Tanit Jitnukul監督、追補

 先日の“Bang Rajan”が良かったので、同じ監督のホラー映画『アート・オブ・デビル』(2005)を見てみました。
 ……やっぱダメかも、この監督(笑)。
 冒頭のツカミにショッキングなシーンを持ってきて、その後、いっけん何の関係もなさそうなモノガタリが始まり、それがいかにして冒頭のシーンにつながるか……という持っていき方なんですが、それが馬鹿正直に時系列どおりズラズラ見せるだけで、芸もへったくれもない。
 その結果、身辺で奇怪な現象が続発するホラーであるにも関わらず、「何(誰)が元凶(犯人)か」、「その現象がどうやって起きているか」「これからどうなるか」ってな要素が、見ているこっちには全て事前に丸判り……って、いくら何でもこの構成はねーだろう(笑)!
 現代の都会の中にも、土俗的で泥臭い「呪い」が……っつーネタそのものは悪くないけど、せめて「誰が何のために呪いをかけているのか?」ってのくらいは、伏せて話を進めろよ!
 で、観客にとっての「謎」の要素が全くない以上、残る期待は唯一、恐怖感の描出やショックシーンの見せ方になるんですが、これがまた、どーしちゃったのってくらい、演出力がない。オマケに、呪いなら呪いだけに徹すりゃまだしも、下手に色気出して幽霊とかも絡めるもんだから、余計に収拾がつかなくなっている。
 え〜、何とか、どっか面白いところも思い出してみると……うん、仏様のお供えを食べちゃってバチが当たるあたりは、いかにも敬虔な仏教とが多いタイらしいな〜とか、『ラスト・ウォリアー』同様に胎児をミイラにして呪術に使うんですが、これはタイでは伝統的なネタなのかな〜とか、床屋と呪い屋が兼業ってのは、呪術に毛髪を使うという点では、理に適ってると言えなくもないかな〜とか、ま、そんなトコでしょうか(笑)。
 ってなわけで、結論。
 Tanit Jitnukul監督、四本見させていただきましたが、どうやら”Bang Rajan”はフロックだった、ってことで(笑)。

アート・オブ・デビル [DVD] アート・オブ・デビル [DVD]
価格:¥ 5,040(税込)
発売日:2005-09-02

“Bang Rajan”

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"Bang Rajan" (2000) Tanit Jitnukul

 タイの史劇映画です。
 興味を持ったきっかけは、何かで目にしたスチル写真が、えらく気に入りまして。口ヒゲ&強面で上半身裸のマッチョたちが、ずらりと並んでこっちを睨み付けている白黒写真で、えらくカッコよくってねぇ(笑)。で、調べてみたら「タイ映画の歴代観客動員数の記録を塗り替えた!」とか「オリバー・ストーンが惚れ込んで配給権を獲得!」みたいな、にぎにぎしい惹句が出てきたもんだから、えいやと思い切ってアメリカ盤DVDを購入してみました。

 タイの史劇映画というと、私は日本盤が出ているもので、『ラスト・ウォリアー』ってのと『セマ・ザ・ウォリアー』ってのを見ています。
 クレジットでは『ラスト…』の監督はタニット・チッタヌクン、『セマ…』の監督はサニット・ジトヌクル、となっている。ところが、今回IMDBで調べて見たら、これ、どっちも同じ人で、この"Bang Rajan"の監督の Tanit Jitnukul なんですね。表記の揺れってのは難しい問題だけど、多少強引でもいいから統一してくれないと、余計な混乱を招きますなぁ。

 で、正直なところ『ラスト…』は、ちょっとウムムな出来でした(笑)。歴史モノかと思っていたら途中から伝奇モノになって、まあそれはそれで構わないんですが、主人公があまりにもトンデモナイ男でして(笑)。まったく、自分を慕う娘を抱いて、妊娠すると腹を裂いて胎児を取り出し、それをミイラにして式神にする……なんて男の、いったいどこに感情移入せいっちゅーんじゃ(笑)。そんなこんなで、先の予測のつかない展開と、行動原理が理解できないキャラクターたちに振り回されて、半ばボーゼンと見ていると「え〜っ、ここで終わりかよ〜っ!」ってな驚愕のエンディングという、かな〜りスットコドッコイな映画(笑)。ま、そのぶんヘンな面白さはあるんで、キワモノ好きの方だったら一見をオススメしますが(笑)。
 それに比べると、『セマ…』の方はだいぶマトモで、農民が兵士になって、紆余曲折がありながらも頭角を現していく様子と、お偉いさんの娘との身分違いの恋とか、恋敵との確執なんかを絡めた、それほどビックリもしない内容。ただ、キャラクターの内面描写がイマイチだったり、エピソードのつなぎがぎこちなかったり、その時代のタイの人々の価値観に馴染めなかったりとかあって、もうひとつモノガタリには乗り切れない。 
 で、この"Bang Raljan"、DVDが届いてから同じ監督だと気付いて、「うわ、失敗した!」とか思ったんですが、ところがどっこい、いざ見てみると、『ラスト…』や『セマ…』とは桁違いに出来が良かった!

 物語の舞台は、18世紀中頃、ビルマ(現ミャンマー)の侵攻に押されている、シャム(現タイ)のアユタヤ王朝末期で、国境近くの村々は、ビルマ軍による掠奪や虐殺の憂き目に晒されている。
 それでも何とか生き延びた村人たちは、タイトルにもなっているバング・ラジャンという村に集結する。村人たちは、王都アユタヤに使者を送って、ビルマ軍に対抗する大砲をくれと頼むが、その願いは聞き入れられない。
 敵の猛攻に晒されながらも、母国からは見捨てられた村人たちは、バング・ラジャンの砦に立て籠もり、自分たちの手でゼロから大砲を鋳造し、数でも力でも圧倒的に勝るビルマ軍に、絶望的な戦いを挑む……ってな具合で、コレ系が好きな人だったら、この筋立てだけで、もうグッとくるのでは。

