「非実在青少年」規制問題に関する余談2

 続いてしまいました(笑)。
 そろそろ仕事に集中しないとヤバいんですが、もうちょっとだけ。
 前回同様に今回も、この問題に対しての具体的なあれこれからは少し離れて、こういった問題が生まれる背景について考えてみたかったので、内容もいささか戯れ言めいて感じられるかも知れません。

 私が海外の、特に欧米のジャーナリストやファンの方と話していて、たびたび受ける質問に、こういうものがある。
「モデルを使ってるの?」
 私の答えは、毎回同じ。
「マンガに関しては、モデルは使っておらず、ほぼ全て頭の中の記憶と想像だけで描いている」
 この質問は本当に多く、中には、私の使っている(だろう)モデルを、自分もモデルとして使いたいから、紹介して欲しいという写真家もいた。
 しかし、日本でこの質問をされることは、ほぼない。せいぜい、日頃マンガに触れる習慣が全くなく、マンガを読む機会があるのはゲイ雑誌上だけといった感じの、主に年配の方から、マンガだけではなくイラストも含めた質問として、2、3回聞かれたことがある程度だろうか。

 で、今回の問題に関して、いろいろ読んだり考えたりしているうちに、ふと、こう思った。
 ひょっとして、欧米と日本では、「絵」に対する感覚が根本的に異なっているんじゃないだろうか、と。
 日本人で、日常的にマンガに馴染みのある人ならば、一般的にマンガを描くのにモデルは使わない、というのが、既に共通認識としてありそうだ。だから、前述の質問をする人もいない。
 ところが欧米だと、写実の伝統が長いこともあって、絵を描くということとモデルを使うということが、日本人が感じるそれよりも、ずっと密接なものとして、意識の奥底に根付いているのかも知れない。
 だから、いくらマンガと言えども、それがチャーリー・ブラウン級にデフォルメされたカートゥーンでもない限り、半ば無意識的に背後にモデルの存在を感じてしまうのでは。しかも、それがリアル(これは写実的という意味のリアルではなく、自分に迫ってくる生々しさを感じるという意味でのリアル)であればあるほど、そんな「モデルの気配」が強くなる、とか。

 さて、ポルノ規制を主張する人曰く、「児童ポルノの被害者」というのには二種類あるらしい。具体的には、製作過程で性的虐待を受けた児童という被害者と、製作された画像を見ることで苦痛を受ける被害者ということらしい。<参照元>
 後者の「制作された画像を見ることで苦痛を受ける被害者」に関しては、前回のエントリーで既に意見を述べている。
 では、前者の「制作過程で性的虐待を受けた被害者」についてはどうかと言うと、実写のポルノグラフィーならばそのまま納得できるのだが、マンガ(やアニメやゲーム)に関しては、とてもそんなものが存在するとは思えない。
 ならば、マンガは規制論の対象外になりそうなものであるが、上記の参照元の言う「世界的」な基準(なにをもって「世界的」と規定するのか、という問題は、ここではとりあえず置いておこう)では、そうではない。
 これは、矛盾してはいないか。
 では、エロマンガにおける「被害者」が、「見ることで苦痛を受ける」ことのみに絞られるのだとしたら、そしてその論点が、実害の有無を問うのではなく、マンガの存在そのものが視覚的な暴力だというのなら、それは「児童虐待」ではなく「セクシュアル・ハラスメント」の問題であろう。

 しかし、現実に見られる論は、必ずしもそうではない。
 例えば、「社団法人 東京都小学校PTA協議会」が提出した、「青少年健全育成条例改正案の成立に関する緊急要望書」を読むと(因みに、この組織の会長である新谷珠恵氏は、実は、今回の条例案作成に関わった、東京都青少年問題協議会委員でもあるので、この要望書と今回の都条例の主旨は、ある程度以上は合致すると判断しても良いような気がする)、「私たちは、子どもたちが児童ポルノの犠牲者となり、その姿が大人の性的視線にさらされ、インターネット上で永久に広まっていくことを許すことができません」とか書いてある。
 これが、実在する児童のことであるのなら、私も全く異論はないのだが、しかし今回は「非実在青少年」である。ということは、マンガの登場人物である青少年が、性暴力の被害者だと言いたいのだろうか。どうも良く判らない。

 そこで、なぜ名言しないかの理由を、勝手に二つ想像してみた。
 まず、あえて「架空の児童」と「実在の児童」を区別をつけないことで、現実の児童が被害にあっている「児童ポルノ」という、言葉の持つネガティブ・イメージを利用し、それで「フィクションに対する規制」という実態を覆い隠そうという意図があるのではないか、ということ。
 もう一つは、本音では「犯罪を犯した小児性愛者」だけではなく、「そういうセクシュアリティを持ってはいるが、実際の社会では問題を起こしていない小児性愛者」をも、犯罪者予備軍もしくは絶対的な社会悪として、取り締まりたがっているのではないか、ということ。
 どちらにしても、私にとっては「おぞましい考え方」としか思えない。
 特に、後者の小児性愛の存在自体を社会悪として否定することは、環境次第でそれを同性愛に置き換えても論理が成立してしまう以上、私は断固として認めることはできない。
 幸いにして私は、ゲイにとっては過酷なイスラム圏ではなく、この日本に生まれたが、それは単なる「偶然」でしかない。
 ゲイとしての私が望むことは、どんな世界でもゲイが安全に生きられるということであって、イスラム圏のように異なる状況下であれば、ゲイというだけで鞭打たれても構わないなどという世界では、断じてない。

