデヴィド・カイルという作家による絵なんですが、興味深いことのこれらのカバー画からは、「野蛮人」といったニュアンスは全く感じられず、絵の内容やタイポグラフィなどのデザインも含めて、まるで古代ローマ帝国を舞台にした歴史小説か、あるいはアーサー王伝説か何かのような書物に見えるという点。
 前述したバロウズとの共通要素も皆無と言って良く、キャラクターも裸のマッチョですらなく、前述したような普通のコスチューム・プレイ(念のため、これ、いわゆる「コスプレ」のことじゃないからね!)風に描かれているんですな。作風はともかく、図像学的な共通点だけに絞れば、まだ30年代のブランデージの描くコナンの方が、現行のイメージに近いというのが面白い。
 ただ、このノーム・プレス版の中にも、50年代末期に、ハワードではなくビョルン・ニューベリイ&L・スプレイグ・ディ・キャンプ名義によるコナンの単行本で、ウォーリー・ウッドがカバー画を描いているものが載っています。
 で、これが再びバロウズ的なイメージへの再接近を見せていて、しかも顔を顰めて歯をむき出しているコナンの表情など、バロウズ的なものには余り見られない「野蛮」というニュアンスがかいま見えているのが興味深い。この後に来る、フラゼッタによってイメージが確立するに至る、その橋渡し的な感じがします。

 さて、この後60年代になって、ランサー版の単行本カバーで、いよいよフランク・フラゼッタが登場します。で、やはりこれが、現在に至るコナンのイメージを決定し、しかも、オリジンであると同時に完成形でもあるというのが、以降の作家によるコナン像を見ていくと、良く分かります。
 60年代のランサー版では、他にボリス・バレジョーや、私の知らないところでジョン・ドゥイロという人のカバー画も載っています。ドゥイロの方は図版が小さいこともあって良く分からないんですが、この時期のバレジョーに関しては、完全にフラゼッタのフォロワーと言って良いでしょう。後にバレジョーは、フォトリアリズムという点ではフラゼッタを越える技術力を生かし、同傾向の作風のジュリー・ベルと組んで、共にファンタジー・アートのマエストロになりますが、その作品は物語絵というよりはピンナップ的な世界であり、ハワード的や、あるいはバロウズ的なものといったニュアンスからは遠くなっていきます。
 70年代のアメコミ版も、80年代から90年代のアーノルド・シュワルツェネッガーやラルフ・モーラーによる映画やテレビ版も、いずれもイメージの源泉は、フラゼッタの描くコナンにある。
 アメコミ版では、バリー・ウィンザー・スミスが、後にラファエロ前派やアールヌーボー絵画への接近によって、フラゼッタとは異なった味付けを見せますが、それらはあくまでも描画法や装飾性といった表層レベルのもので、コナンというイコンの造形そのものに関しては、やはりフラゼッタ直下のものにある。
 同時期のものでは、ケン・ケリーによるイラストレーションも画集には収録されていますが、これも完全にフラゼッタを踏襲したものになっています。

 ここで興味深いのは、コナンを描くにあたって、フラゼッタとケリーの作品は酷似しているがゆえに、その二つを見比べると、フラゼッタの作品には他の作家にはない、イラストレーション的には特異と言ってもいいような、ある特徴があることが判ります。
 イラストレーションというものは、基本的に「絵解き」ですから、特に物語絵のい場合は、そこには「説明」の要素が不可欠です。ケリーの絵を見ると、「なぜコナンがそういうポーズをとっているのか」といった、物語的な流れがはっきりと読み取れる。しかし、フラゼッタには、意外なほどそれがない。ある一瞬を切り取ったタブローとして、迫力はものすごいんですが、良く見るとキャラクターのポーが不可解だったりする。
 例えば、有名な赤マントのゴリラとコナンが戦っている絵を見ると、コナンのポーズもゴリラのポーズも、鑑賞者にとって「分かりやすい」決定的瞬間とは異なっている。仮に自分がこういうシーンを描くとすると、まず最初に思い浮かぶのは、コナンが剣を振りかざし、いまにもゴリラに斬りつけようとするという瞬間のポーズでしょう。しかしフラゼッタの絵では、剣を持った腕は水平に真っ直ぐ後ろへと伸びている。となると、これは斬りつけた剣を後ろに引いた、その瞬間のようにも思えますが、ゴリラ側のリアクションがそれに合致しない。ここには「これがこうなってああなりました」といった物語的な説明要素が、絵解きとしてのイラストレーションにしては、実に希薄なんですな。こういった特徴は、前述のケリーや、あるいは現在の作家の作品には、全く見られない。他の作家は、皆、イラストレーション的にもっと「明解」な画面構成にしている。

 では、フラゼッタの絵の、こういった特徴は欠点なのかというと、それが全く違うというのが、また面白い。フラゼッタの作品で重視されているのは、そういう「説明」ではなく、激しい動きを見せる複数の人体が絡み合い、それが朧な背景と共に、もやもやと画面にとけ込みながら、全部が一体化して巨大なうねりとなり、強烈なマッスとムーヴマンを醸し出すという、その「表現」そのものにあるからです。ある意味でミケランジェロ的とも言える、この表現力に、鑑賞者は圧倒される。
 こういったファインアート的な特徴が、フラゼッタを他の同傾向のファンタジー・アーティストとは一線を画した、孤高のマエストロにしているのではないか、なんてことを、この画集を見ながら感じました。

 話が逸れましたが、80年代末から現在に至る、様々な作家によるコナン像を見ていくと、キャラクターの造形はフラゼッタの流れを継承している感が強いとはいえ、その中にある種の流行のようなものや、あるいは個々の作家による個性の打ち出し方の違いなどが見えてきて、これまたなかなか面白い。
 流行という点では、フラゼッタやアメコミ版、映画版で見られた、革パン一丁というコスチュームは、現在では廃れています。どの作家の描くコナンも、チュニック様の衣で上半身も覆っていたり、あるいは上半身は裸でも、ボトムは鎖帷子やキルトのような長めの腰布であったりして、ボディービル的なニュアンスの強いかつてコスチュームよりは、だいぶ歴史物っぽいリアリズムを踏まえた傾向になっている。そして、そういったアレンジを見ていると、これはケルト風だな、とか、こっちはネイティブ・アメリカン風だな、とかいう感じで、それぞれのイメージ・ソースが分かりやすいのも特徴です。

 個々の作家の個性で言えば、ゲイリー・ジャンニの描く作品は、アラビアン・ナイトのようなオリエンタル世界への接近を見せ、画面構成や描画法にも、レオン・ベリー、エドウィン・ロード・ウィークス、グスタフ・バウエルンファイントといった、19世紀末のオリエンタリズム絵画からの影響が色濃いように見えます。グレゴリー・マンチェスの作品は、ネイティブ・アメリカン風のニュアンスが見られるし、マッスとしての筋肉のリアリズムにこだわりながら、それを粗めの筆致で的確に描くタッチは、N・C・ワイエスやハワード・パイルあたりの、20世紀初頭のアメリカン・リアリズムのイラストレーターたちとの共通点が伺われます。
 他にも、マイク・ミニョーラの描くコナンを見ると、ミニョーラは何を描いてもミニョーラだなぁと思ったり、前述したフルカラーのコミックス版の、ケイリー・ノード&デイヴ・スチュワートは、正直あんまり好きじゃなかったんですが、画集に収録されているカラーリング前のモノクロの鉛筆ドローイングを見ると、おやおや着色前の段階だとけっこう好きだぞとか思ったり。

