『シャガール ダフニスとクロエー(普及版)』岩波書店

daphnis_book
『ダフニスとクロエー』は、2世紀末〜3世紀のギリシャで、ロンゴスという人物が書いたと伝えられる、レスボス島を舞台にした若い男女の恋愛物語。本書は、そのテキストの日本語訳(松平千秋/訳)に、1961年にマルク・シャガールの制作した42点のリトグラフを併せた、フルカラーの挿絵本。
 タイトルにはラヴェルのバレエ音楽で馴染みがあり、長いこと愛聴はしていたものの、実際の物語は読んだことがありませんでした。一方、シャガールのリトグラフは、確かハイティーンの頃、鎌倉の神奈川県立近代美術館に「シャガール展」を見に行った際、現物を目にして、その色彩の余りの美しさに絶句、深く感銘を受けたという想い出があります。
 で、つい最近になって、ロンゴスのテキストとシャガールの絵がカップリングされた本書が、昨年出版されていたと知り、いそいそと買って参りました。

 物語は、神話と現実が分離する以前の素朴な田園世界を舞台に、羊飼いらにらによって育てられた二人の捨て子、ダフニスとクロエーが織りなす、その成長と愛を描いています。
 ドラマはいろいろと盛り沢山で、恋愛モノには必需の横恋慕も出てくるし、近在の村との戦争なんていうアクションもあり(これがバレエだと、海賊の襲来に変わってますね)、年上のオネーサンによる性の手ほどき(いわゆる、『青い体験』系ですな)もあり、男と男の同性愛(ま、古代ギリシャですからね)も出てくる。
 とはいえ、中核を成すのは、あくまでも詩情豊かな自然描写と共に繰り広げられる、少女マンガの如く美形の若い男女の恋愛模様。ロマンティックであることに加えて、清々しくおおらかなエロティシズムがあることも魅力的。ニンフやパンに捧げる儀式などの、エキゾティックで古代的な描写の数々も楽しいし、あちこちで顔を出すユーモラスな要素も面白い。
 興味深いのは、ラストになってこのモノガタリは、一種の貴種流離譚的な側面も持ちあわせていることが明かされるんですが、その最終的な着地点が「宮殿やお屋敷への帰還」ではない、つまり、主人公たちが本来属していた、生まれた場所に戻るのではなく、彼らが育ち、その愛を育んでいった場所である「田園」に戻るということ。ここには作者ロンゴスの、アルカディア的な憧れのようなものが感じられるのですが、古代ギリシャ世界においても、既にこうした都会人から牧人に対する牧歌的理想郷への憧憬という、昨今の定年退職後の会社員が田舎暮らしを希求するような、現代とさほど変わらない感覚があるのが面白い。
 こういった、あくまでも自然の美しさや自然神に対する信仰の純粋さや人間の素朴さを讃えるという、作者の一貫した視点が、モノガタリ全体にいっそうの清々しさを与えています。終幕、牧人たちの「荒々しいどら声で(中略)まるで三叉の鍬で畑の土を掘り起こしているような響きで、とても結婚を祝う歌とは聞こえな」い歌に祝福されて、二人が身体を重ね、それまで「森で二人がしていたことは、幼い牧童の遊びにすぎなかった」ことを知るシーンの、素朴な生と性と愛の合一した何という多幸感! ちょっと感動モノでした。

 かつて私を感動させたシャガールの挿絵に関しては、やはり印刷物の悲しさで、あのリトグラフに見た鉱物そのもののような色彩の輝きには到底及ばないものの、しかし不可能な欲をかかなければ充分以上に美しく、目を楽しませてくれます。かつて、一葉目の「ダフニスを見つけるラモーン」を見たとき、画面のほぼ全体を占める美しいグリーンの中に、小さく白と肌色で描かれた山羊と赤子のコンポジションの美しさに、陶然として見とれてしまったことを覚えていますが、そういった感動はこの本だけでもちゃんと味わえるでしょう。
 また、シャガールの絵とリトグラフというメディアの相性が良い。個人的な意見ですが、シャガールの描く世界は、油絵の「重さ」とはあまり合わない。リトグラフの方が、絵とメディアそれぞれの「軽さ」が、絶妙にマッチしているように思います。
 一枚一枚の絵はいかにもシャガール調で、鮮やかな色味と牧歌的な幻想性が、『ダフニスとクロエー』という田園的な神話世界と、実に良く合っています。いかにも素朴で影をかんじさせないところとか、時に少女趣味的なまでにロマンティックなところなど、両者にはかなり共通点も多い。
 ただ、エロティシズムという点に関しては、残念ながらあまり上手くはいっていない。そもそもシャガールの描く人物は、およそ肉体の堅牢さや生々しさを感じさせない、どちらかというと魂か幽霊のような味わいなので、それらが例え裸で同衾していても、何ともあっさりとしていてエロスには程遠い世界です。ここいらへんは、デフォルメされた線画だけなのにエロいピカソあたりとは、全く異なる個性ですね。
 この『ダフニスとクロエー』の場合、全体に横溢するおおらかなエロティシズムも大きな魅力のうちだったので、その点は少しだけ残念ではあります。