 ただ、そういったこととは別に、実はここには、最初に述べたような「絵とモデル」に関する感覚の、欧米と日本の根本的な差異が、「マンガにおけるそれも徹底規制すべし」という論が「世界的」な標準として現れる原因の一つとして、見えないところで横たわっているのかも……と、ふと思ったのだ。
 そういう感覚、つまり「一般的に絵とはモデルを使って描くもの」という感覚が、意識的にせよ無意識的にせよ根深く存在するとしたら、確かに「児童のキャラクターが出てくるエロマンガ」にも、「マンガの制作過程上で性的虐待を受けた児童」を感じてしまうかも知れない。
 そして、前述した矛盾や疑問が感じられるポルノ規制論は、欧米的な美術史を背景とした「絵とモデルの密接さ」といった感覚を共有できないまま、規制に関するロジックだけを、「世界標準」としてそのまま日本の文化史に当てはめているために、生じている歪みなのではないだろうか。
 例として言をあげさせていただいた沼崎氏も新谷氏も、どちらも米国で学ばれた経験がおありのようだし。

 まあ、我ながら、いささか想像を逞しくし過ぎているかもしれないという、自覚はある。
 ただ、そういった「絵とモデルの密接さ」に関しては、最初に述べた自分の実体験によるものに加えて、もう一つ別の例をあげてみたい。
 下の二枚の図版をご覧あれ。
carrollBouguereau
 二枚の「絵」ではなく「図版」と書いたのには、訳がある。このうちの片方は、「絵」ではなく「写真」だからだ。
 左が写真である。「不思議の国のアリス」の著者として知られるルイス・キャロルが、自分が撮影した少女のヌード写真に、彩色を施し絵画風に仕上げた作品。
 右は、19世紀フランスの画家、ウィリアム・アドルフ・ブーグローによる油彩画。
 この「写真(という現実の少女)」と「絵(というフィクションの少年)」の差異(二者間の隔たり)を見てから、改めて「写真(という現実)」と「日本のマンガ(というフィクション)」の関係を考えると、これらの二つの関係性は、その成り立ちから何から全く異なるものだ、という感じがしないだろうか。それこそ、会話が通じなさそうなくらい。
 今回は「児童のヌード」という意味で、こういう比較にしてみたが、例えば、ベラスケスの描いた肖像画と、写楽の役者絵の比較でもいい。そうすれば、同じ「実在する人物を絵に写すという行為の結果」とはいえ、それぞれの背景にある文化や感覚が、いかに異なっているかが見えるだろう。
 思想の「輸入」を考えるのならば、こういった文化的差異を踏まえるということは、大前提として必須なことだと思うのだが。

 因みに、キャロルの撮った少女ヌード写真は、ほとんどが破棄され、現存しているのは4枚程度だそうだ。対してブーグローの描く少年少女のヌード画は、美術館にも展示されているし、ポスターなどのインテリア・アートとしても大人気である。
 このことは、写真と絵という二つのメディアの間には、明確な境界線があるということの、一つの歴史的回答のように思える。
 もし今後、いたずらにその境界線をなくし、線の引けない場所に無理やり線を引き、曖昧な前提で解釈の範囲が恣意的に変化しうる状況になれば、昨日まで「健全」な家庭の壁を飾っていたブーグローの「無垢で愛らしい」複製画も、翌日からいきなり「所持することすら禁止」な「いかがわしいもの」になるかもしれない。
 そんな社会が「健全」だとは、私には到底思えない。

「非実在青少年」規制問題に関する余談

 都条例「非実在青少年」規制問題については、議決が先送りになるのではないかという観測が流れておりますが、まだまだ予断は許さぬ状況のようです。<参考>
 今回のエントリーでは、実際の「非実在青少年」規制問題からは少し離れますが、なにゆえこうした「実在(つまり現実)」の問題が「非実在(つまりフィクション)」に及ぶのか、その構造そのものについて、19世紀ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」を手本に、いま起きている問題とも絡めながら、ちょっと私見を綴ってみたいと思います。

 まず、下の二つの絵をご覧あれ。
LeightonMoor
 前回のエントリーで述べたように、19世紀ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」において、左のフレデリック・レイトンの描いたヴィーナスは「芸術」と称賛され、右のアルバート・ムーアは「猥褻」と非難を受けた。これは、当時の「モラル」に基づく判断だったわけだが、では、具体的にはどういうことなのか。
 前項では、「モラルというものの曖昧さ」を強調するために、具体的な理由には触れなかったが、実はその「理由」の中に、今回自分が考えてみたい、「現実がフィクションに干渉する」、その一例を見ることが出来るのだ。

 以下、私が参照した雑誌『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」から、該当部分を引用させていただこう。

 この2人のヴィーナスが、それぞれどういう場にいるかを、よく見比べてください。レイトンの絵の背景に顔を出す青い海は、おそらく地中海。ドーリス式の柱も立っているし、画面の左下にはヴィーナスのアトリビュート(引用者注・このモチーフはこのキャラクターを表す、という約束ごと)である薔薇の花と鳩が描かれています。
 一方のムーアの絵は、そこがどこかも判然としない室内風景ですよね。画面の下に描かれている染付の壷なんて、明らかに1869年当時(引用者注・この絵が描かれた年代)の日本趣味を反映している。
 つまり、こういうことなんです。レイトンのヌードは、その場面設定からして、古代ギリシャ世界のヴィーナス像以外のなにものでもない。一方、ムーアのヌードはといえば、画家のアトリエのような室内でヌード・モデルを描いたとしか見えない作品でした。レイトンがヴィーナス像の伝統というものをきちんと踏まえているとすれば、ムーアのヴィーナスは、A Venusという題名のとおり「ヴィーナスのようなもの」、つまりヴィーナスそのものではなくて、単なる現実のモデルをヴィーナス風に描いたヌードにすぎなかった。
 先ほど紹介したムーアの作品への2つの評が変に回りくどい言い方で貶していたのは、この事実を口に出すのがはばかられて、ぐっと呑みこんだ結果だったんですね。だからムーアの絵を見た評者も、本当は「道徳的にやましいところ」を感じていたわけですよ。
(引用者注・ムーアの絵は「あまりにも醜くおぞましいために、その趣味に反対する以外、他に反対しようという気にもならない」「このようなヌード作品には反対しようがない。というのも、まったくもって不愉快きわなりないからだ」といった具合に、具体的に「どこがどう」という指摘ではなく、ヘンに奥歯に物が挟まったような表現で批判されている)