 ただ、全体的な傾向としては、”Weird Tales”から始まりフラゼッタの頃まではまだ残っていた、怪奇というかホラーというか、そういったムードは、現在では完全に消えてしまっています。
 それと同時に、朦朧とした世界の中での「個」を描いたヒロイック・ファンタジーから、細部まで作り込まれた明解な世界の中での英雄の活躍というエピック・ファンタジー、あるいはハイ・ファンタジー的な世界への接近を見せているように感じられます。見返しに使われている絵なんかは、ハワードのコナンというよりも、まるで『指輪物語』のヘルム峡谷の戦いを描いたものみたいです。

 テキストの方はちゃんと読んでいないんですが、序文はマイケル・ムアコック(……ん? あんた、アンチコナンじゃなかったっけ?)。ハワードのバイオグラフィーも、豊富な写真入りで載っています。上半身裸になって、銃やナイフを構えていたり、友人と剣を交わしているコスプレ写真(こっちは現在日本でいうところの「コスプレ」の意です)なんてのもある。
 という感じで、ハワードのファンやヒロイック・ファンタジー好きにはもとより、ハワードのコナンは読んだことなくても、マッチョ絵が好きな人ならたっぷり楽しめる充実した画集です。オススメ。
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『タブウ』およびヴァルター・シュピース追補

 前回の記事を書いた後、ヴァルター・シュピースについて、もう少し詳しく知りたくなったので、とりあえず手頃そうな『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(伊藤俊治・著/平凡社新書)という本を読んでみた。

 結論から言うと、残念ながらF・W・ムルナウとの関係については、シュピースのドイツ時代のバイオグラフィー関係や、交友がバリ移住後にも続いていたということ、ムルナウの『ノスフェラートゥ』がシュピースの写真作品に与えた影響(特に魔女ランダを撮影したもの)などについて、軽く触れられているのみで、特に目新しいものはなかった。
 しかし、「南海を舞台にした映画を共同でつくるというプランも二人の間にはあった」という記述があり、これは『タブウ』という映画の成立要因を考えるにあたっては、なかなか興味深い事実だと言えそうだ。
 またこの本は、シュピースとムルナウの関係については、前述した通りではあるが、シュピースという作家の生涯や、彼がどのようにしてバリの文化に関わり、バリ舞踏やバリ絵画が現在知られるような形に至ったのか、その経緯や時代背景や思想はどういったものであったのか、などといったことについては、とても判りやすく解説されているので、シュピースやバリ芸術に興味のある方ならば、読んで損はない内容である。

 さて、それとは別に、私がこの本を読んで、もう一カ所、興味を惹かれた部分があった。それは、1983年にシュピースが、「同性愛の罪」によって逮捕されたことに関する、その時代的な背景についての記述である。(ただし本書では、この部分以外には同性愛者について述べている部分はないので、「同性愛者としてのシュピース」の実像を本書から伺い知ることは、残念ながらほとんど出来なかった)

 では、まず以下の引用をお読みいただきたい。

「1930年代末になると、ファシズムの影が濃くヨーロッパを覆いつくし、それが世界中に広がってゆくようになった。ヒットラーの台頭と日本のアジア侵略は、インドネシアを統治しているオランダ政府にも大きな影響を与えた。(中略)
 そして何十年もの間、暗黙に了解されてきた慣習が突然、秩序にとって危険なもののように見えはじめ、いわゆる"魔女狩り"が主として性道徳上の問題(特にホモセクシュアル)に対して向けられていった。ジャーナリズムも同調し、そうした人々に対し悪意のこもったキャンペーンを始めるようになり、家宅捜索状が出され、警察が容疑者たちを次々と取り調べ始めた。
(中略)わずか数ヶ月間に、インドネシアでは風紀紊乱(ホモセクシュアル)による容疑者が百人以上も逮捕され、多くの人々が同じ事態が自らの身にも起こるのではないかという不安におびえ暮らしているありさまだった。自殺、免職、結婚の解消などが相次ぎ、バリでもそうした状況を免れることができなかった」

 私が興味を惹かれたのは、こうしたカタストロフが起きる以前の状況、すなわち同性愛が「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という状況である。
 では、なぜそれに興味を惹かれたのか。
 それは、その状況が現在の日本と同じだからである。
 日本では、欧米で見られるヘイトクライムのような、いわゆる目に見える形としての「ゲイ差別」は、幸いにして殆ど見られない。また、ある種の宗教的基盤のような、同性愛を絶対的な悪とみなす価値基準も、おそらくは文化的に存在していない。
 ただし、どの社会でも一定数はいるであろう、同性愛を道徳的に悪しとする層は、日本社会の中にも確実に存在するであろう。じっさい、ネット上の匿名の場においては、本気なのか露悪趣味的な行為に過ぎないのかは別としても、そういった論調にお目に掛かることは、決して珍しくはない。
 では、なぜそれが実社会で表面化していないかといえば、それは単に、そういった人々を後押しする大義名分が存在しないということと、そういった行為自体が、現在の社会というシステムの中で「良くないこと」とされているからである。仮に、宗教右派のような思想が後押しをすれば、同性愛批判は「正しい」という信念のもとに表面化するであろうし、社会というシステム自体がそれを制約しなければ、やはり同様の結果になる。欧米におけるキリスト教右派による活動などは、前者に相当するし、中東などのイスラム国家における同性愛差別は、前者と後者と共に相当する。
 つまり、極論を恐れずに言うならば、日本における「ゲイ差別がない」状況というのは、社会というシステムによって「何となくそういう状況に置かれている」ということでしかない。

 これは前述した「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という、1930年代の「同性愛者狩り」が始まる前オランダ領インドネシアの状況と、実は何ら変わることはないのだ。
 しかし、その同じ「暗黙の了解」が、1930年代、ほんの数年のスパンで、社会のパラダイム・シフトによって崩れた。それまで表面化していなかったものが、大義名分や社会不安の影響といった後押しを得て、政治的な力となって顕在化したのだ。これは見方を変えれば、状況次第ではそうなって然るべき潜在需要が、かつての「暗黙の了解」の時代の中でも、既に存在していたのだとも言えよう。
 そして、シュピースはその犠牲となった。(ただし、シュピースは後に釈放はされている。彼の直接的な死因となった、収容所間の移送中の爆撃において、その拘留理由となったのは、ドイツのオランダ侵攻による「敵国人」であるということだった)
 このことは、同性愛を「何となく」寛容している「暗黙の了解」というものが、社会というシステム自体が変化していく局面においては、いかに脆弱なものであるかということを指し示している。

 では、同様のことが現在起こったならば、いったいどうなるだろう。
 欧米に関しては、同性愛者側からの抵抗がはっきりと出て、簡単に同じ結果にはならないであろうことが、充分想像できる。目に見える差別に晒されてきた欧米の同性愛者たちは、現時点において既に、政治的にも経済的にも、ある程度以上の行動力は持ち合わせているからである。
 しかし、日本ではどうだろう。