 映画の構成は、ビルマ軍との戦いという見せ場を作りながら、その合間合間に村人たちの日常の描写を挟み、登場人物のキャラクターを立てていき、枝葉を入れたり寄り道することもなく、クライマックスの大戦闘シーンに繋いでいく。
 基本的には群像劇で、戦いで負傷した村の長、その後を継がせるべく新たに迎え入れた戦士、妻思いの弓の名手と夫に気遣う妻、ちょっと三の線の若造と村娘の恋模様、いつも酔っぱらっているが腕は立つ過去に謎のある戦斧の使い手、村人たちの精神的な中核となっている僧侶……といった多彩なキャラクターが、それぞれ日常的なちょっとしたエピソードを得て、生き生きと動く。神話的な英雄や伝説的な勇者を出すわけではなく、あくまでも、農村の村人たちが生きるために力の限り戦うという軸は外さない。
 戦闘シーンの迫力はかなりのもので、モブやセットのスケール感や戦いの臨場感も充分。流血描写も容赦なしで、切ったり刺されたりの描写はかなり「痛い」し、突く刺すだけでなく「寄ってたかって殴り殺す」なんてシーンなんかは、見ていて「ひぃ〜、この殺され方だけはイヤ〜ッ!」って感じ。虐殺された村人たちの死体の山の描写なんかも、けっこう生々しくてショッキング。
 とはいえ、それらの描写は決してスプラッター趣味や露悪趣味には走らず、リアリズムの重さという範疇にきちんと収まっている。これは、リドリー・スコットの『グラディエーター』などと同様の、おそらくはプライベート・ライアン・シンドロームとでも言うべき現象の一環なんでしょうが、オリバー・ストーンが惚れ込んだというのも納得で、彼の『アレキサンダー』の戦闘描写は、けっこうこの"Bang Rajan"に影響されているような気も。
 そんなこんなで、キャラクターのドラマのような「静」の部分と、アクションやスペクタクルといった「動」の部分のバランスは極めて良く、しかもモノガタリ全体は、娯楽映画的なツボをしっかりと押さえて過不足のない堂々たる筋運び。ただ、仏教的な死生観が濃厚なので、そこを把握しておかないと、ちょっとモヤモヤが残る可能性はあり。
 あと、情緒面の描写が過剰に過ぎるきらいはあって、おかげでせっかくの感動シーンも、心が揺さぶられる前に鼻白んでしまう感がなきにしもあらずではあります。でもまあそれは、くさいと感じてしまった自分の心が汚れていると思うか、民族性の違いだと思って、ガマンしましょう(笑)。
 また、ちょっと全体的に色調補正がキツ過ぎて、シャドウ部がベッタリ潰れてしまっていたり、色カブリを起こして黒が黒じゃなくなっていたりするのは気になりました。監督やカメラの意図と言えばそれまでなんですが、これが気にならないのは、正直いささか無神経な気はします。

 俳優さんたちは、まあとにかく皆さんカッコいいわ(笑)。
 徹頭徹尾腰布一丁の半裸で、ヒゲや刺青もあって、しかもマッチョ揃いとくれば、もう私のツボは押されまくりではあるんですが(特にメインの二人は、もう惚れ惚れ)、それを抜きにしても、皆さん精悍で、実にいい目をしている。強さも弱さもあるキャラクター描写とか、それを堂々と演じている俳優の佇まいとか、戦いの際の剣さばきのケレン味とか、男のカッコ良さは存分に堪能できます。
 まあ良かったら、Bang RajanでGoogleのイメージ検索でもしてみてください。このBlogにアップしたアメリカ盤DVDのジャケ写は、正直あんまり良くないんで。他のスチルを見れば、私がカッコいいカッコいいと連呼しているわけが、もう一目瞭然でしょうから(笑)。
 野郎どもの濃いキャラに押されて影が薄くなりがちではありますが、女優さんたち(目立つのは二人だけだけど)も佳良です。

 というわけで、これが未公開でビデオスルーですらないってのは、何とも惜しい気がします。『ラスト…』と『セマ…』が出ていて、この"Bang Rajan"が出ていないってのは、監督さんにとっても気の毒だと思うんで。
 ただ、この三本では"Bang Rajan"が一番古いってのは、監督の作家性としては、ちょいと問題アリって気もしますけど(笑)。
 米盤DVDはリージョン1、収録はスクィーズ。音声はタイ語で英語字幕付き(字幕のON/OFFはできず出っぱなし)。映像特典等は何もなし。
 ストーリーがシンプルで真っ直ぐなせいもあり、内容把握の難易度も低めなので、よろしかったらぜひご覧あれ。オススメです。

 最後に残酷ネタ。
 え〜、惨殺されるマッチョを見るのが好き、とゆー私の魂の同志諸君。見どころタップリですぞ、この映画(笑)。

“Bang Rajan” DVD (amazon.com)

 YouTubeに米国版予告編があったので、貼っ付けておきます。

ラスト・ウォリアー [DVD]
価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2005-06-03
セマ・ザ・ウォリアー [DVD] セマ・ザ・ウォリアー [DVD]
価格:¥ 5,040(税込)
発売日:2006-03-03

画集『日本のゲイ・エロティック・アート vol.2』、ようやく完成

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 2003年12月に第一巻を発売して以来、長らくお待たせしていましたが、ようやくこの8月21日に、『日本のゲイ・エロティック・アート vol.2』が発売されます。
 実のところ、二巻を発売できるかどうかは一巻の成績次第だったのですが、無事2004年の9月にゴーサインが出ました。で、さっそく動き始めたんですが、収録を予定していた作品の収集に、思いのほか手間取ってしまい、更に予期せぬトラブルも幾つか起き、結局このように、およそ二年遅れの発売となってしまいました。

 今回の収録作家は、長谷川サダオ(さぶ・アドン・ムルム・薔薇族)、木村べん(薔薇族・さぶ・アラン)、児夢/GYM(さぶ)、林月光/石原豪人(さぶ・ジュネ)、遠山実(薔薇族・さぶ)、倉本彪(アドン)、天堂寺慎(風俗奇譚?)という顔ぶれになっています。
 ゲイ雑誌の大御所であった長谷川サダオや木村べん、ゲイ・アートのみならず昭和を代表する挿絵画家としても名高い林月光/石原豪人に加え、児夢/GYM、遠山実、倉本彪といった、知る人ぞ知る「幻の作家」の作品も多く収録でき、一巻に負けず劣らず充実した内容の画集であり、同時に日本のゲイ文化史を振りかえる上での貴重な資料になったのではないかと思います。
 本の総ページ数は220ページ強で、構成は一巻同様に、160点以上の図版(カラー88ページ)に加え、可能な限り調べた結果による各作家のバイオグラフィーや、時代によるゲイ文化史の変遷や作品論といったテキストを、併せて収録しています。

 で、実はこのBlogを始めたきっかけは、この本でして。
 というのも、一巻のテキストを執筆しているとき、慣れないせいもあってひどく手こずり、加えて不眠症になってしまったんですよ。論文とか、生まれてこのかた書いたこともなかったから、書き方そのものからして良く判らなくて(笑)。
 で、少し文章を書くトレーニングをしておいた方がいいな、なんて思っていた矢先に、プロバイダさんからBlogの案内が来たので、ちょうどいいやと乗っかってみた次第でして。
 そんなトレーニングの甲斐あってか、二巻の執筆は、一巻のときよりはスムーズにこなせたような。

 発売は21日ですが、既に版元のポット出版さんのサイトやamazon.co.jpでは、もう予約を受け付けています。
 あと、この本に絡めて、評論家の伏見憲明さん(序文をお願いしました)と私との対談が、既に発売中の雑誌『QJr クィア・ジャパン・リターンズ vol.2』に掲載されてますので、よろしかったら是非そちらもどうぞ。たまに「顔が見たい」なんてリクエストいただくことがあるんですが、ははは、この『QJr』の対談ページに、恥ずかしげもなくイッパイ載ってます、私の顔写真(笑)。