 お判りだろうか。
 つまり、ムーアのヴィーナスを非難した評者は、それを見て「いやらしい」と感じたのだ。何故かというと、それが引用部分からもお判りのように、「フィクションのお約束ごとを踏まえていない、現実の状況を連想させるヌード」だったからである。
 ムーアの絵がモラル的に非難された理由は、それは、非難した人間自身の、アモラルな感情の反映でしかないのである。
 これが、性表現において、現実がフィクションに干渉してきた一例である。

 では、ここでその「モラルとアモラル」について、もう少し考えてみる。
 現在、この二つのヴィーナス図を見た際、どっちが「性的」だろうか。
 残念ながら私はゲイなので、女性のヌードを自分の中にある性的なものと結びつけて見ることができない。よって、古代ギリシャで女神が素っ裸になっていようと、密室で一般女性が素っ裸になっていようと、どっちも「どーでもいい」ことでしかないが、まあ、肉体表現のリアルさや肌やポーズの艶めかしさなんかから、たぶんレイトンのほうがセクシーなんじゃないかな、とは思う。セクシーであるためのお約束ごとを、ちゃんと踏まえているように見られるのでね。
 あと、状況を考えあわせても、「画家のアトリエというセッティングで、絵のためにポーズをとっている、ほとんど無表情な女性」よりも、「外から丸見えな状況で服を脱ぎ、しかも見られていることを一切意識していない女性」の方が、よりシチュエーション的にもエロいんじゃないかな、とも思う。まぁ、マッチョ好きとしては、ムーアの描くヴィーナスのバキバキの腹筋も、ちょいと捨てがたいものがあるけど(笑)。
 という具合に、絵というフィクションが非難される基準となった「モラル」は、時代によっても個人によっても、かくも曖昧で千差万別であるし、フィクションを現実と重ね合わせる行為の責任は、フィクション自体ではなく、重ね合わせた鑑賞者自身が負うべきものなのだ。

 それと同時に、ここからはもう一つ、現代日本の状況との近似点が見えてくる。
 ムーアのヴィーナスに対する、「おぞまし」くて「不愉快」なので、それを「酷評」するという反応。これは、ポルノグラフィー等に対する性表現への既成について語られる際の、「それを見ることで苦痛を感じる被害者がいる」ので「規制すべき」という論調と、どこか似てはいないだろうか?
 私は、「先人に学び、その過ちは繰り返したくない」という考えの持ち主なので、自分で「道徳的にやましい」ことを感じてしまったからといって、そんな自分を正当化するために「絵」を攻撃した、ムーアのヴィーナスを酷評した人々と、同じようにはなりたくない。
 同時にそこから、「社会一般の健全な考え方を代表して語っているつもり」な言動が、いかにうさんくさいものであるのか、まず疑え、という教訓も得る。
 こういったことが、歴史を学ぶ、歴史から学ぶということの、真髄だと思うのだが。
 だいいち、自分がエッチな気分になったからって、その責任を相手に問うという考え方は、まるで、痴漢や強姦の被害者に対して、「誘うような恰好をしているお前が悪い」と言うのと、似たようなものではないか。
 猥褻な絵の問題と、現実の人間の問題を、一緒にするなって?
 何をおっしゃる、最初にフィクションと現実を同列に論じ始めたのは、「非実在青少年」の方でしょうが。

 ただし、前述したような「見ることで苦痛を感じる」ということについて、それを全面的に否定するつもりもない。ヴィクトリア朝のアカデミー展なら、会場に行かなければそれを見なくて済むが、それをそのまま現代日本に置き換えるのは乱暴すぎるだろう。
 よって、繰り返しになるが、ゾーニングという考え方自体には「賛成」と言っても良いが、ゾーニングだけを欧米に倣い、性表現自体に関しては、現状の「猥褻」という曖昧至極な基準によって、表現の自由が侵害され続けるのなら、やはりそれは納得がいかない。
 ホント、どうして性表現の規制に関して、「欧米では」とか「先進諸国では」とか言いたがる人は、それと同時に「先進諸国に倣ってポルノも解禁すべき」と言わないのだろう? 乱暴な口調になるが、「自分の都合のいいことばっか言ってね〜で、自分の言ってることの変さも少しはテメェで考えろ、このノータリン!」って感じでゴザイマスわ、オホホ。

 さて、現実がフィクションに干渉した例として、もう一枚、絵を見ていただきたい。
Poynter
 これもまた、ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」で非難の的となった、エドワード・ジョン・ポインターの「ディアデーマを結ぶ少女」という絵である。
 では、この絵の何が「モラル的」に非難の対象となったのか? それを理解するには、この「ヌード論争」の具体的な流れを知る必要がある。
「ヌード論争」のきっかけとなったのは、「ヌード絵画はふしだらで、英国の品位を貶め、人々のモラルを侮辱している」といった内容の、「英国の良識ある既婚婦人」と名乗る、匿名による新聞投書だった。その結果、同紙にはヌードの是非を巡る、賛否両論の投書が殺到した。
 やがてこの論争は、画壇へも波及していったが、最初は大した騒ぎではなかったという。それが一気に激化したのは、アカデミー展開催中に新聞に掲載された、一本の記事のせいだった。

 以下、再び該当部分を引用してみたい。

 ところがアカデミー展開催中の7月、W・T・ステッドというジャーナリストが「現代バビロンの処女の貢ぎ」と題した記事を「ペルメル・ガゼット」紙に掲載し、ロンドンの少女売春の実態を赤裸々に暴くんです。この記事が伝えた現実のあまりのおぞましさに英国中がパニックに陥ったほど。
 そんな状況において、ポインター描く無防備な少女ヌードは、画家の意図に反して、あたかも少女売春をそそのかしているかのように受けとられたのでした。
(改行は引用者による)