 これまで日本では、前述のように表面化したゲイ差別がないためもあり、団結や主張、或いは防衛の必要はなかった。権利を侵害されることはないが、同時に権利を主張することもなかった、あるいはする必要がなかったのだ。
 日本におけるゲイのライフスタイルは、一例を挙げれば、その多くがウィークデイやデイタイムは「普通に生活」しながら、夜や週末や自宅のパソコン・モニター上でのみ「ゲイライフ」を満喫するという、「日常と分離した非日常としてのゲイ」なのである。よって、そういった非日常としてのゲイ・ビジネスは、ある程度以上には盛んであるし、社交を目的にするにせよ、性的な充足を目的にするにせよ、そういった場には事欠かないという、楽しいゲイ・ライフを満喫できる恵まれた状況にある。
 しかし、例えばLGBT向けのTVネットワークであるとか、書店で普通に買えるエロだけではないLGBT雑誌であるとか、あるいは同性婚であるとか、そういったものになると、これらはいずれもゲイ文化、あるいはゲイという主体が、日常レベルでも機能している、あるいは消費の対象となっているがゆえに、初めて機能しうる類のものである。だが、日本では「日常」において、ほとんどのゲイが「姿の見えない存在」である以上、マーケット自体が存在しないのと同様なので、当然のように、前述したような類のものも存在しえない。
 このことは、例えばカミングアウトしていないゲイが、家族や友人、仕事の同僚などの前で、明確に「ゲイ向け」の商品を購入することができるかどうかを考えれば、分かりやすいであろう。現時点での日本のような、日常化していないゲイ・マーケットの消費層にとっては、「ゲイ向け」というそのものズバリではないが、「ゲイ受けのする」とか「実はゲイらしい」といった、ゲイ・コミュニティー内である程度の共通認識がありつつ、しかし「ゲイとは何の関係もない」というエクスキューズも可能な「商品」までが、精一杯なのである。

 こういった現象の是非は別にして、それが結果として、日本のゲイの置かれている現状が、欧米におけるそれとは異なっている状況をもたらしている。それは、政治や経済といった「日常」においては、日本のゲイ・コミュニティーは全く力を持っておらず、また、行動を起こそうともしていないということである。
 過去に何度か、ヘテロセクシュアルのサイドから、政治的に、あるいは経済的に、欧米同様にゲイという潜在人口を期待したアプローチをしたことはあった。しかし、そのいずれもが期待された成果は得られなかった。つまり、他ならぬゲイ自身が、それに賛同することなくオミットしたのだ。このことからは必然的に、多くの日本のゲイ自身が、ゲイがあくまでも「非日常」のままであることを望んでいるのであろうと思わされる。ゲイが日常化することを希望する人口は、却って少数派なのであろう。
 こういった現状を踏まえて、社会的なパラダイム・シフトが起こった場合、日本のゲイがそれに抵抗できる力を持ち合わせているかを考えると、残念ながら個人的には、どうも悲観的な予測しかできない。
 しかも恐ろしいことに、前述した1930年代のオランダ領インドネシアにおける「同性愛者狩り」は、同種の行為で知られるナチス・ドイツによって行われたのではなく、ナチスに対立しつつ、その影に脅かされていたオランダにおいて、社会的不安を背景にして生まれている。ファシズムという、いわば分かりやすい「悪」の所産ではなく、それに対峙する存在であるかのような、本書の表現を借りると「普段は明晰で合理的な考え方を持つオランダ人たち」の手によってなされたのだ。これは、こういった「同性愛者狩り」が、ナチスの優性思想などとは異なる類の、より普遍的な人間社会のありようである可能性を指し示しているようで、ある意味で、絶滅収容所よりもそら恐ろしいものを感じる。

 日本は差別もなく、ゲイにとっては住みやすい国かも知れない。しかし、その安穏さの立脚基盤は、慣習的な曖昧さに基づいているものであるがゆえに、同時にひどく脆弱である。そして、こうした曖昧さは、ゲイにとってのカタストロフが起こった際には、何の力にもなりえないであろう。
 本書でヴァルター・シュピースの晩年について読み、改めて、そんなことについて考えさせられた。

Dieux Du Stade 2008 カレンダー

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“Dieux Du Stade – Callendrier 2008 par Steven Klein”
 毎年出ている、フランスのラグビー代表選手のヌード・カレンダー、2008年版。今回のカメラマンはスティーヴン・クライン(Steven Klein)。
 この人は、かなり毒があったり、退廃的なイメージの作品を撮る作家という印象がありますが、このカレンダーでは、さほどアグレッシブな画面作りはしておらず、この作家にしては、ぱっと見は比較的大人しめの印象。

 とはいえ、表紙からしていきなり、全裸のラグビー選手が、金属製のラグビーボール型オブジェに、チェーンと手錠で繋がれている……なんて絵がくることからもお判りのように、単なる口当たりの良いピンナップというわけではなく、どこかビザールだったり性的だったりする仕掛けが、あちこちに散りばめられています。
 ビザール面では、鎖と枷というモチーフが頻繁に登場します。美術館か宮殿のような室内で、ギリシャ彫刻のようなポーズをとる全裸のラグビー選手の両足に、さりげなく足枷がはめられていたり、向かい合ってレスリングのようなポーズをとる二人が、足枷と鎖で連結されていたり。中には、バンザイ・ポーズで鉄格子に手錠でつながれている男……なんていう、まんまボンデージな写真もあります。
 ただ、流石にサドマゾヒズム的なところまでは突っ込めなかったのか、ハッタリを効かせたわりには、ちょいと消化不良な感じもあり。

 性的なほのめかしという点では、かなり挑戦的です。特に、小道具としてビデオカメラが配された作品が面白い。
 このシリーズは二点あり、一つは椅子に座って股間を手で覆った男と、それを見下ろすようにビデオを構えている男という構図、もう一つは、レスリングのポーズで組み合う二人の男を、別の男がビデオ撮影しているというポーズ。これらの作品は、鑑賞者に必然的にポルノビデオの撮影現場を連想させます。前者はオーディションかマスターベーション、後者はズバリセックスシーン。
 こういった、ポルノ産業的な連想を引き起こすことよって、実際に写真で描かれているもの以上の、より性的で淫靡なエロティシズムが、鑑賞者の内面に、自動的に生成されるという仕掛けになっている。アート的なアプローチを使って、ヌードとポルノグラフィーの境界を混乱させるという、巧妙かつ興味深い作品。

 この、境界の恣意的な混乱という面では、他にも幾つか面白い作例が見られます。
 例えば、片手で股間を抑えて椅子に座るという、何ということのないポーズが、一枚の鏡を配することで、自慰のイメージへと転じている作品。
 あるいは、大理石の壁龕の中に立ち、法悦的な表情でギリシャ彫刻のような力強いポーズをるという、まるで教会にあるバロックの彫刻の聖人像のようなコンポジションを用いつつ、同時に、彫刻にはあるまじき滝のような汗を流させることによって、生きた肉の存在感を強調し、肉欲的なエクスタシーも連想させるような作品。
 また、裸の男とモーターサイクルという、いささかありふれた組み合わせを使いながらも、男をバイクの正面から向かい合わせに跨らせることによって、まるで人間と機械のファックのようにも見える作品。
 こういった、一見するとさほどアグレッシブには見えないが、実はかなり挑戦的な意図が存在している作品群は、かなり面白く見応えがあります。

 このように、鎖や枷といったビザール的な作品、性的な仄めかしのある作品、そして、詳述はしませんでしたが、もっとシンプルな、純粋に肉体美やコンポジションを追求したヌード作品が、このカレンダーには、入り交じって配置されています。
 カレンダーとはいえ、6枚綴りや12枚綴りではなく、一ヶ月が二枚に分かれている上に、ボーナスページも加わった、総計30枚というカレンダーらしからぬヴォリュームです。しかもサイズはA3と大判で,使い終わっても切り離さずに保存できるリング製本。ページ全面が写真で、カレンダーのタマ(日付など)は上部に小さく一行入っているだけ。
 これを壁にかけても、ぱっと見ただけじゃ日付は判らないし、メモを書き込み余白もなし、といった具合で、カレンダーとしてはおよそ実用的ではないですが(笑)、紙質や印刷は文句なしのハイ・クオリティ、28ユーロというお値段に相応しい、持っていて嬉しい立派な写真集になっています。