ポット出版のサイト
『日本のゲイ・エロティック・アート vol.2』(amazon.co.jp)
『クィア・ジャパン・リターンズ vol.2』(amazon.co.jp)

『ヘラクレス/ヘラクレスの逆襲』オリジナル・サウンドトラック

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“Le Fatiche di Ercole / Ercole e la Reggina di Lidia (O.S.T.)” by Enzo Masetti
 マカロニ・ウェスタンやジャーロ映画のサントラ復刻でお馴染みのDigitmoviesから、スティーヴ・リーヴスの『ヘラクレス/ヘラクレスの逆襲』のサントラが、二枚組CDで発売。いや〜、まさかまさかの復刻なので、実に嬉しい。
 音楽はエンツォ・マゼッティ。この二本以外は良く知らない人なので、ちょっと調べてみたところ、イタリア映画音楽の先駆者として尊敬されている人物、とのことで、何と生年は1893年、19世紀生まれの方でした。『ヘラクレスの逆襲』が最後の仕事で、2年後の1961年には既に亡くなっている。う〜ん、これだけキャリアの古い方だと、馴染みがなくても当たり前かも。
『ヘラクレス』も『ヘラクレスの逆襲』も、スペクタクル映画とはいえ、ハリウッド製の本格史劇とは異なり、どこか軽い楽しさや陽性な明るさがあるのが魅力的な作品ですが(キリスト教絡みではないので、辛気くささや説教くささも皆無だしね)、劇判の方も同様で、重厚さや大仰さよりは、親しみやすいポップな楽しさや、ロマンティックさが印象に残ります。
 特にロマンティックさの方は、流麗なストリングスや美しいコーラスの効果も相まって、ラウンジ系のムード・ミュージックにも似た、実にデリシャス・ゴージャスな味わい。中でも二作通じての「愛のテーマ」とでも言えそうな”Con te per l’eternita”(というタイトルだと、今回初めて知りました)は、なかなかの名曲。
 CDの作りは、復刻盤として丁寧に作られています。
 オーケストラ・スコアが収録されたオリジナル・マスターを基に、映画の時系列に併せて再構成されたものらしく、モノラルながら音質的には問題なし。もちろん過去には未発表だった音源も多々あり、珍しいところでは、ミックス違いやデモ音源なども、ボーナス・トラックとして収録。
 一つ残念だったのは、『逆襲』のイオレの歌(演じていたのはシルヴァ・コシナですが、歌は吹き替えで、実際に歌っているのはのMarisa Del Frateという人だそうな)が、権利の関係か収録されていなかったこと。ライナーを読むと、過去にこの二作のサントラ盤は、ナレーションやダイアローグ付きのバージョンとか、Marisa Del Frateの歌が収録されたバージョンが、アナログで出ていたらしいので、どうせならそれも併せて復刻できていれば、もうパーフェクトだったんですけどね。
 あ、でも『ヘラクレス』のアルゴ船の乗組員たちが歌う船乗りの歌が、ちゃんと入ってたのは嬉しかったなぁ。この歌、映画で見るとちょっと唐突でビックリしちゃうんですけど、個人的にはけっこう好きなもので(笑)。
 音以外のジャケット等に関しては、パッケージ自体は何の変哲もない二枚組用のジュエルケースですが、12ページあるブックレットは、なかなか佳良。
 もちろんサイズはCDサイズと小さいんですが、両映画の各国版ポスターやロビーカードの画像が、フルカラーで掲載されています。CDの盤面も、これらの図柄を使ったピクチャー・ディスク仕様で、なかなか美しい。
 白黒のスチル写真も何点か掲載されており、プロモーション用のスチルもあるんですが、多くは舞台裏の楽屋写真なのが、何だか楽しくてヨロシイ。ヘラクレスの扮装のまま、カチンコ持ってふざけているリーヴスとか、撮影担当だったマリオ・バーヴァと談笑しているリーヴスとか、スクリーン上の凛々しさとは異なるくだけた笑顔が実にカワイイ。無防備に大股開きで椅子に座ってるもんだから、パンチラどころかパンモロだし(笑)。
 さて、気になるのがこのCD、”The Italian Peplum Original Soundtracks Anthology Vol.1″ と銘打たれているんですな。で、この「イタリア製ピラピラ映画」って、おそらくはソード&サンダルと同義だと思うんで、するってーと、今後の発売も楽しみに。
 何が出るのかな〜、ワクワク(笑)。
『ヘラクレス』『ヘラクレスの逆襲』サントラCD輸入盤(amazon.co.jp)

明日から渋谷で稲垣征次さんの個展が開催

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 明日8月5日から15日まで、渋谷の画廊「美蕾樹」で、画家の稲垣征次さんの個展『少年艶姿』が開催されます。
 稲垣さんは、精緻極まる鉛筆画で、幻想的でエロティックな少年の絵を描き続けていらっしゃる画家。雑誌「薔薇族」をご覧になっていた方なら、その美しくも時に妖しい素晴らしい作品は、もうお馴染みのはず。
 雑誌ではモノクロがメインでしたが、今回の個展は色鉛筆によるカラー作品がメイン。昨年の個展でも、やはり色鉛筆や油絵によるカラーの作品を出展しておられましたが、モノクロ画のあの精緻さはそのままに、色とりどりの宝石を散りばめたような、色彩のあでやかさ。おもわず息をのむほどでした。今回もおそらく、その絢爛たる幻想美を、再び披露してくださることでしょう。
 作品には、描写の緻密さと完成度の高さもあいまって、エロティック・アートとしての魅力と同時に、例えて言えば石版画によるアンティークな博物画のような、硬質で凛とした工芸品的な美しさもあります。エロティック・アートのみに限らず、幻想美術全般がお好きな方、また、澁澤龍彦の『フローラ逍遙』とかエルンスト・ヘッケルの博物画とかがお好きな方にも、ぜひ一度ご覧いただきたい。
 画廊の場所や開館時間、休日等の情報は、伊藤文學さんのブログに詳細があります。
 現役の日本のゲイ・エロティック・アーティストの中では、間違いなくトップクラスの作家の個展、お見逃しのなきよう!