 私が何故この絵を例として挙げたか、お判りいただけただろうか?
 この絵を巡る評価に関しては、前述の二つのヴィーナス図同様に、現実の問題がフィクションの世界に干渉しただけでなく、フィクションの意味すらも歪めてしまったのだ。
 もっとも私個人の主観で言えば、別に少女売春そのものを絵画作品で描いても、そのこと自体に全く問題はないと思っている。前項でも述べたように、私は、現実とフィクションは完全に分けて考えるべきだと思っているし、現実世界を大事に思うのと同様に、フィクションの自立性も尊重すべきだと思っているので。

 まあ、この問題はちょっと脇に置くとして、再度この絵を見てみたい。
 果たしてこれが、「少女売春をそそのかしている」ように見えるだろうか。もし、何の予備知識もなくこの絵を見て、それでも少女売春を連想する人がいたとしたら、それはそもそもその人が、普段から少女売春に並々ならぬ興味を持っていて、その興味を絵に投影しているのではないだろうか、と、私などは思ってしまうのだが。
 しかし残念ながら、この絵が発表されたタイミングが、この絵に対するニュートラルな「理解」を阻んだ。現実の抱えていた問題、それもどうやらセンセーショナルに報じられてヒステリックな反応を生んだらしき問題が、この絵の意味を歪めてしまった。
 その結果、ポインターは後に、裸体の上に衣を描き加えてしまった。つまり、1985年のアカデミー展に出品された、大作ヌード画としての「ディアデーマを結ぶ少女」のオリジナルは、既にこの世に存在しない。上の図版は、その前年に制作された同名の小さな作品、つまり習作のようなものでしかない。
 しかし現在では、この喪われなかった小品は、ロイヤル・アルバート美術館に展示されている(らしい)し、今回このエントリーを書くにあたって、ネットで画像を検索したところ、良くある「ステキなインテリア・アート」として、この絵の複製を販売しているサイトも見つかった。
 そこには既に、少女売春をそそのかすというような「アモラル」な影は、全く見られない。
 このように、「モラル」や「現実の抱える問題」を、絵という「虚構」に投影してその存在の是非を語るのは、およそ愚かしくも当てにならない行為なのだ。
 なお、このような現実をもってフィクションに干渉したがる人全般について、松沢呉一氏のこのツイートが、私にとって実に納得のいく内容だったので、宜しかったらぜひご一読いただきたい。

 以上、「ヌード論争」で非難を受けた絵の実例を紹介してみたが、「ヌード反対派」の残した作品についても、少し触れておこう。
 下の絵をご覧あれ。
Horsley
 前項で私が、ヌード反対派の筆頭として名前を挙げた、ジョン・キャルコット・ホーズリーの「聖ヴァレンタインの日」という絵だ。
 寡聞にして私は、今回のエントリーを書くまで、ホーズリーという画家がどんな作品を描いたのか、全く知らなかった。検索したところによると、世界最初のクリスマス・カードの絵を描いた画家として知られているそうだ。
 というわけで、上の作品が彼の代表作と言えるようなものなのかどうか、正直言って自分には判らない。とりあえず、英語版Wikipediaの彼のページに載っていた絵なので、そうそう間違ったチョイスではないとは思うのだが。
 ホーズリーは、ロイヤル・アカデミーの会計局長という、アカデミー内では会長に次ぐ第二の地位にいたので、その言動にも、やはりどこか「検閲・弾圧」めいた気配があったのかもしれない。
 しかし、それと同時に彼は、あくまでもアカデミーに所属する画家、つまり「表現の送り手」という当事者でもあった。そして、それに反論したジェームズ・マクニール・ホイッスラーもフレデリック・ウォッツも、やはり同じく画家である。

 お判りだろうか。
 こうして、ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」と、今回の「非実在青少年問題」を比較していると、クィアな私としては、ついつい「う〜ん、じゃあホーズリーが『チンコで障子を破る』の人で、『英国の良識ある既婚婦人』が『ひなげしの花』の人かしらん」なんて軽口を叩きたくなってしまうのだが、この二つには決定的な違いがあるのだ。
 ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」に関して、その「愚かさ」について重点的に語ってはきたが、それでもこの論争は、あくまでも「当事者(画家)および民間人(マスコミ)による議論」なのだ。対して、今回の「非実在青少年問題」は、「非当事者(行政)による一方的な決定を巡る問題」である。
 この二つの差は、実に大きい。どのくらい違うかは、仮にも民主主義国家に生活している人物ならば、それこそ「実在青少年」(非実在じゃないよ)でも判るのでは。
 ゆえに私は前項で、「同程度どころか退行している」と述べたのである。

 最後に、ちょっと意地悪なデータを載せておこう。
 少女売春をそそのかしていると非難を受けた画家、Edward John Poynterの、Google Imageでの検索結果/約50,800件。
 ヌード絵画を「モラル」によって徹底攻撃した画家、John Callcott Horsleyの、Google Imageでの検索結果/約 753件。
(続く……かも知れません)

都条例「非実在青少年」規制問題に関する私見

 なぜ私が、この事態を憂慮しているかということについても、ちょっと意見を述べておきたいと思います。

 まず、そもそも今回の「非実在青少年」のように、「実在しない」のに「人権がある」ような考え方自体が理解できない。
 百歩譲って、フィクション上の「非実在青少年」なるものについて、積極的に考えようとしても、文章がOKで絵がNGだというのも判らない。文章よりも絵の方が、より即物的で犯罪的な存在だとでもいうのだろうか。