 残念ながら、日本のアマゾンでは扱っていない様子。2007年版はあったのに、ここんところホント、日本のアマゾンはこういったものの取り扱いが渋くなっちゃいましたね。紀伊國屋BookWebにはあったんだけれど、残念ながら現時点では「入手不能」の表示が。
 本国フランスのアマゾンには、まだ在庫がある模様。アメリカのアマゾンでも、マーケット・プレイスに出品がありますが、既にプレミア扱いなのか、かなり割高です。

“Lash!”

lash
“Lash!” by Alvin Easter

 洋書の紹介です。
 副題に”The Hundred Great Scenes of Men being Whipped in the Movies”とあるように、「男が鞭打たれる名シーンのある映画百選」っつー、アメリカ産ムービー・ガイド・ブック。まぁ、なんてステキな本!(笑)
 こんなマニアックな本を、書く人も書く人だけど、出版するところがあるってのも、ホント偉いと思う。広いなぁ、アメリカ(笑)。

 内容は、「『すべての旗に背いて』のエロール・フリン」だの、「『十戒』のジョン・デレク」だの、「『逆襲! 大平原』のスティーブ・リーヴス」だの、「『マスターズ/超空の覇者』のドルフ・ラングレン」だの、「『スターシップ・トゥルーパーズ』のキャスパー・ヴァン・ディーン」だのといった具合に、男の鞭打ちシーンのある映画の解説が、ずらずら百本並びます。
 で、この解説ってのが、これまた潔いっつーか、何というか、もう徹底して鞭打ちシーンの説明に徹しているんですな。ちょっとサンプルに、『スターシップ・トゥルーパーズ』の部分を抄訳してみます。

21章 『スターシップ・トゥルーパーズ』のキャスパー・ヴァン・ディーン(1998年制作・カラー)
 ジョン・リコ(キャスパー・ヴァン・ディーン)は、22世紀の軍隊の実弾射撃訓練で、小隊を率いている。彼の指揮下にある新兵の一人が、この訓練中に死ぬ。過失と能力不足で自分を責めるリコに、管理者への処分として刑が言い渡される。
 リコの上官であるズィム軍曹(クランシー・ブラウン)は、トレーニング・キャンプの練兵場の反対側にある、金属製のアーチまでリコを連れていく。リコは上半身裸だ。炎天下、仲間の新兵たちが、罰されるリコを見るために、整列して居並ぶ。
 ズィムは、アーチの両側12フィートの高さから紐を引き下ろし、リコの手首を縛る。ズィムがアーチのボタンを押すと、リコの両腕は同時に斜め45度の角度に、グイッと引っ張り上げられる。次にズィムは、短い巻いた革をリコの口に押し込む。
「これを噛みしめろ、助けになる」と、軍曹が言う。
「鞭打ち十回!」の命令が下され、リコの背後に立つ一人の新兵が、鞭をしごいて打擲をはじめる。血まみれの傷が、リコの日焼けした肌に刻まれる。リコは、くぐもった叫び声を上げて、一打ごとに身をよじる。
 五打目で、リコの膝は崩れ、手首に体重をあずける形でぐったりする。六打目を喰らう前に、巻いた革が口から落ちる。しかし、鞭打ちは続く。

 ……とまあ、あらすじ紹介からして、映画のストーリーではなく、鞭打ちシーンの解説しかない(笑)。
 で、続いて考察が述べられるんですが、その内容も「この映画は、二十世紀のSF映画で、鞭打ちシーンで特筆されるべき最後の一本である」とか、「発達したCGIで、鞭打ちと完全にシンクロしてミミズ腫れが走るのが素晴らしい、ゆえに、レザーが肉を切り裂くイメージに、説得力がもたらされている」とか、「28歳のキャスパー・ヴァン・ディーンの、さっぱりした短髪で顎も四角いハンサムな顔と、美しく日焼けしたなめらかなトルソが、このシーンの価値を更に高めている」なんて具合で、もうゲイ目線とSMマニア目線が丸出し(笑)。
 じっさい前書きで、「本書における主眼」みたいな説明があるんですが、それもこんな感じになってます。

(1)誰が鞭打たれるの?
(2)鞭打ちの理由は?
(3)鞭打たれる受刑者の反応は?
(4)受刑者はシャツを着てるの?
(5)受刑者はどう縛られているの?
(6)鞭打ちシーンのカメラ・アングルは?
(7)鞭打ちはどう始まって、どう終わるの?
(8)鞭の音はどんな感じ?
(9)受刑者の肌のダメージ描写は?
(10)鞭打つ人は誰?
(11)鞭打ちシーンの長さは?

 ……ってな感じで、この本を読めば、鞭打ちシーンのある映画に関する、上記の情報が得られるってわけ。
 で、それぞれの主眼点の解説も、これまたマニア心丸出しでして(笑)。例えば、「(4)受刑者はシャツを着てるの?」では、

 全ての鞭打ちは、受刑者が腰まで服を脱がされているべきである。よって、『荒野の10万ドル』のリチャード・ハリソンや、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』のハリソン・フォードのような、鞭打たれる受刑者がシャツを着たままのものは、本書の「百の素晴らしい場面」からは除外した。
 ただし、受刑者がシャツを脱がされていなくても、シャツの背中が破れているといった場合は、少ないながらもリストに入れたものもある。例えば、『ドラゴナード/カリブの反乱』のパトリック・ウォーバートンや、『海賊黒ひげ』のキース・アンデスなどがそうである。これらのシーンは、シャツの有無の問題を越えて、それを相殺するだけの十分な価値があるからである。

 ……なんてことが、大マジメに書かれている。
 これ、この「マジメ」ってのが、私的にはポイントが高い。というのも、私はこーゆーマニアックなことに関して、変に斜に構えてみたり、露悪的なネタっぽく取り上げるスタンスってのが、あんまり好きじゃないんですな。
 これは、エロティック・アートとも関係してくるんですが、マニアックな価値観の所産というものは、それに対して真摯に、真剣に取り組んでいるからこそ、既成の価値体系から逸脱し、時としてそれを無効化してしまうような、独自の「パワフルさ」を生み出す、というのが持論なもので。
 そういう意味でも、この著者の、自分が好きなことにピンポイントで絞った内容で、それを十分な質と量で論じ尽くすってスタンスは、かなり好感度大です。ちょっと、お友達になりたい感じ(笑)。

 ただ、図像が表紙の一点のみ(『最後の地獄船』のアラン・ラッドだそうです)で、本文はテキストのみで図版の一点もなしってのは、ちょいと寂しい。やっぱこーゆー内容だと、写真の有無って大きいですからね。
 そこを除けば、上述したように充実した内容ですし、これをガイドにビデオやらDVDやらを探すっつー楽しみかたもあるので、興味のある方は入手されてみてはいかがでしょう? 日本のアマゾンで買えます。
amazon.co.jpで購入
 私は、内容がツボだったということもあって、けっこう楽しめました。
 ……とはいえ、いかんせん英語だから、パラパラと斜め読みって感じで、きちんと通読はしていませんが(笑)。
 ちなみに、米アマゾンでこの本の商品ページを見ると、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」で出てくるのが、両手吊りでガット・パンチングされる半裸のマッチョやら、電気拷問やら、鞭打ちなんかの責め場がある、映画のDVDばっかってあたりが、何とも楽しい&納得がいきます(笑)。