 さて、ちらっと前述した同性愛について、もう少し詳しく書いてみます。
 美少年ダフニスに想いを寄せるグナトーンは、いわゆる放蕩者として描かれており、その男色趣味についてもモノガタリは「慰みもの」や「もてあそぶ」と語り、決して好意的とは言えません。
 しかし、それはともかくとして、グナトーンは自身で「(ダフニスの)からだに惚れたんです」と語るように、同性に対して完全に性欲に先導された興味を覚えており、しかも「生まれついての男色好み」とも描写されています。つまりこれは、同性愛者のキャラクターとしては、プラトン的に理想化された同性愛でもなく、バイセクシャルの一面としての同性愛でもない、いわば現代のゲイとかなり近い存在とも考えられるのが、興味深いところです。
 もちろんモノガタリ的には、グナトーンは所詮当て馬でしかないし、ダフニスを性的に求めるグナトーンに対して、作者はダフニスの口を借りて、そういった行為が「牡山羊が牝山羊に乗るのはあたりまえだが、牡山羊が同じ牡に乗るのは誰も見た者はいない、牡羊でも牝でもなしに牡を相手にすることはせず、鶏だって牡が牝のかわりに牡とつるむことはない」と、不自然なことであるとも語らせています。
 とはいえ、グナトーンは同性愛者ゆえにモノガタリから滅ぼされることもない。性欲ゆえにダフニスを「ものにしたい」というグナトーンの気持は、やがてダフニスに対する恋へとなり、グナトーンが自分の主人に語るダフニスへの想いは、それ自体は恋の姿の一つとして至極まっとうに描かれています。グナトーンがモノガタリ的に批判されるのは、あくまでも恋そのものに対してではなく、恋を成就させるために身体的な力や社会的な力を使おうとしたことにある。
 後に、二人のパワーバランスが逆転した時点で(当初「(身分の低い)ラモーンのせがれなどに惚れて恥ずかしいとは思わぬか、山羊を飼っている少年と並んでねようと本気で考えているのか」と揶揄されたグナトーンは、やがて「悪党のグナトーンめにも、取巻きふぜいの分際でどんな人間に想いをかけたのか、思い知らせてやらねばならぬ」と言われる立場に変化する)、主人公たちの恋路を邪魔する悪役という、グナトーンのモノガタリ的な役目は終わります。
 しかし、この時点ではグナトーンはまだモノガタリから退場はしない。また、悪役グナトーンに対するモノガタリ的な罰も下されない。この後グナトーンは、クロエーの危機に「ダフニスと仲直りする絶好の機会」と考えてその救出に赴き、結果としてダフニスからも「自分の恩人だといって、これまでのわだかまりを解」かれるという、一種のモノガタリからの救済が用意されている。
 このことから、同性愛全般に対する視点を読みとろうとするのは、いささか危険ではあります。グナトーンは同性愛者であると同時に、「全身が顎(口)と胃の腑とと臍から下でできている」、つまり、食欲と酒に酔うことと性欲が全ての放蕩者であり、男色好み云々を別にしても、そもそもが下衆なキャラクターという設定なので。
 しかし、グナトーンの性欲自体に対しては、それを卑しいものと捉えている傾向はあるものの、断罪しようとする視点は見当たりません。グナトーンに与えられるモノガタリ的な救済も、彼が性欲を諦めてプラトニック・ラブに移行したからではなく、あくまでも悪役であった彼が改心したからです。
 こういったことからは、決して歓迎されてはいないが、社会的なタブーではないゆえに容認はされているという、同性愛に対する視点が伺われます。現代の日本社会にも通じるものがあり、なかなか興味深い描き方でした。

 では、もしグナトーンに与えられた性格が悪役としてのそれではなく、純粋にダフニスを愛する者として登場していれば、彼らの性愛も美しく讃えられていたのだろうか。
 残念ながら、答はおそらくノーでしょう。作者であるロンゴスの視点は、あくまでも自然と自然に近い人間の姿の素晴らしさを讃えることにあり、前段で述べた清々しくおおらかなエロティシズムを伴う性の姿も、そういった視点の所産です。
 ですから、近在の人妻リュカイオンが、ダフニスの筆おろしを「もって生まれた人間の本性が、どうしたらよいか教えてくれた」ようにすることはあっても、グナトーンとダフニスが結ばれることは、このモノガタリ世界ではあり得ない。同性愛は自然の営みではないという、時代的な限界がここにはあります。
 愛と性の喜びを謳い感動させてくれた作品で、同時にこういった要素を目にしてしまうのは、私としてはちと残念なことですね。
[amazonjs asin=”4000082167″ locale=”JP” title=”シャガール ダフニスとクロエー 普及版”]