 次に、作家としての自分の「表現の自由」を守りたい、ということは、言うまでもない。
 そもそも私は「フィクションにタブーなし」という考え方であるし、本家サイト開設以来、トップページにずっとバナーを揚げてきたように、「フィクションと現実は明確に区別せよ」という信念を持っている。
 性表現・性文化のゾーニングに関しては、「賛成」するのにやぶさかではないけれど、ただし、よく引き合いに出されるように、「欧米では……」といったグローバル・スタンダード的なレトリックを用いるのなら、ゾーニングを徹底すると同時に、ポルノグラフィーを解禁せよ、と言いたい。
 この問題以前から、私の「表現の自由」は、「性器の修正」という形で、既に侵害されている。

 性と表現の関わりについては、まず、美術史上から先例を幾つか引いてみたい。性と表現に関してもの申すなら、もうちょっと歴史から学べることがあるだろう、と思うからだ。

 まず、有名な話から、16世紀イタリアの話。
 画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラは、ミケランジェロの「最後の審判」に描かれた、裸体画の股間を隠すために、布や葉などを加筆した。このことから、気の毒に彼は、後世まで「ふんどし画家」と嘲られてしまった。
 次に19世紀、明治期の日本。
 画家黒田清輝の「朝妝」が「裸体画論争」を引き起こし、ときに裸体画は下半身を布で覆われた状態で展示されたりした。
 そして、同じく19世紀、ヴィクトリア朝のイギリス。
 ロイヤル・アカデミーの会計会長ジョン・キャルコット・ホーズリーは、「ふしだらなヌード画」に対する徹底的な攻撃によって「着衣のホーズリー」とあだ名され、雑誌『パンチ』上で茶化され、画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは自作のヌード画に、「邪(よこしま)なるものこそホーズリーなれ」というメモを貼って出品した。
 この「ヌード論議」で、ヌード反対派を後押ししたのは、当時活発化した「社会浄化運動」だった。
 そして、当時の価値基準では、同じヌード画でも、アルバート・ムーアの「ヴィーナス」は猥褻で、フレデリック・レイトンの「衣を脱ぐヴィーナス」は芸術だった。これは、当時の「モラル」に準拠した判断なのだが、どうしてか、その理由がお判りだろうか?
 その答えは、ここでは書かないことにする。何故なら、ここでは「どうして?」と思うこと自体に意味があるからだ。

 このように、いずれも現代の感覚からすると、理解できなかったり、滑稽に感じられる「美術史上の事件」だが、実のところ、現在の日本の状況を鑑みると、あながちこれらを滑稽だと笑うことはできないのだ。
 なぜなら、こういった滑稽な事態を生み出したのは、今回と全く同じ、「健全か、不健全か」という価値基準であり、「健全はよし、不健全はダメ」という考え方なのだから。
 21世紀の日本社会は、裸体表現に対する禁忌という意味で、「ふんどし画家」や、明治時代の「裸体画論争」と似たようなものだし、モラル的な断罪といった点では、ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」と同じであり、しかも今回の「非実在青少年」によって、それが更に退行しようとしている。
 特に、後者の「健全・不健全」といったような、モラル的な断罪方法については、かつて同性愛差別が、同じモラルの名のもとに正当化され行われてきた歴史を踏まえても、私は断じてそれに同意することはできない。

 しかも今回は、それが政治という「社会の中核を成す部分」で起きている変化であるが故に、その行く先に対する懸念が、私の中では通常以上に大きくなっている。
 前述したように、こういった性を思想的に扱いつつ、それを「健全・不健全」と二項対立で判断するような考え方が、性を「マトモ」と「ヘンタイ」に分け、「同性愛」は「ヘンタイ」とされてた。そして、この性を「良し悪し」で判断するための基準とされてきたのが、学術やモラルであったのだが、いずれも社会や時代の違いに応じて、いかようにも変化してきた。
 つまり、これらは実に曖昧に揺らぎうるもので、決して普遍的な絶対律ではない。
 これは、今回の都条例の持つ「曖昧さ」、つまり、判断基準が恣意的に、いかようにも変化しうるという問題点と、相通じるもののように思われる。どちらも、「今日はOKだったものが、明日はNGになりうる」のだ。
 政治という社会の中核部で、仮にも条例という「法」が、そういった「曖昧さ」を孕んだまま、しかも「わざと議論の余裕を持たさずにスピード採決に持ち込もうとするかのような動き」(竹熊健太郎)、つまり、誰も知らないところで決定してしまい、それを既成事実にしようとするという考え方には、私は心の底から恐怖する。
 更に、山田五郎氏のラジオで聞かれるように、テレビという最も大きな影響力を持つメディアは、このことを議論はおろか、きちんと触れようとする気配すら見せない、という事実も恐ろしい。

 こういった動きを社会全体が受容する、つまり、例え「おかしい」という声が上がっても、それについて議論されることもなく、そのまままかり通ってしまう世界であるのなら、私はそこに、以前ここでヴァルター・シュピースについて書いたときに触れた、1930年代のオランダ領インドネシアで、それまで何十年も「暗黙の了解」という「曖昧さ」によって守られてきた同地の同性愛者が、社会が保守化していくパラダイム・シフトの中で、否応なく「狩り」の対象へと変化していった、という事例を、重ねずにはいられない。
 このことが、現代の日本とどのように通じるものがあるかは、上記のエントリーで既に書いているので、ここでは繰り返しさないが、それに関してテレビが「沈黙」していることが、これまた以前ここでマンガ「MW」の映画化に際して意見を書いたときと同様の、性に対する旧弊で無知な現状を思い出させる。
 だから、「非実在青少年」という言葉は、いかにも滑稽なものではあるけれど、それを生み出した「思想」と、それを育ててしまう「状況」には、私は底知れぬ恐怖を感じてしまう。
 いささか大げさに感じられるかも知れないが、それが私の正直な感想だ。

(ヴィクトリア朝絵画におけるヌードに関しては、雑誌『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」を参照)