サイン会とか画集とか禁書とか

 前回の記事で「いつの間にか、パリの本屋でサイン会をすることになっていた」と書きましたが、メールをやりとりするうちに、もう一つ新事実が発覚。
 ギャラリー・オーナーのオリヴィエ・セリにメールして、サイン会の予定が入っていることを確認しましたが、そのメールを良く読んでみたら、「サイン会は、H&Oから出る君の新しい本の発売にあわせて開催する」と書いてある。
 ……新しい本?
 実はH&Oとは、次のフランス語版コミックに関する契約を、既に交わしています。翻訳やレイアウト作業も、昨年暮れから進行中ではありますが、今度は短編集ではなく長編なので、いくら何でも3月発売には間に合いそうもない。だいいち、私はまだ表紙イラストのラフすら上げていないし。
 そうなると、残る可能性は一つ。一昨年に契約書を交わし、去年の頭にはレイアウトもでき、PDF校正も済ませたものの、発売が延び延びになっていた、”The Art of Gengoroh Tagame” というタイトルの画集。
 で、今度はH&Oのアンリに、「オリヴィエ・セリが、H&Oから私の新しい本が出ると言ってるんだけど、そうなの? 本当なら、どの本を出すの?」とメールしました。すると「”The Art of Gengoroh Tagame” を、君の来仏に併せて出すことにしたよ」とゆー返事。
 いや、いいけどね、画集が出るのは嬉しいし。でも、発売決定したんなら知らせろよ! って感じではあります(笑)。
 そんなこんなで、ここしばらくフランス絡みで、「本人が知らないことを、第三者からの伝聞で知る」ことが、二件連続発生(笑)。
 さて、アンリからのメールには、それ以外にも「bad news がある」と書かれていました。カナダ向けに出荷した私の仏語版単行本が、輸入禁止品扱いになってしまったそうな。
 調べてみると、カナダはポルノグラフィに関する法規制が厳しく、日本のアダルト・コミックスが、チャイルド・ポルノに引っかかってしまった例が見つかりました。だとすると、”Gunji” には「TRAP」が、”Arena” には「非國民」が収録されているので、それが原因か。
 ……と思ったんですが、もうちょい調べてみたら、2004年度と2005年度のカナダの輸入禁止品目リストみたいなのを見つけて、それの COMIC BOOKS / Prohibited リストの中に、日本版の『嬲り者』『柔術教師』『銀の華(中・下)』『PRIDE(1・2・3)』を発見。
 まぁね、表題作と「俺の先生」で高校生が出てくる『柔術教師』、子供が男女郎を買いにくる『銀の華』、「TRAP」と「非國民」が収録されてる『PRIDE』は判る。しかし『嬲り者』は、チャイルド・ポルノにはかすりもしなさそうなんだが……。
 とにかく、どんな理由かは知りませんが、カナダでは私のマンガは禁制品のようです。う〜ん、昔「さぶ」に書いた小説で、伏せ字をくらったことはあるけれど、禁書扱いは初めてかも(笑)。でも、本家サイトのアクセス解析を見ると、カナダからの訪問客数は、日本、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアに次いで、今月もちゃっかり6位にランクインしていますが……。
 所変われば品変わる、とは言いますが、つい先日新聞の件があっただけに、フランスとフレンチ・カナディアン、ご先祖様は一緒だろうにここまで違うものか……と、何だか驚きも新たです。

