ちょっと宣伝、前後編マンガ(ショタ系?)描きました

Aikoku 11月21発売の『バディ 1月号』に、16ページのマンガ描きました。
 タイトルは『哀酷義勇軍(前編)』。因みに後編は、来月に出る同誌2月号に、やはり16ページで掲載予定です。
 内容は、ショタ……って言っていいのかな、これは。いまいちショタなるものの定義が曖昧なので、自分では判断が難しいんですが、このテの主人公(左上画像参照)を描くと、周囲から「ショタ」と言われがちですから、ここは思い切って「ショタ凌辱モノ」と言い切ってしまおう(笑)。
 でも個人的には、ショタというには、ちょいと「幼さ」に欠ける気がします。まあ、以前描いた『TRAP』や『非國民』と、同系統の主人公だと思ってください。デフォルメも、ちょいと少年マンガ寄りに振ってます。
 期せずして、ここんところラブい話を続けて描きましたが、今回は凌辱モノなので、ラブのひとかけらもありません(笑)。
 よろしかったら、来月の後編と併せて、ぜひお読みくださいませ。
『バディ 1月号』(amazon.co.jp)
 で、この号ですが、マンガ以外にも、私のインタビュー記事も載っています。「バディ創刊14周年スペシャル企画」と銘打った「Hello! GAY MAGAZINE」という特集の一環。
 インタビューイは他にも、『G-men』初代編集長だった長谷川(ピンクベア)博史さんとか、元『バディ』スーパーバイザーにして『ファビュラス』編集長だった小倉(マーガレット)東さんとか、『Queer Japan』と『QJr』編集長の伏見憲明さんとか、『薔薇族』編集長の伊藤文學さんとか、もう錚々たる面子。編集長とかの肩書きを持っていないのは私だけなので、何だか肩身が狭い感じ(笑)。
 これらのインタビューは、それぞれの経験からくる内容が興味深いですし、その他にも、バディ執筆陣による一言コメントとか、読者アンケートとか、ゲイ雑誌の歴史の簡単な総括とか、「ゲイ雑誌とは何ぞや、ゲイ雑誌の今後は、ゲイ雑誌は必要か否か」等々、ゲイ雑誌というカオスのありように、様々な角度から踏み込もうとしている、なかなか意欲的な特集号です。
 そちらも併せて、よろしかったらぜひお手にとってみてください。

『ベオウルフ』

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“Beowulf & Grendel” (2005) Sturla Gunnarsson
 八世紀頃に作られたとされる、古英語による英雄叙事詩『ベオウルフ(一般的には「ベーオウルフ」と音引きする)』を元にした、劇場未公開のエピック・ファンタジー映画。
 映画の原題が「ベオウルフとグレンデル」であるように、内容も、イェーアト族(スウェーデン南部に住んでいた部族で、現代で呼ぶところのバイキングの一種)の英雄ベオウルフが、デネ族(デンマークのバイキング)の国に赴き、そこを荒らしていた巨人グレンデルを退治するという、原典となった叙事詩の前半部分の内容のみを映画化したもの。

 全体的に地味な作りではありますが、多くはない予算の範囲内で無理をせずに組み立てているといった感じが、まず好印象。全体の雰囲気も、ファンタジーものというよりは、歴史ものを見ている感じに近いです。
 昨今の潮流とは異なって、特殊効果がCGIではなく特殊メイクどまりだというのが、何となく八〇年代のファンタスティック映画っぽい感じで懐かしい。反面、スケール感にはいささか欠けますが、元来が別にスペクタクルな大合戦とかがある話ではないし、控えめのセットとかも、逆に国家規模が巨大化する以前の、氏族単位の古代のムラのようで、却ってリアリティを感じさせるといった効果もあり。まあ、原典では「人が聞いたこともないような壮麗な館」なのに、それが映画だと「村一番の巨大居酒屋」程度に見える……ってな、マイナス効果もありますが(笑)。
 全体的には、地に足の着いた落ちついた感じがあって、そこいらへんの渋みはかなり良いです。
 フィヨルドや荒れ野など、自然の地形の美しさをたっぷりと取り込んだ絵作りは、そつなく美しく佳良ではありますが、プラスアルファの魅力にまでは至っていない。演出も同様で、良くも悪くも無難という範疇。