都条例「非実在青少年」規制問題に関する覚え書き

 この問題に関して、私個人のスタンスは「断固反対」であり、自分に出来うる行動も既に済ませました。
 ただ、現在この問題が進行中であり、残された時間が少ないことを、まだご存じでない方がいらして、そして結果が出た後、悪い方向へと進んでしまってから、初めて「知らなかったから、何もできなかった」と後悔なさることがないよう、及ばずながら情報の流布の一助になれば良いと思い、当エントリーを書くことにしました。
 まず、この問題に関して「初耳だ」という方に向けて、どういう問題がどのような状況下で進行しているのかが、判りやすくまとまっているウェブページに、以下に目的別に分けて、幾つかリンクを貼っておきます。
[最初に全体像をざっと把握したい]
都条例「非実在青少年」規制問題について
〜編集家・竹熊健太郎氏ブログ「たけくまメモ」、および明治大学国際日本学科准教授・藤本由香里氏のmixi日記より
[条例が可決した場合、何かが起こりうるのか、そのシミュレーションを知りたい]
「非実在青少年」はこのように規制される(だろう)
 〜漫棚通信ブログ版より
[現在進行中の、より詳細で具体的な情報が欲しい]
東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト
[反対したい場合、自分に何が出来るか、どうすればいいのかを知りたい]
「非実在青少年」規制問題・対策まとめ
[文化人や著名人の反応を知りたい]
(煩雑になるので、上記のリンク先にあるもの以外で、私が特に興味深く思ったものをピックアップしました)
緊急提言!都の「青少年育成条例」改正案にモノ申す!
 〜評論家・山田五郎氏によるラジオ音声。条例の持つ根本的な「おかしさ」について、判りやすく楽しく解説してくれています。オススメ。
残り100時間で出来ること、他
 〜マンガ家・野上武志氏による現場からの提言
 なお、マンガ家や作家として活動していらっしゃる方で、尚出して反対意見表明・反対署名をしたい場合。
 大手や中堅の出版社では、それぞれの編集部単位で各作家さんの意見を求め、最終的に取りまとめが行われる模様ですが、残念ながら、私の周囲のゲイ雑誌やBL雑誌などでは、そういった動きは見られません。
 ただ、太田出版さんが、現在「東京都『青少年育成条例改正案』への反対署名」を募っておられるので、そちらを通じて反対署名が可能です。
東京都「青少年育成条例改正案」への反対署名について
 〜太田出版ホームページ。Eメールによる署名、本日16時まで。
 もう一つ、Twitterのアカウントをお持ちの方は、小学館IKKI編集長氏が、「東京都青少年育成条例の改正案/疑義・反対 作家リストへの掲載」を、ツイートで受け付けておられましたが、既に本日10時までというタイムリミットを過ぎてしまいました。参考までに、該当ツイートへのリンクのみ貼っておきます。
日本書籍出版協会のほうで、「東京都青少年育成条例の改正案/疑義・反対 作家リスト」の作成を始めました
 長くなったので、ここは告知だけにして、この問題に関する私見に関しては、項目を分けます。

趣味のアニメーションとか

 先日のアニメーションもどきは、ちょっとアレな内容だったので、3年ほど前に趣味で制作した、健全(笑)なヤツもYouTubeにアップしました。
 淋しい白熊のアニメーション。

 使用ソフトはPoser(キャラクター・アニメーション)、Vue(風景アニメーション)、ArtMatic(光などのエフェクト・アニメーション)、Paiter(手描き部分原画)、Photoshop(手描き部分原画)、AnimeStudioぜんまいハウス版(2Dアニメーションとコンポジット)、iMovie(編集)。
 アニメクリエイターことSmithMicro版AnimeStudioは、このアニメーションには使用していません。
 音楽は、例によってGarageBandとLogicExpressで制作。

AnmeStudio日本語版がアニメクリエイターという名で発売開始

 以前紹介した、米SmithMicro社のアニメーション作成ソフト”AnimeStudio”ですが、日本語版が「アニメクリエイター」と名前を変えて発売されました。販売元はact2
 現時点では、エントリー・バージョンのdebutのみの販売のようですが、上位バージョンのproも、後日追加されるとのこと。
 ちょちょっとアニメーションをいじってみたい人には、なかなか手軽で楽しいソフトなので、英語版で腰が引けていた人も、この機会にお試しになってはいかが? 30日間フル機能が試用できる体験版もありますから。

 で、私も久々に同ソフトを立ち上げてみました。
 以前アップしたテスト動画は、いずれもベクター画像を使ったものだったので、今度はちょいとラスター画像のアニメーションを試してみました。
 まあ、一晩でヤッツケで作ったものなので、大したもんじゃないですけど。過去に書いた絵をアニメクリエイター(と言いつつ、私の持っているのは英語版なのでAnimeStudio……ヤヤコシイな)に読み込んで、ボーンを使って動かしたり変形させたりしてるだけです。それ用に新たに絵を描いたわけではないので、どうしてもあちこち無理が出てますが、ま、ラスター画像にボーンを組み込むと、どんな風になるかという、簡単な参考にはなるかと。
 とはいえ、ついうっかりエロいヤツを作っちゃったんで、こりゃYouTubeには載せられない(笑)。
 とゆーわけで、フリーのファイル・アップローダーに、mp4動画をアップしました。ダウンロードはこちらから。ちょっと待つと、ハードディスクのアイコンの横に、青文字で「Click here to start download..」というメッセージが出るので、そこをクリックすればOK。
 因みに、動かしてみたのは、この2枚です。
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 大人向けなので、未成年者はダウンロードしないように!