及川健二『ゲイ@パリ』予約受け付け開始

 10月25日、ジャーナリストの及川健二さんの著作『ゲイ@パリ 現代フランス同性愛事情』(長崎出版/\2,310)が発売されます。現在、オンライン書店bk1で、予約受け付け中。
 以前にもここで書いたことがありますが、じっさい発売される本がどんな内容になったかといいますと、及川さんからメールで目次の一覧をいただいたので、ちょっと長くなりますが、以下にコピペします。
—————————————–
第1部 フランスの同性愛、最新事情ルポルタージュ
序章
1 ゲイのパリ市長が誕生した日
2 テレビ番組でのカミング・アウト
3 斬新な改革。国民からの高い支持
第1章 フランス人は同性愛者をどう思っているのか
1 五六%のフランス人が同性愛者の路上キスを容認
2 同性愛者は変人か
3 九一%が同性愛者への暴力に怒り
4 フランス人はゲイ・フレンドリーか
5 『Ttu』調査から見えてくるフランス人の「同性愛」観
6 フランス人の五七%が同性婚に賛成
7 同性愛者の九五%が「いずれ同性婚は合法化される」と答えた
8 フランスはカトリック教徒の国か(一)
9 フランスはカトリック教徒の国か(二)
10 八〇%が中学校にコンドームを置くことに賛成
第2章 パートナーシップ制度パクス(PACS)
1 同性愛と強制収容所
2 ミッテラン政権下における同性愛の前進
3 フランスの裁判制度
4 エイズがすべてを変えた
5 同性カップルも利用できるパクス(連帯民事契約)とは何か
6 事実婚(内縁)と結婚の中間にある緩い形での準結婚制度
第3章 焼き殺されかけたゲイ
1 凄惨な写真
2 催眠ガスをかけられ暴行される
3 「汚いホモは死ねばいいんだ」
4 容疑者の逮捕
5 容疑者不起訴。警察への不信
6 ヴァネスト国民議会議員の発言
7 「同性愛はあきらかに人類の生存に対する脅威だ」
8 「同性愛は異性愛より劣等」発言が有罪
第4章 フランス初の同性婚
1 ドキュメント同性婚 三日前〜当日
2 同性愛者と保守派が市庁舎外で激突。民族派・ドヴィリエ欧州議会議員の襲撃
3 「これは歴史的な瞬間だ」ついに結婚式が挙行
4 市長は停職一カ月。社会党重鎮も批判
第5章 ノエル=マメール市長はなぜ同性婚を執り行ったのか
1 「同性婚について話したことのない家庭はない」
2 「政治家は同性愛者の問題に逃げの姿勢でいる」
3 ノエル=マメール氏インタビュー
4 「フランスにおける同性愛者の状況は最良とはいいがたい」
5 ホモ嫌いとの闘い
6 遺伝子組換トウモロコシをジョゼ=ボベと引っこ抜いた理由
7 暴動の原因は差別、サルコジ内相「社会のクズ」発言は危険
第6章 フランスの政治家と同性愛
1 ミッテランの秘蔵っ子
2 ジャック=ラング元文化相はアイドル政治家
3 同性カップルの結婚を公然と支持した最初の政治家
4 『差別的な発言の取締りに関する法律』とジョスパン元首相の敵意
5 シラク大統領がゲイ雑誌『Ttu』に登場
6 シラク氏曰く、「私はパクスの象徴的な貢献を認識しています」
7 フランスでもっともセクシーな女性政治家
8 同性婚賛成に転向した次期大統領候補・ロワイヤルさん
第7章 フランスとHIV・エイズ
1 フランスのHIV新規感染者は七〇〇〇人
2 フランス最大のHIV啓蒙・市民団体『AIDES』とは何か
3 フェラチオでHIVに感染するか
4 HIVと闘う政治家
5 ロメロさんの勇気ある行動
第8章 フランスのトランスジェンダー
1 トランスジェンダーによるデモ
2 女の子ふたりがトップレスになった
3 エコロジスト・性労働者・医師・ブラジル移民・パリ区議
4 様々な人種のトランスジェンダーが働く事務所
第9章 カミーユ=カブラル区議インタビュー
1 横浜エイズ会議、日本のトランス=マコさん
2 初めて選挙にでたときの話、ゲイのドラノエ・パリ市長
3 トランスジェンダー・性労働者が抱える問題
4 性労働者はプロとして認められるべきだ
第10章 一般企業が出展する欧州ゲイ・サロン
1 『欧州ゲイ・サロン二〇〇四』レポート
2 フランスには四〇〇万人近くの同性愛者がいる
3 『欧州ゲイ・サロン 二〇〇五』レポート
第11章 あれこれ雑記『フランス同性愛』
1 パリのゲイ・プライド(la Marche des Fierts)
2 ペニスを模したおもしろHIV啓蒙カード
3 日本のゲイ術は人気
4 田亀源五郎の天才的な作品
5 サルコジ内相側近が同性カップルの親権・養子縁組を支持
6 マッカーシズムで「同性愛」は国賊扱いされた
7 あるレズビアンとの対話
8 映画『愛についてのキンゼイ・レポート』で描かれるレズビアン
9 ボカシとモザイクとエロ
10 パリのゲイ・タウン、マレ地区
第2部 フランスの政治家にインタビュー
パトリック=ブローシュ国民議会議員&パリ市議(社会党) パクス(PACS)法をつくった超ゲイ・フレンドリーな政治家
1 ミッテラン政権、ジョスパン内閣での前進
2 パクスはこうして誕生した
3 同性婚、同性カップルの親権・養子縁組、女性カップルの人工授精に賛成する理由
4 「ホモ嫌い」、ベーグル市での同性婚、ヴァネスト議員の放言、HIV感染拡大
5 与党・国民運動連合(UMP)は同性愛者に貢献しているか
6 同性愛者がスケープゴートにされないか
アレクサンドル=カレル・『同性愛と社会主義』代表 社会主義は同性愛者の人権を守る
1 『同性愛と社会主義』
2 シラク大統領は同性愛者を裏切った。
3 社会党が同性愛者の権利向上に貢献した
4 同性カップルの養子縁組に賛成する理由
5 地方では同性愛差別が根強い
6 映画『ブロークバック・マウンテン』
7 社会主義と同性愛は水と油だと思ってきた
ヤン=ヴェーリングフランス緑の党・全国書記(党首) 緑の党は超ゲイ・フレンドリーな政党
1 直線的経済から循環型経済へ
2 郊外暴動・原発・遺伝子組み換え作物
3 緑の党がゲイ・パレードに参加する理由
4 同性愛について国民運動連合と社会党を採点する
5 緑の党が与党になったら提案するゲイ政策
リチャード=サンチェス・フランス共産党『自由・民主・反差別委員会』責任者 人類解放のために同性愛者の権利が守られるべきだ
1 同性愛者は許し難い差別の犠牲者だ
2 共産党がゲイ・パレードに参加する理由
3 共産党は同性婚・同性カップルの養子縁組に賛成する
4 HIV拡大には予防の原則が必要
5 フランス国民運動連合・社会党・緑の党を採点する
6 映画『ぼくを葬る』はすばらしい
ステファン=ダセ・『ゲイ・リブ』代表 保守の立場から同性愛者の権利を守る
1 ゲイ・リブは国民運動連合(UMP)と友好関係にある
2 国民運動連合は大きな進歩を実現させた
3 保守の立場から同性カップルの養子縁組・同性婚に賛成する
4 社会党はゲイを被害者化している
5 保守政治家が同性愛者から嫌われる理由
6 ゲイ・リブがゲイ・パレードをボイコットした理由
7 幸せなゲイの話があってもいい
クリストフ=ジラール・パリ市助役 パリ市長のブレーンは日本通の同性愛者
1 自分自身に嘘をつきたくないから、カミング・アウトした
2 赤毛のダニー、ベーグル市の同性婚、嫌がらせの手紙
3 ホモ嫌い、パリ市長のカミング・アウト、ゲイ・プライド
4 「結婚しない権利」を持ちたい、だから同性婚に賛成する
5 緑の党は最もゲイ・フレンドリーな政党だ
ブルノー=ゴルニッシュ欧州議会議員&『国民戦線』全国代理 極右ナンバー2が喝!「ゲイ・パレードは認められない」
1 極右ナンバー2が語るイラク戦争・アメリカ
2 「イラク内での自爆攻撃はレジスタンスだ」
3 「ゲイ・パレードは認められない」
インタビューを終えて
あとがき
—————————————–
 どうです、読み応えありそうでしょ?
 私についても、ちょっと書いてくださったそうで、いやいや、ありがたい限りであります。
 及川さん御自身はノンケですけど、こういった事柄について硬派な立場たら真摯に取り組んでおられる方なので、ぜひ応援よろしくお願いします。
及川さんのBlogの関連ページ
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『聖女の臀堂』春川ナミオ

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 中野タコシェさんから、春川ナミオさんの図録『聖女の臀堂』が発売されました。
 春川ナミオさんといえば、エロティック・アートに興味のある方、特にノンケSMの男マゾ系ジャンルでは、もう知らない人はいないだろうというくらい有名な画家。
 一貫して描かれる、「巨女のお尻に小柄な男が下敷きにされている」という緻密で繊細な鉛筆画は、他に類を見ない個性といい、絵画的な完成度の高さによる美麗さといい、日本のエロティック・アート界が誇る至高の存在の一人、と言いたくなってしまうほど、本当に素晴らしい。
 かく言う私もずっとファンでして、今回の図録の解説で、自分が入手しそびれている画集が三冊もあると知り、悔しさに歯噛みをしているところです(笑)。
 じっさい、SM好きではあってもゲイである私には、氏の描かれるような、巨女への屈服といったファンタジーはありません。しかし氏の作品には、そんなセクシュアリティの差異を越えて、私を圧倒する完成度とパワーがあります。
 ちょうど、つい先日発売されたばかりの雑誌『QJr』の対談で、私は自分の感じるところのエロティック・アートの魅力を、「作者のファンタジーのみを母体として生まれ、それを突き詰めれば突き詰めるほど、ユニークで濃くなっていく、自己表現としての『純粋さ』や『アーティスティック』さ」といったニュアンスで喋っているんですが、春川ナミオさんの作品は、まさにこれにドンピシャ。
 かつて世間一般では、マイナーなセクシュアリティに対して、良く「歪んだ欲望」とか表現されたもんですが、馬鹿言っちゃいけません。表現としてこんなに「真っ直ぐ」なものは、アート全般を見渡しても、そうそうあるものではなく、だからこそ春川ナミオさんの作品は、こんなにも清々しく力強く美しい。
 もちろんテクニックや表現力といった、タブローとしての完成度の高さも、その美しさには一役買っております。紙の目を生かしながら柔らかく重ねられた、鉛筆の粉が描き出す陰影の美しさ。それによって描き出された艶やかに漲る臀部は、作者からの崇拝という無償の愛があってこその所産なのだ。
 そういった意味でエロティック・アートとは、それが生み出されるに至る原動力に、宗教芸術と似た構造を持っている……というのは、かねてからの自分の持論。
 アートついでにもうちょっと脱線すると、例えば春川ナミオ作品で描かれる、主観的なデフォルメと客観的なリアリズムが混淆した尻や太腿のフォルムを見ていると、私はどこかしらピエール・モリニエの作品との共通点を感じます。更に言えば、林良文は春川ナミオに大きく影響を受けたのではないかと、ひっそり考えていたりもします。
 もっと脱線すると、春川ナミオと同傾向のセクシュアリティを伺わせるマンガ家である、たつみひろしの絵を見ていると、ダイナミックなパースで描かれた圧倒的な肉の量感や、よりエスカレートしたスカトロジーやバイオレンスやファルスの描写などから、今度はシビル・ルペルトを連想します。
 こういった具合に、作品が表現として純化していくと共に、ポルノグラフィやイラストレーションといったジャンルや枠を跳び越えて、作者の思惑を離れたところで、純粋に作品の持つ力によって、モダン・アートの世界にも接近していく、というのも、私の感じるところの優れたエロティック・アートの魅力の一つ。
 そんなこんなもあって、やはり春川ナミオさんの作品は、圧倒的なまでに素晴らしい。
 今回の図録は2001年以降の作品を収録とのことですが、描かれている世界はいつもと変わらず、福々しくも凛とした顔立ちの美女たちの巨大な臀球に顔を埋める、小さく哀れな裸のマゾ男たち。
 でも、ぱっと見て「全部同じじゃん」と思うのは、それは観察眼が足りません。
 よくご覧あれ。巨尻による顔面騎乗という行為こそ同じでも、その置かれているシチュエーションは、男にまだ人格が残っているセクシャルなプレイの一環であったり、人格も喪って人間椅子のような器具化されていたり、男が己の意志で奴隷として美神に屈服する図であったり、逆に女が力によって男を征服するアマゾネスであったりと、実は千差万別なのだ。
 サド・マゾヒズムを扱ったエロティック・アートは、こういったディテール、すなわち一枚の絵から導き出される数多のモノガタリ性を、じっくりタップリねぶるように味わってこそ、その醍醐味を充分に堪能できるんです。パラ見は禁物、絵を能動的に「読みながら」鑑賞しましょう。因みに、私の一番のお気に入りは、4ページ目の「二人向かい合わせに縛られて、人間椅子にされている」やつ。
 ただ、妄想が奇想にまでエスカレートしている系の作品、例えば『巨女渇愛 vol.2』の「幻の女権帝国」に見られたような、人間椅子レベルの器具化も越えて、アクセサリーのように「女の尻から尻尾のようにぶら下がっている男」系の作品が収録されていないのが、個人的にはちょっと残念ではあります。あの、まるでチョウチンアンコウの男女関係(笑)みたいな姿は、視覚的にかなりインパクト大だったので……。
 図録はタコシェさんで、税込み1000円で発売中。
 ぜひお手にとって、じっくりとご鑑賞あれ。