 モノガタリとしては、英雄叙事詩をストレートに描くのではなく、退治されるモンスター側に焦点を当て、なぜモンスターは退治されなければならないのか、英雄とはいったい何ぞや、といった具合に、現代的な視点による考察と再解釈を施しているタイプの作品になっています。
 結果として、モンスター映画的な悲哀は非常に上手く出ている反面、英雄譚的な高揚感には乏しい。また、英雄側の煩悶といったドラマが、それなりに触れられてはいるものの、もうひとつ突っ込み不足で描き切れていないので、ドラマ全体のエモーションが、モンスター側に偏り気味になってしまっている難はあり。
 神話や伝説的な世界を、現代的視点で解釈/再構築することで、そもそもの原典がもっていたはずのパワーが脆弱になってしまったり、世界が矮小化してしまうといった、この手のアプローチの作品につきものの弱点は、残念ながらこの作品でもクリアされていない。
 ただ、前述したようにモンスター的な「はみだしてしまった者の悲哀」は、実に良く出ていて、そこだけでも高く評価できます。ここいらへん、私はちょっとウルウルきちゃいましたし、ウチの相棒も、さかんに「かわいそうだ、かわいそうだ」とこぼしていました。

 モノガタリの構成などは、原典を全く知らない人には、いささか不親切かも。
 例えば切り落とされたグレンデルの腕を取り戻しにくる海の女怪は、原典ではグレンデルの母なのだが、映画では、彼女が何ものなのかという説明が、何もないのがビックリ。また、ラストで登場人物の一人が、旧約聖書のカインとアベルのエピソードを独りごつんだけど、これ、原典においてグレンデルが、カインの末裔であるとされていることを知らなければ(この設定は映画には出てこない)、かなり唐突な感じがするのでは。そこから、殺人者とは何だみたいな問いかけに、テーマが広がるのは面白いし、余韻も生んでいるんだけどね。
 こうみると、欧米における「ベーオウルフ」というのは、私が想像しているよりずっとポピュラーなモノガタリなのかも。

 以下、ちょっとネタバレを含みます。お嫌な方は、この段は飛ばしてください。

 で、実は海の女怪に関しては、個人的にかなり不満が大きい。
 説明がない以上は原典と同様に、これはグレンデルの母であると解釈するのが妥当なのだろうが、そうすると、この映画のオリジナリティーの根幹にある、父を殺されたグレンデルの哀しみと孤独という部分に抵触してしまうからだ。
 仮に母ではないにしても、このモノガタリを成立させるには、グレンデルに「仲間」を与えてはいけない。グレンデルの孤独に説得力があってこそ、彼がなぜベオウルフの部下のうち一人だけを狙いうちするのか、なぜフロースガール王は襲われなかったのか、そしてその後に酒に溺れるのかといった、この映画独自の「解釈」の部分や、被差別民的に阻害されてムラから追い出さた「魔女」と、グレンデルが情を通わせて子供ができていたとかいった、魅力的なオリジナル・エピソードが引き立つからだ。
 しかし、この「母」ないしは「仲間」の存在は、そういった、この映画のオリジナリティーとしての中心軸である、阻害された者の孤独や哀しみを軽減してしまい、更には、そこから生まれるエモーションをも薄れさせてしまう。
 映画オリジナル部分が、なかなか魅力的であるが故に、根本でそこを邪魔してしまう女怪の扱いが、個人的には大いに不満だった。いっそのこと、「海の女怪=グレンデルと魔女の間に生まれた子供」くらいの、大胆なアレンジにしちゃえば良かったのに……。

 ネタバレここまで。

 役者は、ベオウルフ役のジェラルド・バトラーは、私の個人的なご贔屓ではあるんですが(”Attila”の日本盤DVD発売を、未だに期待しているワタクシ…… 【追記】『覇王伝アッティラ』の邦題で、めでたく日本盤DVD発売)、前述したようにキャラクター的な造形が弱いせいもあって、いまいちこれといった個性や味わいに乏しいのが残念。
 フロースガール王役のステラン・スカルスガルドも同様で、存在感としての魅力はあれど、内面的なそれまでは至らず。
 魔女役のサラ・ポーリーは、なかなか佳良。本人のアウトロー気質と、役の立ち位置が上手く合致して、キャラクター的な魅力も深まっている感じ。
 グレンデル役のイングヴァール・E・シーグルズソンは、特殊メイクで素顔も良く判らない状態ながら、モンスターの悲哀をたっぷりと感じさせてくれる好演。キャラクターとしても魅力的で、モンスター映画ないしはモンスター役者として考えれば、これは見て損はないといった感じの、記憶に留めたいほどの出来映えです。