ゴードン・スコット(Gordon Scott)版ターザン映画のDVD

dvd_tarzan_scott_6pack
 ゴードン・スコット主演のターザン映画のDVD(アメリカ盤)が届いたので、ご紹介。
 ラインナップは、以下の6本。
『ターザンと隠された密林 Tarzan’s Hidden Jungle』(1955)
『ターザンと消えた探検家 Tarzan and the Lost Safari』(1957)
『Tarzan and the Trappers』(1958)
『ターザンの激闘 Tarzan’s Fight for Life』(1958)
『ターザンの決闘 Tarzan’s Greatest Adventure』(1959)
『ターザン大いに怒る Tarzan the Magnificent』(1960)

 前に紹介した、レックス・バーカー版DVDと同様に、今回もワーナー・アーカイブ・コレクションというオンデマンド・サービスによるもの。
 というわけで、やはり、ジャケは簡素なプリンタ出力、ディスクはDVD-R、メニューはシンプル、チャプターは10分刻みの機械的なもののみ、字幕や音声切り替え等はなし。
 ただし、これまたやっぱり、画質は充分以上のクオリティ。オンデマンド・サービスとはいえ、流石に正規盤だけあって、良くあるPDの安価な商品とは雲泥の差。ワイド画面作品は、ちゃんとスクイーズ収録で、退色やディテールのツブレといった劣化は、ほぼ見られず。
 どのくらいちゃんとした画質か、サンプルを原寸解像度のキャプチャ画像でお見せしませう。
tarzan_fightforlife_gashitsu

 んでもって、これまた例によって、米ワーナーのサイトからの直接購入は不可能。メーカーから直で買えば、6本パックなら50%offのサービスがあるのに、残念ながらそれは使えず、米アマゾンで割引なしで買うしかなし。
 というわけで、とりあえず二本鑑賞しました。

 まず、『ターザンと消えた探検家 Tarzan and the Lost Safari』から。
 これは何でも、ターザン映画史上初の、ワイドスクリーン&総天然色作品だそうです。というわけで、ゴードン・スコット君はターザン役なので、シャツを着てるシーンなんか一秒たりともなく、徹頭徹尾腰布一丁の半裸でゴザイまして、その滑らかな筋肉や艶やかな肌が、美麗なカラーでたっぷり拝めます。
 いや、これ以前の白黒版と比べると、カラーのターザンは何だかなまめかしいなぁ(笑)。
 ヘラクレスとかを演ると、ちょい筋量が足りない感じがしちゃうスコット君ですが、ワイズミューラーやバーカーと比べると、やっぱ腕とか太いですね。アスリート系とビルダー系の中間で、ビーフケーキって感じ。

 話の方は、いたってシンプル。
 ジャングルに墜落した飛行機の乗客が、蛮族に追われながら脱出するのを、ターザンが助ける……ってな内容なんですが、この脱出行、ビックリするくらいマッタリ模様(笑)。危機また危機でスリルとサスペンスがテンコモリかと思いきや、さしたるビッグ・トラブルもなく、ゾウやらカバやらキリンやらを見物しながら、まるでアフリカ観光旅行ハイキングみたいなノンビリさ加減。
 人間ドラマも、いちおう悪党がいたりとかもするんですが、メインに描かれるのは、そういった極限状態のヒリヒリ系ではなく、パイロットの夫と不仲だったヒロインが、自分たちを助けてくれた逞しい裸の男に心惹かれてしまい……ってな、ヨロメキ不倫劇だったりするし(笑)。

 まあ、現代の目で見てしまうと、何ともノンビリとした映画に見えますが、1950年代だったら、総天然色の大画面で、アフリカの風物とか原住民の踊りなんかを見るだけでも、充分スペクタキュラーで、立派に映画の「売り」になったんでしょうね、きっと。
 前述したように、スコット君のヌードはふんだんに拝めますが、責め場はなし。

 お次は、『ターザンの激闘 Tarzan’s Fight for Life』。
 これは、『消えた探検家』と比べると、ドラマはもうちょっと複雑だし、起伏もあります。
 舞台は、ジャングルにある白人医師の診療所。呪術医療に頼る原住民を、近代医学で救おうとしているんですが、呪術医はそれが面白くない。村の女が重傷を負って、診療所に運び込まれたものの、呪術医は親族が輸血に行くのを禁じ、そのため女はあえなく死んでしまう。また、若い酋長が病気になり、その母親が呪術医よりも診療所を頼ろうとしていることを知り、激怒する。
 一方ターザンは、チータが体温計に悪戯をしたせいで、ジェーンが瀕死の高熱だと思い込んでしまい、ボーイともどもジェーンを診療所に運ぶ。呪術医は、死んでしまった女性の夫に催眠術をかけ、報復としてジェーンを暗殺するよう命令し、更に、自分の威信を取り戻すために、診療所から薬を盗んで若い酋長を治療しようと企むのだが、間違って治療薬ではなく毒薬を盗んでしまう。
 ボーイの機転で、ジェーンは危機一髪で救われるのだが、呪術医は既に毒薬を手に若い酋長の元へ向かっていた。それを止めようと、ターザンは後を追うのだが、呪術師の仕組んだ罠に落ちて捕らえられ、牢獄に入れられライオンの餌にされるか、それとも生きたまま心臓をえぐり取られそうになる……! てな感じで、なかなか楽しめるオハナシです。

 ボーイが作ったカヌーでジェーンを診療所に運ぼうとすると、途中に滝で行く手を阻まれたりとか、滝を迂回して途中にジェーンが独りになると、そこに危険な大蛇が現れるとか、若い酋長の家来が呪術医に捕まって拷問されているのを、ボーイが発見してターザンが救出するとか、スリルとアクションをマメに盛り込みつつ、かつチータ絡みで笑いもバッチリとゆー感じで、いかにもプログラム・ピクチャー的な、オーソドックスな娯楽感がイッパイ。