『シャガール ダフニスとクロエー(普及版)』岩波書店

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『ダフニスとクロエー』は、2世紀末〜3世紀のギリシャで、ロンゴスという人物が書いたと伝えられる、レスボス島を舞台にした若い男女の恋愛物語。本書は、そのテキストの日本語訳(松平千秋/訳)に、1961年にマルク・シャガールの制作した42点のリトグラフを併せた、フルカラーの挿絵本。
 タイトルにはラヴェルのバレエ音楽で馴染みがあり、長いこと愛聴はしていたものの、実際の物語は読んだことがありませんでした。一方、シャガールのリトグラフは、確かハイティーンの頃、鎌倉の神奈川県立近代美術館に「シャガール展」を見に行った際、現物を目にして、その色彩の余りの美しさに絶句、深く感銘を受けたという想い出があります。
 で、つい最近になって、ロンゴスのテキストとシャガールの絵がカップリングされた本書が、昨年出版されていたと知り、いそいそと買って参りました。

 物語は、神話と現実が分離する以前の素朴な田園世界を舞台に、羊飼いらにらによって育てられた二人の捨て子、ダフニスとクロエーが織りなす、その成長と愛を描いています。
 ドラマはいろいろと盛り沢山で、恋愛モノには必需の横恋慕も出てくるし、近在の村との戦争なんていうアクションもあり(これがバレエだと、海賊の襲来に変わってますね)、年上のオネーサンによる性の手ほどき(いわゆる、『青い体験』系ですな)もあり、男と男の同性愛(ま、古代ギリシャですからね)も出てくる。
 とはいえ、中核を成すのは、あくまでも詩情豊かな自然描写と共に繰り広げられる、少女マンガの如く美形の若い男女の恋愛模様。ロマンティックであることに加えて、清々しくおおらかなエロティシズムがあることも魅力的。ニンフやパンに捧げる儀式などの、エキゾティックで古代的な描写の数々も楽しいし、あちこちで顔を出すユーモラスな要素も面白い。
 興味深いのは、ラストになってこのモノガタリは、一種の貴種流離譚的な側面も持ちあわせていることが明かされるんですが、その最終的な着地点が「宮殿やお屋敷への帰還」ではない、つまり、主人公たちが本来属していた、生まれた場所に戻るのではなく、彼らが育ち、その愛を育んでいった場所である「田園」に戻るということ。ここには作者ロンゴスの、アルカディア的な憧れのようなものが感じられるのですが、古代ギリシャ世界においても、既にこうした都会人から牧人に対する牧歌的理想郷への憧憬という、昨今の定年退職後の会社員が田舎暮らしを希求するような、現代とさほど変わらない感覚があるのが面白い。
 こういった、あくまでも自然の美しさや自然神に対する信仰の純粋さや人間の素朴さを讃えるという、作者の一貫した視点が、モノガタリ全体にいっそうの清々しさを与えています。終幕、牧人たちの「荒々しいどら声で(中略)まるで三叉の鍬で畑の土を掘り起こしているような響きで、とても結婚を祝う歌とは聞こえな」い歌に祝福されて、二人が身体を重ね、それまで「森で二人がしていたことは、幼い牧童の遊びにすぎなかった」ことを知るシーンの、素朴な生と性と愛の合一した何という多幸感! ちょっと感動モノでした。

 かつて私を感動させたシャガールの挿絵に関しては、やはり印刷物の悲しさで、あのリトグラフに見た鉱物そのもののような色彩の輝きには到底及ばないものの、しかし不可能な欲をかかなければ充分以上に美しく、目を楽しませてくれます。かつて、一葉目の「ダフニスを見つけるラモーン」を見たとき、画面のほぼ全体を占める美しいグリーンの中に、小さく白と肌色で描かれた山羊と赤子のコンポジションの美しさに、陶然として見とれてしまったことを覚えていますが、そういった感動はこの本だけでもちゃんと味わえるでしょう。
 また、シャガールの絵とリトグラフというメディアの相性が良い。個人的な意見ですが、シャガールの描く世界は、油絵の「重さ」とはあまり合わない。リトグラフの方が、絵とメディアそれぞれの「軽さ」が、絶妙にマッチしているように思います。
 一枚一枚の絵はいかにもシャガール調で、鮮やかな色味と牧歌的な幻想性が、『ダフニスとクロエー』という田園的な神話世界と、実に良く合っています。いかにも素朴で影をかんじさせないところとか、時に少女趣味的なまでにロマンティックなところなど、両者にはかなり共通点も多い。
 ただ、エロティシズムという点に関しては、残念ながらあまり上手くはいっていない。そもそもシャガールの描く人物は、およそ肉体の堅牢さや生々しさを感じさせない、どちらかというと魂か幽霊のような味わいなので、それらが例え裸で同衾していても、何ともあっさりとしていてエロスには程遠い世界です。ここいらへんは、デフォルメされた線画だけなのにエロいピカソあたりとは、全く異なる個性ですね。
 この『ダフニスとクロエー』の場合、全体に横溢するおおらかなエロティシズムも大きな魅力のうちだったので、その点は少しだけ残念ではあります。