『聖女の臀堂』春川ナミオ

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 中野タコシェさんから、春川ナミオさんの図録『聖女の臀堂』が発売されました。
 春川ナミオさんといえば、エロティック・アートに興味のある方、特にノンケSMの男マゾ系ジャンルでは、もう知らない人はいないだろうというくらい有名な画家。
 一貫して描かれる、「巨女のお尻に小柄な男が下敷きにされている」という緻密で繊細な鉛筆画は、他に類を見ない個性といい、絵画的な完成度の高さによる美麗さといい、日本のエロティック・アート界が誇る至高の存在の一人、と言いたくなってしまうほど、本当に素晴らしい。
 かく言う私もずっとファンでして、今回の図録の解説で、自分が入手しそびれている画集が三冊もあると知り、悔しさに歯噛みをしているところです(笑)。
 じっさい、SM好きではあってもゲイである私には、氏の描かれるような、巨女への屈服といったファンタジーはありません。しかし氏の作品には、そんなセクシュアリティの差異を越えて、私を圧倒する完成度とパワーがあります。
 ちょうど、つい先日発売されたばかりの雑誌『QJr』の対談で、私は自分の感じるところのエロティック・アートの魅力を、「作者のファンタジーのみを母体として生まれ、それを突き詰めれば突き詰めるほど、ユニークで濃くなっていく、自己表現としての『純粋さ』や『アーティスティック』さ」といったニュアンスで喋っているんですが、春川ナミオさんの作品は、まさにこれにドンピシャ。
 かつて世間一般では、マイナーなセクシュアリティに対して、良く「歪んだ欲望」とか表現されたもんですが、馬鹿言っちゃいけません。表現としてこんなに「真っ直ぐ」なものは、アート全般を見渡しても、そうそうあるものではなく、だからこそ春川ナミオさんの作品は、こんなにも清々しく力強く美しい。
 もちろんテクニックや表現力といった、タブローとしての完成度の高さも、その美しさには一役買っております。紙の目を生かしながら柔らかく重ねられた、鉛筆の粉が描き出す陰影の美しさ。それによって描き出された艶やかに漲る臀部は、作者からの崇拝という無償の愛があってこその所産なのだ。
 そういった意味でエロティック・アートとは、それが生み出されるに至る原動力に、宗教芸術と似た構造を持っている……というのは、かねてからの自分の持論。
 アートついでにもうちょっと脱線すると、例えば春川ナミオ作品で描かれる、主観的なデフォルメと客観的なリアリズムが混淆した尻や太腿のフォルムを見ていると、私はどこかしらピエール・モリニエの作品との共通点を感じます。更に言えば、林良文は春川ナミオに大きく影響を受けたのではないかと、ひっそり考えていたりもします。
 もっと脱線すると、春川ナミオと同傾向のセクシュアリティを伺わせるマンガ家である、たつみひろしの絵を見ていると、ダイナミックなパースで描かれた圧倒的な肉の量感や、よりエスカレートしたスカトロジーやバイオレンスやファルスの描写などから、今度はシビル・ルペルトを連想します。
 こういった具合に、作品が表現として純化していくと共に、ポルノグラフィやイラストレーションといったジャンルや枠を跳び越えて、作者の思惑を離れたところで、純粋に作品の持つ力によって、モダン・アートの世界にも接近していく、というのも、私の感じるところの優れたエロティック・アートの魅力の一つ。
 そんなこんなもあって、やはり春川ナミオさんの作品は、圧倒的なまでに素晴らしい。
 今回の図録は2001年以降の作品を収録とのことですが、描かれている世界はいつもと変わらず、福々しくも凛とした顔立ちの美女たちの巨大な臀球に顔を埋める、小さく哀れな裸のマゾ男たち。
 でも、ぱっと見て「全部同じじゃん」と思うのは、それは観察眼が足りません。
 よくご覧あれ。巨尻による顔面騎乗という行為こそ同じでも、その置かれているシチュエーションは、男にまだ人格が残っているセクシャルなプレイの一環であったり、人格も喪って人間椅子のような器具化されていたり、男が己の意志で奴隷として美神に屈服する図であったり、逆に女が力によって男を征服するアマゾネスであったりと、実は千差万別なのだ。
 サド・マゾヒズムを扱ったエロティック・アートは、こういったディテール、すなわち一枚の絵から導き出される数多のモノガタリ性を、じっくりタップリねぶるように味わってこそ、その醍醐味を充分に堪能できるんです。パラ見は禁物、絵を能動的に「読みながら」鑑賞しましょう。因みに、私の一番のお気に入りは、4ページ目の「二人向かい合わせに縛られて、人間椅子にされている」やつ。
 ただ、妄想が奇想にまでエスカレートしている系の作品、例えば『巨女渇愛 vol.2』の「幻の女権帝国」に見られたような、人間椅子レベルの器具化も越えて、アクセサリーのように「女の尻から尻尾のようにぶら下がっている男」系の作品が収録されていないのが、個人的にはちょっと残念ではあります。あの、まるでチョウチンアンコウの男女関係(笑)みたいな姿は、視覚的にかなりインパクト大だったので……。
 図録はタコシェさんで、税込み1000円で発売中。
 ぜひお手にとって、じっくりとご鑑賞あれ。