 映画全体の印象としては、幾つか惜しいポイントはあれども、骨太でチャラついたところがない、エピック映画の佳品という感じでした。
 スペクタクル性や映像的なワンダーを期待すると裏切られますが、神話好き、叙事詩好き、渋めのファンタジー映画好き、あと古き良きモンスター映画好きなら、見て損はないのでは。
『ベオウルフ』DVD (amazon.co.jp)
 原典に興味のある方は、こちらもオススメ。
『ベーオウルフ』(岩波文庫・新訳版)
 さて、今度公開されるロバート・ゼメキス版の『ベオウルフ/呪われし勇者』は、どんな感じなんでしょうねぇ?
 予告編を見る限りだと、アクション映画風味のヒロイック・ファンタジーって感じで、あんまり硬派ではなさそうだけど(笑)。
 あと、3DCGのキャラが、あまりにも元になってる俳優さんにそっくりなもんだから、技術的にスゴイとは思いつつも、でも「だったら何で3DCGでやるの?」と、ついつい思ってしまうなぁ。3DCGアニメーションのキャラクターは、基本的に「人形」であるべき、と考えている自分としては、なんかビミョ〜な映像でした(笑)。

ちょっと宣伝、読み切りマンガ(白熊系)描きました

Bakubaku 11月17日発売の『肉体派 vol.7』(オークラ出版)に、8ページの読み切りマンガ描きました。
 タイトルは『長夜寞々』。「ちょうやばくばく」と読みます。タイトル&左上のイメージからもお判りの通り、先日発売された単行本『ウィルトゥース』に収録された短編『雪原渺々』の続編。白ヒゲのオジイチャン再び、です(笑)。
 いや、実は前の『雪原渺々』を描いたとき、このオジイチャンはもうちょい描いてみたいな〜、なんて思っていたいたんですが、今回の特集が「性感帯」だったので、上手い具合に再登板させることができました。
 オジイチャンを可愛く描きたいという目的は変わらずで、幸いなことに、下描きをFAXした担当編集さんからも、消しゴムかけをしてくれた相棒からも、「可愛い、可愛い」と好評です(笑)。
 よろしければ、お読みくださいませ。
肉体派 vol.7 (amazon.co.jp)
 さて、それはそれとしてこの二週間ほど、インタビュー記事の校正、依頼された某誌アンケートの回答、単行本三冊相当の本文校正や表紙周りの作業などが、次々とダンゴ状態で続いていて、何だかあわただしい状態。
 最初に世に出るのはインタビューで、今月21日発売の『バディ』1月号に掲載予定。この号には、マンガも16ページ(前後編の前編)描いてます。次が単行本『外道の家(上巻)』で、これは今月末に発売予定。そして、お待たせしました、『君よ知るや南の獄』の単行本も、そう遠くないうちにお届け出来ると思います。お楽しみに!

