画集”Conan, The Phenomenon”

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“Conan, The Phenomenon: The Legacy of Robert E. Howard’s Fantasy Icon”
 ロバート・E・ハワードの「蛮人コナン」の図像的イメージを、その誕生から現在に至るまで辿った大判画集。
 版元は、現在フルカラーでコナンのコミックスを刊行しているダークホース社。おそらく、自社コミックスのPR的な意味もあるのでしょう。

 ハワードのコナンといえば、ヒロイック・ファンタジーの祖でもあり、そのイメージは「裸で大剣を振り回す、マッチョの野蛮人」という感じですが、そんなイメージがいかにして確立し、そして定着していくかを、豊富なカラー図版で追うことができるので、なかなか面白く見応えのある画集でした。
 例えば、初出時の1930年代の”Weird Tales”誌では、マーガレット・ブランデージによるカバー画の中に、コナンの姿を見ることができるんですが、現在のコナンのイメージとは全く異なっています。
 ブランデージの絵の特徴は、女性的なしなやかなエロティシズムと怪奇性にあるので、例え上半身裸で剣を振り回している男を描いても、粗野とか野蛮とかいったイメージとはほど遠いもので、描かれたコナンも、まるでルドルフ・ヴァレンティノか何かのように見える。ブランデージの作風に、ハワードのそれが合致していないんでしょうな。これがハワードではなく「ジョイリーのジレル」のC・L・ムーアだったら、イメージ的にピッタンコなんですけどね。

 で、そうなるとブランデージよりも男性的な作風で、エドガー・ライス・バロウズ作品の挿画などで有名なJ・アレン・セント・ジョンや、その一世代後のロイ・G・クレンケルが描くコナンなんてのを見たくなるんですが、残念ながらそういうものは存在していないのか、この画集には収録されていませんでした。
 ただ、セント・アレン・ジョンに関しては、前述の”Weird Tales”誌のカバー絵が一点掲載されています。残念ながらハワードではなく、『火星の黄金仮面』で知られる、バロウズ・フォロワーのO・A・クラインが書いた、金星もののカバー・ストーリーらしいのですが、コナンというアイコンを考えるにあたっては、図像学的な共通点もあって興味深いです。
 この、ハワードとバロウズという比較は、作品の内容的な共通点はもとより、図像学的には、アメリカではフランク・フラゼッタが、日本では武部本一郎や柳柊二が、いずれも双方の作品の挿画で人気を博しているので、コナンからもうひとつ幅を拡げて、「空想世界で戦う裸のマッチョ」の図像学を考えると、いろいろと面白い発見がありそうな気もします。

 さて画集では、それから時代が下って、50年代にノーム・プレスから出版された、コナンの単行本のカバー画も見ることができます。
 これらは、エムシュ(エド・エムシュウィラー)やフランク・ケリー・フリース、あと私の知らないところで、ジョン・フォルテやデヴィド・カイルという作家による絵なんですが、興味深いことのこれらのカバー画からは、「野蛮人」といったニュアンスは全く感じられず、絵の内容やタイポグラフィなどのデザインも含めて、まるで古代ローマ帝国を舞台にした歴史小説か、あるいはアーサー王伝説か何かのような書物に見えるという点。
 前述したバロウズとの共通要素も皆無と言って良く、キャラクターも裸のマッチョですらなく、前述したような普通のコスチューム・プレイ(念のため、これ、いわゆる「コスプレ」のことじゃないからね!)風に描かれているんですな。作風はともかく、図像学的な共通点だけに絞れば、まだ30年代のブランデージの描くコナンの方が、現行のイメージに近いというのが面白い。
 ただ、このノーム・プレス版の中にも、50年代末期に、ハワードではなくビョルン・ニューベリイ&L・スプレイグ・ディ・キャンプ名義によるコナンの単行本で、ウォーリー・ウッドがカバー画を描いているものが載っています。
 で、これが再びバロウズ的なイメージへの再接近を見せていて、しかも顔を顰めて歯をむき出しているコナンの表情など、バロウズ的なものには余り見られない「野蛮」というニュアンスがかいま見えているのが興味深い。この後に来る、フラゼッタによってイメージが確立するに至る、その橋渡し的な感じがします。