PoserとかCarrara 5とか

 久々にCarraraをバージョンアップしてみました。Carrara Studio 2からCarrara 5へ。
 私の場合Carraraは、スプライン・モデラーかPoserのレンダラー用途がメインでして、今まで使っていたCarrara Studio 2では、データのインポートはWavefront OBJファイル経由でした。
 しかし、マテリアル設定をCarrara上でやり直さなければいけないのと、にも関わらず透明マップ関係が、設定をどういじっても不要なシャドウが出てしまったりエッジにフリンジのようなものが出てしまったりと、どうしても上手くいかないので、絵を描く際のシミュレーション以外の用途では、あまり使っていませんでした。
 後にCarraraのバージョンが上がり、加えてTransPoserという、Poserデータをそのままインポートできるプラグインも発売されました。これにはかなり食指が動いたんですが、OSのバージョンとCPUパワーの兼ね合いで、今度はCarraraそのもののバージョンアップを断念。で、今日に至ります。
 今回は、幸いにしてOSもマシンも新しいから(……っても、OSはPantherだし、ハードもMac mini 1.42GHz+メモリ1GBですから、既に古いスペックですけど)、新しいCarraraも問題なく動きそうなので、思い切ってバージョンアップ。
 Carrara 5はネイティブでもPoserデータのインポートは出来るらしいですが、ダイナミック・クロスを使うには、やはりTransPoserプラグインが必要。Carraraは廉価の機能限定版にして、TransPoserはバージョンアップを待って別購入、という手も考えたんですが、プラグイン関係のバージョンアップやリリース情報がどこにもなかったので、ここは思い切って最初からTransPoserがバンドルされているCarrara 5 Proに。……と思ったら、早々とTransPoserもバージョンアップしやがりました。クソ(笑)。
 使用感は、何しろ2バージョンとばしなのでウラシマタロウではありますが、うん、使いやすくなってます。
 重さに関しては、環境自体が違うので何とも言えませんが、以前のPower Mac G4 350Mhz + Carrara Studio 2のときは、なにをするにもモッタリモッタリしてストレス溜まりまくりでしたが、今回はサクサク……とまではいかないものの、まあ重い軽いという点では、Vueとさほど変わらぬ操作感。
 2と比べると、ブラウザのレイアウトが大幅に変わっていますが、これはかなり機能的で使いやすくなった。オブジェクトの移動・拡大縮小・回転といった操作も、2のときはコツを掴みにくくて失敗もままあったんですが、今回はポインタの場所でカーソルの形が変わってくれるので無問題。ホットポイントをいじるにはCapsLockをオンにするとか、ちょいと馴染みがなく直感的ではないようにも感じますが、まあこれも慣れの問題でしょう。右クリックで出すゴーストメニューとかも同様。
 あ、一つバグみたいなものも発見。Carraraではカメラビューとレンダリング画像枠がイコールではないので、最終的なレンダリング画像の構図を決めるには、カメラビューの中に「制作フレーム」という別フレームを表示する必要がある。ところが、これがマニュアル通りに「表示メニュー>制作フレームを表示」としても、何だかメッセージが出てきて、それにOKしてもしなくても、カメラビューに変化はなく制作フレームは表示されない。これは困りモンではありますが、とりあえずショートカットのCommand + Option +Fを試してみたら、今度は無事に表示できたのでホッとひと息。
 モデラーに関しては、スプラインはともかく、正直ポリゴン・モデラーの方は、やっぱどうもよーワカラン(笑)。頑張ってマスターすればいいんだろうけど、ついつい面倒くさくて、使い慣れた六角大王を立ち上げちゃう(笑)。
 しばらくご無沙汰していた間に、Carraraでは風景関係や植生関係の機能がアップしたらしいので、試しにサンプル・ファイルをレンダリングしてみる。
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 ……うわ、けっこうリアル。
 植生関係はともかく、地形や空はかなりいい感じ。空と雲は、マンガの背景用にも使えそう。でも、リアルな風景は、やっぱレンダリングにも時間がかかるのね(笑)。アニメーションに使ったら、大変なことになりそうだ(笑)。
 プリセットに月や太陽系の惑星といったオブジェクトやシーンもあったので、そっちもレンダリングしてみる。……うん、使える。特に月が嬉しいなぁ。過去に何度か、天文写真的な月の画像が欲しいと思ったことがあるんだけど、使えるものを探すのにけっこう苦労したので。でもCarraraを使えば、プリセットのシーンをちょちょいといじるだけで、ほらこの通り(笑)。
moon1_carraramoon2_carrara
 プリセットにはそれ以外にも、ロゴだの商品写真だの室内風景といった、デザイナーさんにとっての実戦向けなシーンもあり。カンプとかに便利かも。
 さて、ようやくお目当てのTransPoserを使ってみると……うわ、すっげー便利!(笑)
 マテリアル等、何のプラスアルファの必要もなく、そのままスムーズにインポート。マテリアルの再現性もPoser上のイメージと近いので、BryceやVueでレンダリングするときのような、レンダリングするアプリに合ったマテリアル設定を、あらかじめPoser上でしておくといった手間もいらず。
 Poserからはライティングもインポートできるので、「別アプリでレンダリングすると、Poserで見ていたときとフィギュアのイメージが違う」なんてお悩みをお持ちの方にも親切設計です。
 インポートにあたって、PoserとCarraraのサイズ換算を指定できるのもグー。つまり、別々のファイルで用意した複数のフィギュアを、Carraraで一つのシーンに読み込みたい、なんてときも、このサイズ換算を合わせておけば、Cararra上で大きさ合わせをする必要は一切ない。BryceやVueだと、これは手動で直感的にやるか、もしくはサイズの大きい別オブジェクトをテンプレートとするといった裏技を使う必要があったので、これも便利。
 インポート時に元のPoserのシーンファイルとリンクしておけば、修正をしたくなった場合も、Poserのオリジナル・ファイルに手をいれれば、それが自動的にCarraraのシーンにも反映されるのも便利。(ただ、制限はあって、Poser上で新たにオブジェクトを追加とかしても、それは反映されない)
 そんなこんなで、Poserとの連携という点では、正直Vue + Moverを上回ってますな、Carrara + TransPoserは。(Shadeは持ってないんで、よーワカラン)
 実は、TransPoserを使わなくても、CarraraにはネイティブでPoserファイルをインポートできる機能がありまして、これだとダイナミック・クロスやダイナミック・ヘアーは使えませんが、そのかわりボーンやモーフの情報をインポートできるので、仮にPoserアプリ自体を持っていなくても、PoserフィギュアをCarrara上で編集・アニメート等することが可能です。
 ただ、これでインポートすると、めちゃめちゃ重い(笑)。試しに10秒程度のアニメーション付きデータを、このPoserネイティブインポートで読み込んでみたら……フリーズしやがりました(笑)。アニメーション情報を持ち込まないなら、それほど重くはならないのかなぁ。
 あと、この方法だと、例えばPoserのテクスチャがRuntimeの中の複数フォルダに分散している、とかいう場合、テクスチャの場所がどこかとか聞いてくるので、いちいち手動で指定しなきゃならない。これが、思っくそ面倒(笑)。TransPoserでは、こーゆー手間もいっさいなしなので、Poserとの連携を考えている方は、やはりプラグインの使用をオススメしたいかな。
 さて、Carraraの魅力と言えば、価格のわりに機能が豊富だということと、レンダリングが早いということ。
 これを生かして、Poser + Carraraでアニメーションも作ってみたい、というのが今回の購入動機の一つ。Carraraの炎オブジェクトを使えば、Vueではちょっと難しそうな「火あぶり」とかも簡単にできそうだし(笑)、パーティクルを使えば「放尿」なんてのも作れるかもしれないし(笑)。
 でまあ、ぼちぼち作ってみると、うん、やっぱレンダリングは早いですね、Carrara。というわけで、ちょいとムービーのワンフレームを、原寸でご紹介。ヤバい部分はマスキング(笑)。
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 ピクセル比は、DVのワイド画像。レイトレーシングで、パラメーター設定はだいたいデフォルトですが、オブジェクトの精度を1px、アンチエイリアス品質を中に変更。動画なら、この程度で充分キレイだと判断。で、レンダリング所要時間は、1フレームあたり40秒足らずと、かなりストレスなくサクサクいけちゃいます。
 まあ、地形のような大量のポリゴンは使っていないし、大気設定もなしなので、Vueとの単純比較はできません。でも、例えば画面左側のスポットライトで使っている、3Dシャドウ付きのボリュームライト。Vueでこれをやると、いきなり処理が重くなって、レンダリングも桁違いに遅くなってしまう。また、Vueのレンダリングは透明マップがあると、これまた劇的に速度が遅くなる。
 しかし、Carraraだとそこまでの変化はなく、この程度のシンプルなボリュームライトだったら、レンダリング速度の変化も殆ど気にならないし、透明マップ関係(このシーンだと、左の男の髪、眼球、ヒゲ、あと隠しちゃったけど陰毛など)も、Vueほど極端に遅くなったりはしない感じ。
 今後ムービーを作る際は、室内シーンはCarrara、屋外はVueという使い分けになりそう。
 そんなこんなで今回のCarrara 5、かな〜り気に入ったので、今後出番が増えそうであります。
Carrara日本語版公式Webサイト