 んでもって嬉しいことに、責め場もなかなか良くて、こんな感じ。
 ターザンは、滝を昇って疲れたところを、敵に襲われ棍棒で殴られて昏倒。そのまま木枠に縛られてジャングルを運ばれた後、二艘のカヌーの間に磔状態で川下り。ここ、絵面的に、かなりグッときます(笑)。ただ、惜しむらくは、カヌーのシーンで縛られているのは、おそらくスコット君ではなくボディ・ダブルの人。この映画、アフリカのロケシーンでは、どうもスコット君ではなくこの代役さんが、全て演じてるっぽいので。
 村に着いたターザンは、そのまま首枷横木両手縛りで引き回し。ここもまた、グッとくる(笑)。
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 首枷のまま、ライオンのいる檻に入れられた後は、お約束通り、拘束から逃れるための身悶えという名の筋肉ショー。
 直截的な拷問こそないものの、この一連のシークエンスを、けっこう時間もタップリとって見せてくれるので、責め場的な満足度はかなり高し。
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 もう一ヶ所、若い酋長の家来(若い黒人)が捕まって拷問されるシーンもありますが、これは椅子に縛られて焼いた槍の穂先で脅されるのと、殴打されるのをロングで見せる程度。
 マッチョでは、悪役の黒人戦士が、カーク・ダグラス版『スパルタクス』にも出ていたウディ・ストロードという男優さんで、これまたなかなか見事な筋肉を見せてくれます。

日本語字幕付きで見られることを期待してるローマもの、二本

 まずは、これ。

 スパルタカスもののテレビシリーズ、”Spartacus: Blood and Sand”の予告編。
 本国アメリカでも、まだ今年の一月に始まったばかりらしいので、ソフト化とかはまだまだ先でしょうけど、予告編見るだけでも、実にオイシソウな内容(笑)。
 お次は、こちら。

 今年の4月に米英で公開予定の映画、”Centurion”の予告編。
 12世紀の初め、ブリテン島でピクト人に敗れたローマ軍団の生き残り7人が、囚われの将軍を救出するアクション・アドベンチャーっぽい。『ディセント』のニール・マーシャル監督、『300』のマイケル・ファスベンダー主演。
 とゆーわけで、どちらも本国でソフト化されたら、輸入DVD購入もやぶさかではないんですが、やはり日本語字幕付きで見たいところ。
 無事に日本でも公開、もしくはソフト化されますように。南無南無。
【追記】”Centurion”は日本盤DVDが出ました!

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発売日:2011-01-28

【追記】そして『スパルタカス』も。
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予約していたものと予約したもの

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 先日書いた、営業終了してしまったすみや渋谷店で予約していた最後の商品が、留守中に届いて再配達をお願いしていたのが、昨日届きました。
 映画『悲しみよこんにちは』のサントラ盤。音楽は、大好きなジョルジュ・オーリック。同じくオーリックが音楽を手掛けた『居酒屋』『恋ひとすじに』とのカップリング盤。
『悲しみよこんにちは』は、ジュリエット・グレコが歌う主題歌(とゆーか劇中歌とゆーか)が、ちゃんと入っていて嬉しい。グレコのアルバムに入っているのも持っているけど、やっぱ映画オリジナル・バージョンでも欲しかったもんで。
 因みにこの曲、フランス語では「ボンジュール・トリステス」ってんですが、シモーヌ深雪さんが、これと橘外男の短編小説を引っかけて「淫獣トリステサ」としてカバーなさっています。最初にライブ(っつーかリサイタルとゆーか)で拝聴したとき、その見事な着想に「上手いっ!」って感嘆したもんです。アルバム『血と薔薇』に収録。
 話をサントラの方に戻すと、『悲しみよこんにちは』は、クラブのシーン等で演奏されるジャズやラテンもいいんですが、やはりメインの回想部分で使われている、オーリックらしい、ちょっとエキゾティックでミステリアスな管弦楽曲の数々にウットリです。『居酒屋』と『恋ひとすじに』の方は、映画そのものを未見なんですが、前者はマリア・シェルの歌も入っています。
 とゆーわけで、お好きな方は是非……とオススメしたいところなんですが、残念ながらアマゾンでもHMVでもこのCDの取り扱いはない模様……と思ったら、タワレコにありました。こちら
 お次は、予約したもの2点、
 まずは、これ。

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第1部 DVD BOX NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第1部 DVD BOX
価格:¥ 19,950(税込)
発売日:2010-03-15

 前にここで書いたように、昨年末に途中から見てハマってしまったドラマ。
 これで、見逃していた前半部を見られるので、楽しみ楽しみ。あと、藤本隆宏の褌ヌードも(笑)。
 二つめは、これ。

戦場でワルツを 完全版 [DVD] 戦場でワルツを 完全版 [DVD]
価格:¥ 3,980(税込)
発売日:2010-05-12

 これまたここで書いたように、昨年末に見てその年の私的ベスト1作品となった映画。
 劇場公開時にはカットされたシーンが、DVDでは復元されているというので(何でも、兵士たちがポルノビデオを見るシーンだとか聞いていますが)、これまた楽しみ。

旅行のオマケ

Sydney_mask&gag
 シドニーの犯罪博物館に展示されていた、囚人用のマスクとギャッグ(猿轡)。ギャッグの内側に、口の中に入れる棒状のモノが突き出しているあたりに萌えます。

Sydney_whip
 同博物館の展示品、実際に使われていたムチ2種。右のヤツは、フロッギングでお馴染みのヤツですね。シンプルな構造なので、東急ハンズで材料買って手作り出来そう。

Sydney_shackle
 やはり同館の展示品、実際に使われていた足枷。いわゆる「シャックル」ってヤツですな。ズボンや靴の上からならともかく、素足にこれを嵌められたら、くるぶしがエラいことになりそうです。

Bangkok_mural
 バンコクのワット・プラ・ケオの壁画。「ラーマキエン(タイ版ラーマーヤナ)」を描いたもの。下の方に、腰布をはぎ取られかけている男がいます。この後、猿に犯されてくれると嬉しいんだけど、もちろんそんな絵はゴザイマセン(笑)。