 さて、ちらっと前述した同性愛について、もう少し詳しく書いてみます。
 美少年ダフニスに想いを寄せるグナトーンは、いわゆる放蕩者として描かれており、その男色趣味についてもモノガタリは「慰みもの」や「もてあそぶ」と語り、決して好意的とは言えません。
 しかし、それはともかくとして、グナトーンは自身で「(ダフニスの)からだに惚れたんです」と語るように、同性に対して完全に性欲に先導された興味を覚えており、しかも「生まれついての男色好み」とも描写されています。つまりこれは、同性愛者のキャラクターとしては、プラトン的に理想化された同性愛でもなく、バイセクシャルの一面としての同性愛でもない、いわば現代のゲイとかなり近い存在とも考えられるのが、興味深いところです。
 もちろんモノガタリ的には、グナトーンは所詮当て馬でしかないし、ダフニスを性的に求めるグナトーンに対して、作者はダフニスの口を借りて、そういった行為が「牡山羊が牝山羊に乗るのはあたりまえだが、牡山羊が同じ牡に乗るのは誰も見た者はいない、牡羊でも牝でもなしに牡を相手にすることはせず、鶏だって牡が牝のかわりに牡とつるむことはない」と、不自然なことであるとも語らせています。
 とはいえ、グナトーンは同性愛者ゆえにモノガタリから滅ぼされることもない。性欲ゆえにダフニスを「ものにしたい」というグナトーンの気持は、やがてダフニスに対する恋へとなり、グナトーンが自分の主人に語るダフニスへの想いは、それ自体は恋の姿の一つとして至極まっとうに描かれています。グナトーンがモノガタリ的に批判されるのは、あくまでも恋そのものに対してではなく、恋を成就させるために身体的な力や社会的な力を使おうとしたことにある。
 後に、二人のパワーバランスが逆転した時点で(当初「(身分の低い)ラモーンのせがれなどに惚れて恥ずかしいとは思わぬか、山羊を飼っている少年と並んでねようと本気で考えているのか」と揶揄されたグナトーンは、やがて「悪党のグナトーンめにも、取巻きふぜいの分際でどんな人間に想いをかけたのか、思い知らせてやらねばならぬ」と言われる立場に変化する)、主人公たちの恋路を邪魔する悪役という、グナトーンのモノガタリ的な役目は終わります。
 しかし、この時点ではグナトーンはまだモノガタリから退場はしない。また、悪役グナトーンに対するモノガタリ的な罰も下されない。この後グナトーンは、クロエーの危機に「ダフニスと仲直りする絶好の機会」と考えてその救出に赴き、結果としてダフニスからも「自分の恩人だといって、これまでのわだかまりを解」かれるという、一種のモノガタリからの救済が用意されている。
 このことから、同性愛全般に対する視点を読みとろうとするのは、いささか危険ではあります。グナトーンは同性愛者であると同時に、「全身が顎(口)と胃の腑とと臍から下でできている」、つまり、食欲と酒に酔うことと性欲が全ての放蕩者であり、男色好み云々を別にしても、そもそもが下衆なキャラクターという設定なので。
 しかし、グナトーンの性欲自体に対しては、それを卑しいものと捉えている傾向はあるものの、断罪しようとする視点は見当たりません。グナトーンに与えられるモノガタリ的な救済も、彼が性欲を諦めてプラトニック・ラブに移行したからではなく、あくまでも悪役であった彼が改心したからです。
 こういったことからは、決して歓迎されてはいないが、社会的なタブーではないゆえに容認はされているという、同性愛に対する視点が伺われます。現代の日本社会にも通じるものがあり、なかなか興味深い描き方でした。

 では、もしグナトーンに与えられた性格が悪役としてのそれではなく、純粋にダフニスを愛する者として登場していれば、彼らの性愛も美しく讃えられていたのだろうか。
 残念ながら、答はおそらくノーでしょう。作者であるロンゴスの視点は、あくまでも自然と自然に近い人間の姿の素晴らしさを讃えることにあり、前段で述べた清々しくおおらかなエロティシズムを伴う性の姿も、そういった視点の所産です。
 ですから、近在の人妻リュカイオンが、ダフニスの筆おろしを「もって生まれた人間の本性が、どうしたらよいか教えてくれた」ようにすることはあっても、グナトーンとダフニスが結ばれることは、このモノガタリ世界ではあり得ない。同性愛は自然の営みではないという、時代的な限界がここにはあります。
 愛と性の喜びを謳い感動させてくれた作品で、同時にこういった要素を目にしてしまうのは、私としてはちと残念なことですね。
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林月光(石原豪人)氏の原画展

 本家サイトの方にも書いたんですが、ここでも再度ご案内。
 明日23日から、中野ブロードウェイ内の書店「タコシェ」にて、林月光こと石原豪人の原画展が始まります。
 石原豪人といえば、妖美かつ精緻な画風で、少年誌から少女誌、文芸誌からSM誌、はたまた劇画や絵物語まで手掛けた、その圧倒的な画業の数々を指して「昭和の画狂人」と呼ぶ方もおられるほどの、戦後の大衆文化における一大絵師のお一人であります。
 そんな『石原豪人』が、ゲイ雑誌およびノンケ向けSM雑誌に作品を発表なさる際のペンネーム、つまりエロティック・アートを手掛ける際の筆名が『林月光』です。
『石原豪人』の画業に関しては、昨年、弥生美術館で展覧会が開催されたり、また河出書房新社から画集が発売されたことが記憶に新しいですが、残念ながらどちらも『林月光』に関しては、キャリアの一つとして軽く触れられただけに留まり、その作品や芸術については、全くと言っていいほど取り上げられていませんでした。
 今回の展示は、その『林月光』の画業にフォーカスを絞ったものであり、展示される作品もエロティック・アート、すなわち「さぶ」に発表された男絵や、ノンケ向けSM雑誌用に描かれた美女の責め絵などに絞り込まれています。
 卓越した技術で描かれる、夢見るような瞳の美青年。肌を艶やかに光らせて、しなやかに伸びる裸身。耽美と怪奇とユーモアが混在する、独特にして濃密なエロティシズム。まるで、キャムプやクィアといった感覚を先取りしていたかのような、時としてキッチュなまでに飛躍するアイデア。
 そんな貴重かつ美麗な原画を見ることができる、またとないチャンスです。
「さぶ」や初期の「バディ」で月光先生のファンだった方や、「June」で豪人先生のファンだった方はもちろんのこと、エロティック・アートを愛される方であれば、老若男女セクシュアリティを問わず、ぜひお出かけくださいませ。
 展示に併せて制作された、図録の販売もあるそうです(因みに、私もちょっぴり寄稿させていただいております)。
 また、この原画展に併せて、5月11日には高円寺の『円盤』にて「月光夜話」と題されたトーク・イベントも開催されます。これまた私、ちょっとしたお土産を持って参加させていただく予定です。
 こちらの方も、興味とお時間のおありの方は、ぜひ足をお運びくださいませ。
 以上二つ、期間・場所・時間等の詳しい情報は、主催の「タコシェ」のサイトへどうぞ。

『Gay @ Paris』予約プロジェクト

 拙著『日本のゲイ・エロティック・アート』でお世話になっているポット出版さんと、以前ロフトプラスワンのイベントでお世話になった及川健二さんが、出版に関するちょっと面白そうなプロジェクトを立ち上げています。
 何でも「事前予約が100人集まれば、本が刊行される」という仕組みらしく。
 で、それがどんな本かといいますと、
「大統領がゲイ雑誌に登場する」「国民の65%が同性愛に理解を示す」「ゲイ術家(Gay Artist)が文化の一支流を担う」「パリ市長はゲイであることを公言している」「駅のキヨスクではゲイ雑誌が売られる」「大学にはゲイの出会いパーティーのチラシが配られる」……そんな「ゲイ&レズビアンの天国」フランスの性事情について報告するという書籍『Gay @ Paris』
 ……というものだそうで。
 何だか面白げな本ですので、興味のある方はぜひどうぞ。
 詳しくはこちらから。