 さて、この後60年代になって、ランサー版の単行本カバーで、いよいよフランク・フラゼッタが登場します。で、やはりこれが、現在に至るコナンのイメージを決定し、しかも、オリジンであると同時に完成形でもあるというのが、以降の作家によるコナン像を見ていくと、良く分かります。
 60年代のランサー版では、他にボリス・バレジョーや、私の知らないところでジョン・ドゥイロという人のカバー画も載っています。ドゥイロの方は図版が小さいこともあって良く分からないんですが、この時期のバレジョーに関しては、完全にフラゼッタのフォロワーと言って良いでしょう。後にバレジョーは、フォトリアリズムという点ではフラゼッタを越える技術力を生かし、同傾向の作風のジュリー・ベルと組んで、共にファンタジー・アートのマエストロになりますが、その作品は物語絵というよりはピンナップ的な世界であり、ハワード的や、あるいはバロウズ的なものといったニュアンスからは遠くなっていきます。
 70年代のアメコミ版も、80年代から90年代のアーノルド・シュワルツェネッガーやラルフ・モーラーによる映画やテレビ版も、いずれもイメージの源泉は、フラゼッタの描くコナンにある。
 アメコミ版では、バリー・ウィンザー・スミスが、後にラファエロ前派やアールヌーボー絵画への接近によって、フラゼッタとは異なった味付けを見せますが、それらはあくまでも描画法や装飾性といった表層レベルのもので、コナンというイコンの造形そのものに関しては、やはりフラゼッタ直下のものにある。
 同時期のものでは、ケン・ケリーによるイラストレーションも画集には収録されていますが、これも完全にフラゼッタを踏襲したものになっています。

 ここで興味深いのは、コナンを描くにあたって、フラゼッタとケリーの作品は酷似しているがゆえに、その二つを見比べると、フラゼッタの作品には他の作家にはない、イラストレーション的には特異と言ってもいいような、ある特徴があることが判ります。
 イラストレーションというものは、基本的に「絵解き」ですから、特に物語絵のい場合は、そこには「説明」の要素が不可欠です。ケリーの絵を見ると、「なぜコナンがそういうポーズをとっているのか」といった、物語的な流れがはっきりと読み取れる。しかし、フラゼッタには、意外なほどそれがない。ある一瞬を切り取ったタブローとして、迫力はものすごいんですが、良く見るとキャラクターのポーが不可解だったりする。
 例えば、有名な赤マントのゴリラとコナンが戦っている絵を見ると、コナンのポーズもゴリラのポーズも、鑑賞者にとって「分かりやすい」決定的瞬間とは異なっている。仮に自分がこういうシーンを描くとすると、まず最初に思い浮かぶのは、コナンが剣を振りかざし、いまにもゴリラに斬りつけようとするという瞬間のポーズでしょう。しかしフラゼッタの絵では、剣を持った腕は水平に真っ直ぐ後ろへと伸びている。となると、これは斬りつけた剣を後ろに引いた、その瞬間のようにも思えますが、ゴリラ側のリアクションがそれに合致しない。ここには「これがこうなってああなりました」といった物語的な説明要素が、絵解きとしてのイラストレーションにしては、実に希薄なんですな。こういった特徴は、前述のケリーや、あるいは現在の作家の作品には、全く見られない。他の作家は、皆、イラストレーション的にもっと「明解」な画面構成にしている。