『シャガール ダフニスとクロエー(普及版)』岩波書店

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『ダフニスとクロエー』は、2世紀末〜3世紀のギリシャで、ロンゴスという人物が書いたと伝えられる、レスボス島を舞台にした若い男女の恋愛物語。本書は、そのテキストの日本語訳(松平千秋/訳)に、1961年にマルク・シャガールの制作した42点のリトグラフを併せた、フルカラーの挿絵本。
 タイトルにはラヴェルのバレエ音楽で馴染みがあり、長いこと愛聴はしていたものの、実際の物語は読んだことがありませんでした。一方、シャガールのリトグラフは、確かハイティーンの頃、鎌倉の神奈川県立近代美術館に「シャガール展」を見に行った際、現物を目にして、その色彩の余りの美しさに絶句、深く感銘を受けたという想い出があります。
 で、つい最近になって、ロンゴスのテキストとシャガールの絵がカップリングされた本書が、昨年出版されていたと知り、いそいそと買って参りました。

 物語は、神話と現実が分離する以前の素朴な田園世界を舞台に、羊飼いらにらによって育てられた二人の捨て子、ダフニスとクロエーが織りなす、その成長と愛を描いています。
 ドラマはいろいろと盛り沢山で、恋愛モノには必需の横恋慕も出てくるし、近在の村との戦争なんていうアクションもあり(これがバレエだと、海賊の襲来に変わってますね)、年上のオネーサンによる性の手ほどき(いわゆる、『青い体験』系ですな)もあり、男と男の同性愛(ま、古代ギリシャですからね)も出てくる。
 とはいえ、中核を成すのは、あくまでも詩情豊かな自然描写と共に繰り広げられる、少女マンガの如く美形の若い男女の恋愛模様。ロマンティックであることに加えて、清々しくおおらかなエロティシズムがあることも魅力的。ニンフやパンに捧げる儀式などの、エキゾティックで古代的な描写の数々も楽しいし、あちこちで顔を出すユーモラスな要素も面白い。
 興味深いのは、ラストになってこのモノガタリは、一種の貴種流離譚的な側面も持ちあわせていることが明かされるんですが、その最終的な着地点が「宮殿やお屋敷への帰還」ではない、つまり、主人公たちが本来属していた、生まれた場所に戻るのではなく、彼らが育ち、その愛を育んでいった場所である「田園」に戻るということ。ここには作者ロンゴスの、アルカディア的な憧れのようなものが感じられるのですが、古代ギリシャ世界においても、既にこうした都会人から牧人に対する牧歌的理想郷への憧憬という、昨今の定年退職後の会社員が田舎暮らしを希求するような、現代とさほど変わらない感覚があるのが面白い。
 こういった、あくまでも自然の美しさや自然神に対する信仰の純粋さや人間の素朴さを讃えるという、作者の一貫した視点が、モノガタリ全体にいっそうの清々しさを与えています。終幕、牧人たちの「荒々しいどら声で(中略)まるで三叉の鍬で畑の土を掘り起こしているような響きで、とても結婚を祝う歌とは聞こえな」い歌に祝福されて、二人が身体を重ね、それまで「森で二人がしていたことは、幼い牧童の遊びにすぎなかった」ことを知るシーンの、素朴な生と性と愛の合一した何という多幸感! ちょっと感動モノでした。

 かつて私を感動させたシャガールの挿絵に関しては、やはり印刷物の悲しさで、あのリトグラフに見た鉱物そのもののような色彩の輝きには到底及ばないものの、しかし不可能な欲をかかなければ充分以上に美しく、目を楽しませてくれます。かつて、一葉目の「ダフニスを見つけるラモーン」を見たとき、画面のほぼ全体を占める美しいグリーンの中に、小さく白と肌色で描かれた山羊と赤子のコンポジションの美しさに、陶然として見とれてしまったことを覚えていますが、そういった感動はこの本だけでもちゃんと味わえるでしょう。
 また、シャガールの絵とリトグラフというメディアの相性が良い。個人的な意見ですが、シャガールの描く世界は、油絵の「重さ」とはあまり合わない。リトグラフの方が、絵とメディアそれぞれの「軽さ」が、絶妙にマッチしているように思います。
 一枚一枚の絵はいかにもシャガール調で、鮮やかな色味と牧歌的な幻想性が、『ダフニスとクロエー』という田園的な神話世界と、実に良く合っています。いかにも素朴で影をかんじさせないところとか、時に少女趣味的なまでにロマンティックなところなど、両者にはかなり共通点も多い。
 ただ、エロティシズムという点に関しては、残念ながらあまり上手くはいっていない。そもそもシャガールの描く人物は、およそ肉体の堅牢さや生々しさを感じさせない、どちらかというと魂か幽霊のような味わいなので、それらが例え裸で同衾していても、何ともあっさりとしていてエロスには程遠い世界です。ここいらへんは、デフォルメされた線画だけなのにエロいピカソあたりとは、全く異なる個性ですね。
 この『ダフニスとクロエー』の場合、全体に横溢するおおらかなエロティシズムも大きな魅力のうちだったので、その点は少しだけ残念ではあります。

 さて、ちらっと前述した同性愛について、もう少し詳しく書いてみます。
 美少年ダフニスに想いを寄せるグナトーンは、いわゆる放蕩者として描かれており、その男色趣味についてもモノガタリは「慰みもの」や「もてあそぶ」と語り、決して好意的とは言えません。
 しかし、それはともかくとして、グナトーンは自身で「(ダフニスの)からだに惚れたんです」と語るように、同性に対して完全に性欲に先導された興味を覚えており、しかも「生まれついての男色好み」とも描写されています。つまりこれは、同性愛者のキャラクターとしては、プラトン的に理想化された同性愛でもなく、バイセクシャルの一面としての同性愛でもない、いわば現代のゲイとかなり近い存在とも考えられるのが、興味深いところです。
 もちろんモノガタリ的には、グナトーンは所詮当て馬でしかないし、ダフニスを性的に求めるグナトーンに対して、作者はダフニスの口を借りて、そういった行為が「牡山羊が牝山羊に乗るのはあたりまえだが、牡山羊が同じ牡に乗るのは誰も見た者はいない、牡羊でも牝でもなしに牡を相手にすることはせず、鶏だって牡が牝のかわりに牡とつるむことはない」と、不自然なことであるとも語らせています。
 とはいえ、グナトーンは同性愛者ゆえにモノガタリから滅ぼされることもない。性欲ゆえにダフニスを「ものにしたい」というグナトーンの気持は、やがてダフニスに対する恋へとなり、グナトーンが自分の主人に語るダフニスへの想いは、それ自体は恋の姿の一つとして至極まっとうに描かれています。グナトーンがモノガタリ的に批判されるのは、あくまでも恋そのものに対してではなく、恋を成就させるために身体的な力や社会的な力を使おうとしたことにある。
 後に、二人のパワーバランスが逆転した時点で(当初「(身分の低い)ラモーンのせがれなどに惚れて恥ずかしいとは思わぬか、山羊を飼っている少年と並んでねようと本気で考えているのか」と揶揄されたグナトーンは、やがて「悪党のグナトーンめにも、取巻きふぜいの分際でどんな人間に想いをかけたのか、思い知らせてやらねばならぬ」と言われる立場に変化する)、主人公たちの恋路を邪魔する悪役という、グナトーンのモノガタリ的な役目は終わります。
 しかし、この時点ではグナトーンはまだモノガタリから退場はしない。また、悪役グナトーンに対するモノガタリ的な罰も下されない。この後グナトーンは、クロエーの危機に「ダフニスと仲直りする絶好の機会」と考えてその救出に赴き、結果としてダフニスからも「自分の恩人だといって、これまでのわだかまりを解」かれるという、一種のモノガタリからの救済が用意されている。
 このことから、同性愛全般に対する視点を読みとろうとするのは、いささか危険ではあります。グナトーンは同性愛者であると同時に、「全身が顎(口)と胃の腑とと臍から下でできている」、つまり、食欲と酒に酔うことと性欲が全ての放蕩者であり、男色好み云々を別にしても、そもそもが下衆なキャラクターという設定なので。
 しかし、グナトーンの性欲自体に対しては、それを卑しいものと捉えている傾向はあるものの、断罪しようとする視点は見当たりません。グナトーンに与えられるモノガタリ的な救済も、彼が性欲を諦めてプラトニック・ラブに移行したからではなく、あくまでも悪役であった彼が改心したからです。
 こういったことからは、決して歓迎されてはいないが、社会的なタブーではないゆえに容認はされているという、同性愛に対する視点が伺われます。現代の日本社会にも通じるものがあり、なかなか興味深い描き方でした。

 では、もしグナトーンに与えられた性格が悪役としてのそれではなく、純粋にダフニスを愛する者として登場していれば、彼らの性愛も美しく讃えられていたのだろうか。
 残念ながら、答はおそらくノーでしょう。作者であるロンゴスの視点は、あくまでも自然と自然に近い人間の姿の素晴らしさを讃えることにあり、前段で述べた清々しくおおらかなエロティシズムを伴う性の姿も、そういった視点の所産です。
 ですから、近在の人妻リュカイオンが、ダフニスの筆おろしを「もって生まれた人間の本性が、どうしたらよいか教えてくれた」ようにすることはあっても、グナトーンとダフニスが結ばれることは、このモノガタリ世界ではあり得ない。同性愛は自然の営みではないという、時代的な限界がここにはあります。
 愛と性の喜びを謳い感動させてくれた作品で、同時にこういった要素を目にしてしまうのは、私としてはちと残念なことですね。
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『オーメン』

『オーメン』(2006)ジョン・ムーア
“The Omen” (2006) John Moore
 ビックリしました。
 このリメイク、かなりオリジナルに忠実だと聞いていけど、実際に見たら、確かにある意味でオリジナルと「同じ」で、しかもそれが「無意味に同じ」だったから(笑)。
 同じだと言った舌の根も乾かぬうちから、こう言うのもなんですが、実はモノガタリとしての根本的な構造は、オリジナルとは大きく変わっています。
 オリジナルのモノガタリは、最初は小さな「個」のドラマとして始まり、それがやがて「世界」という大きなスケールへと拡がっていく。しかし今回のリメイクは、天体観測からバチカン(……だよね、きっと)の会議という、モノガタリの導入部分から、これが「世界」のドラマであることを示す。ここで説明される現実の事件との結びつきは、いささか強引である感はありましたが、それでも最初から巨大なスケールを提示することで、ある種のワクワク感は感じさせてくれ、これはこれで新機軸としては悪くない。
 ところが、この後がいけなかった。
 多少の現代風のアレンジがあったり、多少のオリジナルではなかった要素が加わってはいるものの、基本的なエピソードは、ほとんどオリジナルのまんま。
 で、これが解せない。
 大使や夫人の苦悩や神父や乳母の怪しさなど、オリジナルで連ねられたエピソードの目的は、全て「信じていた(信じたいと思っている)幸せな(それも人並み以上に幸せなはずの)日常」が崩れていくという効果につながっていた。ところが今回は、初めからアンチ・キリストの出現に触れている以上、もうオリジナルの作劇上でのキモであった、「不穏だけど、考えようによってはどうとでもとれる気配」が次第に積み重なり膨れあがっていくサスペンスや、それに伴う「ひょっとして……いや、まさか……でも……」という人間的な煩悶、つまり、日常が次第に非日常へとスライドしていくサスペンスは、既に無効化している。だって観客には既に、主人公の知り得ないこと、つまり、よりモノガタリの外側からの視点による情報を、事前に提示されているんだから。
 にも関わらず、意義や効果が実質的に喪われているエピソードが、ただただ形骸的に同じようになぞられていく。こんな行為に、いったいどれほどの意味があるというのだ?
 更に言えば、下手にオリジナル通りであるだけに、つけ加わったアレンジの陳腐さや工夫の乏しさも、余計に目に付く。
 例えば、串刺しシーンにトッピングされたアレ。派手派手しい要素をプラスしたかったのかも知れないけれど、アレの位置からしてすごい強引。首切りシーンにしても、今回の首切りに使われるアレは、いかにも首を切るために考えた風の無理矢理感がイッパイ。こんな強引なことをするんだったら、別に「串刺し」や「首切り」にこだわらず、別の殺し方を見せてくれた方がずっと良いし、「串刺し」や「首切り」を四谷怪談の戸板返しみたいな定番として捉えたのなら、もっと「俺ならこう見せる!」という心意気が欲しい。
 新聞記事がインターネットの画像になっていたり、銀塩写真にデジタル画像が加わったり、三輪車がキックボードになっていたりといった「今風の」変更に関しても、正直「……だから?」って感じ。単にメディアやツールが現代風に置き換わっているだけで、置き換わったことによって生まれる効果が何もなく、逆にオリジナルの持っていた効果すらも喪われている部分も。だったら、無理に置き換えなくてもいいじゃん。
 そんなこんなで、全てがひたすら中途半端。アイデアを練るという工夫が、およそ感じられず、オリジナルをなぞることも、新たな解釈を加えることも、どちらもできていない。個々の演出が酷いとかいうわけでは決してないのだが、根本的にドラマに対する考え方が雑すぎる。
 オリジナルを未見であれば、そこそこ楽しめそうだとは思うけど、でもここまでオリジナリティやクリエイティビティやパッションとは程遠い作品は、やっぱり褒める気にはなれない。商品としてはそれなりに楽しめるにせよ、作品としては、作り手の志が低いにも程があるって感じでした。