 では、フラゼッタの絵の、こういった特徴は欠点なのかというと、それが全く違うというのが、また面白い。フラゼッタの作品で重視されているのは、そういう「説明」ではなく、激しい動きを見せる複数の人体が絡み合い、それが朧な背景と共に、もやもやと画面にとけ込みながら、全部が一体化して巨大なうねりとなり、強烈なマッスとムーヴマンを醸し出すという、その「表現」そのものにあるからです。ある意味でミケランジェロ的とも言える、この表現力に、鑑賞者は圧倒される。
 こういったファインアート的な特徴が、フラゼッタを他の同傾向のファンタジー・アーティストとは一線を画した、孤高のマエストロにしているのではないか、なんてことを、この画集を見ながら感じました。

 話が逸れましたが、80年代末から現在に至る、様々な作家によるコナン像を見ていくと、キャラクターの造形はフラゼッタの流れを継承している感が強いとはいえ、その中にある種の流行のようなものや、あるいは個々の作家による個性の打ち出し方の違いなどが見えてきて、これまたなかなか面白い。
 流行という点では、フラゼッタやアメコミ版、映画版で見られた、革パン一丁というコスチュームは、現在では廃れています。どの作家の描くコナンも、チュニック様の衣で上半身も覆っていたり、あるいは上半身は裸でも、ボトムは鎖帷子やキルトのような長めの腰布であったりして、ボディービル的なニュアンスの強いかつてコスチュームよりは、だいぶ歴史物っぽいリアリズムを踏まえた傾向になっている。そして、そういったアレンジを見ていると、これはケルト風だな、とか、こっちはネイティブ・アメリカン風だな、とかいう感じで、それぞれのイメージ・ソースが分かりやすいのも特徴です。

 個々の作家の個性で言えば、ゲイリー・ジャンニの描く作品は、アラビアン・ナイトのようなオリエンタル世界への接近を見せ、画面構成や描画法にも、レオン・ベリー、エドウィン・ロード・ウィークス、グスタフ・バウエルンファイントといった、19世紀末のオリエンタリズム絵画からの影響が色濃いように見えます。グレゴリー・マンチェスの作品は、ネイティブ・アメリカン風のニュアンスが見られるし、マッスとしての筋肉のリアリズムにこだわりながら、それを粗めの筆致で的確に描くタッチは、N・C・ワイエスやハワード・パイルあたりの、20世紀初頭のアメリカン・リアリズムのイラストレーターたちとの共通点が伺われます。
 他にも、マイク・ミニョーラの描くコナンを見ると、ミニョーラは何を描いてもミニョーラだなぁと思ったり、前述したフルカラーのコミックス版の、ケイリー・ノード&デイヴ・スチュワートは、正直あんまり好きじゃなかったんですが、画集に収録されているカラーリング前のモノクロの鉛筆ドローイングを見ると、おやおや着色前の段階だとけっこう好きだぞとか思ったり。

 ただ、全体的な傾向としては、”Weird Tales”から始まりフラゼッタの頃まではまだ残っていた、怪奇というかホラーというか、そういったムードは、現在では完全に消えてしまっています。
 それと同時に、朦朧とした世界の中での「個」を描いたヒロイック・ファンタジーから、細部まで作り込まれた明解な世界の中での英雄の活躍というエピック・ファンタジー、あるいはハイ・ファンタジー的な世界への接近を見せているように感じられます。見返しに使われている絵なんかは、ハワードのコナンというよりも、まるで『指輪物語』のヘルム峡谷の戦いを描いたものみたいです。

 テキストの方はちゃんと読んでいないんですが、序文はマイケル・ムアコック(……ん? あんた、アンチコナンじゃなかったっけ?)。ハワードのバイオグラフィーも、豊富な写真入りで載っています。上半身裸になって、銃やナイフを構えていたり、友人と剣を交わしているコスプレ写真(こっちは現在日本でいうところの「コスプレ」の意です)なんてのもある。
 という感じで、ハワードのファンやヒロイック・ファンタジー好きにはもとより、ハワードのコナンは読んだことなくても、マッチョ絵が好きな人ならたっぷり楽しめる充実した画集です。オススメ。
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