『ポセイドン』

『ポセイドン』(2006)ウォルフガング・ペーターゼン
“Poseidon” (2006) Wolfgang Petersen
 パニック映画大好きの相棒と一緒に鑑賞。
 まず、導入。カメラが海中から浮上して、ポセイドン号の船体をグルグルと舐めるように撮る。全体を捕らえたロングからワンショットで人物のアップに寄ったり、いかにも昨今のCGIを駆使した絵作りらしいアクロバティックな動きなのだが、映画の導入としてのケレン味はタップリ、クラウス・バデルトの勇壮なスコアもあって気分を盛り上げてくれます。
 引き続き本編に入り、それぞれのキャラクターの紹介は、必要最小限にして手堅くコンパクト。そして、そのキャラクターたちが集合し、新年のカウントダウン・パーティーのシーンになるんですが、このカウントダウンのシーンが、しっかりゴージャスかつロマンチックに見せてくれて、かな〜り良い。『ナルニア』のときにも書いたけど、こーゆー「スペクタクル」を見せてくれる映画って、意外と稀少だからねぇ。『トロイ』に引き続き、ペーターゼン監督に拍手!
 で、そこに大惨事が唐突に襲いかかるんですが、その「華麗な幸福感に満ちたパーティー」と「いきなり襲いかかる大惨事」の、コントラストの見事さといったら! ここはマジで感心!
 これ、この「唐突さ」が重要なんですな。普通は、アクシデントの到来までを、別視点での前振りを入れて、サスペンス的に盛り上げるのが常套手段。ところがこの映画は、ホント前振りらしい前振りもなく、唐突に「それ」が訪れる。その作劇法的な「外し」が、いかにも予期せぬ事故に巻き込まれ、平穏な楽しい日常が突如断ち切られてしまうという、現実的なブッツリ感を醸し出してくれて、実に素晴らしい。もう、拍手喝采もの。
 ……という感じで、タイトルからここまでは、百点満点をあげたい出来映え。
 話が本筋に入ってからは、アクシデントのつるべ打ちに。
 とはいっても、垂れ流しではなく緩急はあるし、迫力も緊迫感もあるし、エピソードの組み方も上手くて、見ていて鼻白むこともない。一緒に見に行った相棒は大喜び、私自身の印象も、満腹感はありつつ、でも胸焼け一歩手前で堅実に押さえている感じで、ここ数年来のパニックもの映画の中ではベストかな。
 で、パニック映画では、アクシデントやアクションといった様子と共に、「危機的状況の中で、いかに人として生きるか」というドラマが描かれるのが常で、オリジナルの『ポセイドン・アドベンチャー』の最大の魅力的はそこいらへんにありましたが、今回は「いかに生きるか」じゃなくて「いかに生き延びるか」で精一杯、「人としてのありかた」を問うている暇はない、といった風情。ロマンとしてのドラマが介在する余地は、ほとんどないといった感じ。
 ただ、かといって同じ監督の『Uボート』みたいな重さや圧迫感があるわけでもなく、ドライに突き放した視点で徹底するというわけでもなく、あちこちでいかにも娯楽大作的なクリシェや、ウェットな視点も混じります。本来であれば、そういった軸のブレはあまり好意的には見られないのですが、この場合のブレは、娯楽映画として成立させるためのバランスを手探りしているようにも見え(そういや『トロイ』も、そんな感じがあったなぁ)、そうなると作家の端くれとしては、その板挟みをいかに捌ききるかという点に興味を惹かれます。
 中でも印象深かったのが、子供の救出劇。他のシーンでは、いかにしてその危機を脱出するかというのが、ちゃんと描かれて説明されているのに、このシーンでは、どうあっても助かりそうにない状況から、どうやって助けることができたという説明が一切ない。それが何だか、監督の「ここは嘘なんだよ、ホントはこの子供は死んじゃうんだよ」という意思表示に見えてくるのが面白い。
 とはいえキャラクター全般は、捌き方は上手いものの、立て方が少々物足りない感もあるので、そこんとこはもうちょっとプラスアルファが欲しかった。特にメインの二人、ジョシュ・ルーカスとカート・ラッセルが弱い。
 ヒロイズム等を避けて普通の人っぽくしたかったのなら、だったら元ニューヨーク(……だったっけ?)市長なんて設定じゃなくてもいいような。往年のオール・キャストもののような華やかさは必要ないにしても、もうちょっと何らかの魅力は出して欲しいなぁ。
 サブキャラの、エミー・ロッサムとマイク・ヴォーゲルのカップルは、それぞれ最近『オペラ座の怪人』『テキサス・チェーンソー』で、いい感じと思っていたので、個人的にはお得気分。
 映画のアタマでは、「小綺麗で無精ヒゲもないマイク・ヴォーゲルは、全く魅力ナシ!」なんて思ったんですが、中盤以降はだんだん薄汚れていってイイ感じに(笑)。でも、水難事故だし上半身くらいは脱ぐかと期待してたんだけど、残念ながら濡れTどまりだった。
 あと、個人的に一番嬉しかったのは、リチャード・ドレイファス!
 だいぶオジイチャンになりましたが、しっかりステキなオジイチャンになってたし、とにかく我がハイティーン時代のアイドル、愛しのリチャード『グッバイ・ガール』ドレイファス様がゲイ役(!)ってだけで、個人的には映画自体がプラス10点くらいアップ。しかもこの役、モノガタリ的には別にゲイである必要も何もない。ゲイだということで特別に役割を背負うこともなく、フツーにゲイなだけ。
 悩めるハムレットでもなく、サイコなシリアル・キラーでもなく、モノガタリにとって都合の良いキューピッドや潤滑油でもない、こーゆー「ただゲイなだけ」のキャラクターを映画で見ると、何だかホッとします。扱いがニュートラルですごく感じがいい。脱出行で、若い男の子に「ハンサム君」とか呼びかけるあたりは、小ネタとしてゲイ的にはお楽しみどころかな。まあ、その後すぐにドツボなんだけど。
 そうそう、このドレイファス演じるゲイのオジイチャン、左耳にダイヤか何かのピアスしているんですが、「片耳ピアス=ゲイ」という「記号」を見たり読んだりするのは、もう20年振りくらいなんで、何だか懐かしかったなぁ。でも、あたしゃてっきり、これは都市伝説の類かと思ってた。
 で、このドレイファス翁が一番キャラが立ってたように感じられた……ってのは、単に私がゲイだから?
 というわけで、「導入の素晴らしさ」+「見せ物的な見応え」+「ゲイ役のリチャード・ドレイファス」ってだけで、もう個人的には充分以上に満足しました。
 軸のブレに関しても、根っこのところで「現実問題として生き延びるには、とにかく希望を捨てず、ひたすら頑張るしかないんだ」という芯は一本通っていたように思えるし、同ネタで別のものを作るという点では、リメイクものとしても興味深い仕上がりでした。