『パンズ・ラビリンス』

『パンズ・ラビリンス』(2006)ギレルモ・デル・トロ
“El Laberinto del fauno” (2006) Guillermo del Toro
 ご贔屓のギレルモ・デル・トロ監督の新作、期待に違わず良い出来で大満足でした。絵は美しくって不気味で、モノガタリは悲しくって切な嬉しい……って書くと、何じゃそりゃって感じですが、そーゆー多面性を持った内容だった、ってこと。
 個人的に最大の収穫は、ファンタジーにおける幻想の自立性が、完全肯定されていることかな。「少女と幻想世界」を扱った映画というと、『千と千尋の神隠し』とか『ローズ・イン・タイドランド』とか『狼の血族』とか、けっこういろいろ思い浮かびますが、この映画における幻想世界の扱われ方は、それらのいずれとも違っていた。
 例えば、『千と…』では、あれだけ魅惑的な幻想世界が描かれながらも、最終的には現実の優位性が何の疑問もなく肯定されたし、『ローズ…』では、幻想世界はあくまでも個の内面の所産という枠をはみ出さず、これまた現実世界の優位性が基盤にあった。『狼の…』だと、いっけん『ローズ…』と同じに思わせておきながら、最後の最後にそれがまるごとひっくり返り、現実が幻想に呑み込まれるという逆転劇を見せてくれたけど、それでも現実と幻想が相反して拮抗して存在しているという構図があった。
 でも、この『パンズ…』では、幻想と現実が互いに干渉せずに、最後まで互いに完全に自立している。「母親の産褥を癒すマンドゴラ」とか、「どこでもドアみたいなチョーク」とか、現実と幻想が重なり合う要素もあるんだけど、それが「どちらにもとれる」というスタンスが崩れないのが偉い。ここいらへんの上手さは、ちょっと『となりのトトロ』の前半部分を思い出しましたね。
 で、『パンズ…』の主人公の少女は「幻想」を信じていて、他の人々は「現実」を信じている。それぞれ「信じている者」にとって「信じているモノ」が真実で、その二つ、つまり幻想と現実が、対比することはあっても対立はしていないのがミソ。パンフレットのインタビューで、監督が「現実とファンタジーがパラレルに存在」と答えているけど、まさにその通りで、しかもそれが実に巧みだった。
 そして、モノガタリの最後は、その信じたモノによって、ハッピーエンドでもあり悲劇でもありうるという、多面性を生み出している。個人的には、最後まで幻想を信じることができた少女にとっては、これはハッピーエンドだと考えてあげたい感じですね。
 前述の監督インタビューによると、監督自身は「ファンタジーは現実逃避ではない」と言っていますが、にも関わらずこのモノガタリの幻想は、それでも現実逃避としても解釈できるのが、これまた上手い。で、しかも現実の残酷さが手加減ゼロの容赦なしで描かれるので、それゆえ仮に幻想が現実逃避の所産であったとしても、それは必要なものであると思えるのがスゴい。
 まあ、これはファンタジーに対する考え方がどうであるかによって変わってくるとは思いますが、トールキンのファンタジー論の薫陶を受けた自分としては、かなりジーンときましたね。すくなくとも私は、この少女に向かって、無責任に「現実を見ろ」とは言えない。
 幻想の自立性をはっきりと肯定できるという点、つまり一般の現実的な規範とは無関係に、自分の信じる価値観を肯定できるという意味で、なるほど、ギレルモ・デル・トロがオタク監督と呼ばれるのも納得がいくし、かといって現実的な価値観に背を向けてしまうのではなく、よりニュートラルで客観的な視点も並列して盛り込める点が、作品の懐を深くしている感じ。
 前に、『デビルズ・バックボーン』の感想を書いたときに、この監督のことを「良く言えばバランスの良い、悪く言えば暴走をも恐れないパワーには欠ける作家なのかもしれない。それが魅力であり、同時に良い意味での逸脱を阻む限界なのかも」と書いたけど、今回の『パンズ…』では、そういった特徴が全てプラスに作用した感が大です。
 文句なしに、今年のベスト5には確実に入る良作。(年によってはベスト1でもいい感じなんだけど、今年は『300』『パフューム』『ブラックブック』と、個人的な「当たり」が連発なので……)
 俳優の印象とかを書くのを忘れてました。
 ヒロインのイバナ・パケロちゃん、意志が強そうなところがいいですな。当初の脚本で想定していたよりも年上で、それに合わせて脚本を直したそうだけど、このくらいの年なのが却って吉とでた感じ。あまり年少だと、現実と空想の区別がつきにくい印象を与えてしまって、少女の信じる幻想が、実は空想であるように見えてしまうといった感じに、比重が偏ってバランスが崩れてしまいそう。ある程度の分別は期待出来そうな少女だからこそ、ラストの美しさと切なさに説得力が増している感じ。
 悪役のセルジ・ロペス。ぶっ殺してやりたいようなヤツなんだけど、不思議と人間くさい魅力もある。ここいらへんのキャラクター造形の巧みさが、毎度ながらデル・トロ監督の上手さですな。あと、ルックスやら体格やら毛深さやら、けっこうイケるタイプだな〜、なんて映画見てて思ってたんですが、これ書くために役者名を確認したら、思い出した。前にここで、「なかなか可愛い」と、しっかりチェック済みでした(笑)。
 音楽のハビエル・ナバエテは、『デビルズ・バックボーン』と同じ。デル・トロ監督がハリウッドで撮るときに組んでいるマルコ・ベルトラミのスコアとかもそうなんですが、哀切なメロディーと重厚なストリングスによる、重くてシブい好スコア。ただ、『デビルズ…』のスコアの激シブさに比べると、今回はメイン・モチーフになっている子守歌のメロディーがキャッチーなぶん、もうちょっと情感に訴えかけてきやすい感じ。もちろんサントラ盤を購入しました。聴いてると泣けるんだ、これが。

自分のダイモン調べてみました

Arphenia 来年の公開が今から待ち遠しい映画『ライラの冒険 黄金の羅針盤』。公式サイトを覗いてみたら「あなたのダイモンは?」なんてのがあったので、ホクホク喜んでやってみたら……こんなん出ました。なんかカッコイイのが出たんで、ちょっと嬉しい(笑)。
 映画本編の方も、予告編を見た限りでは、美術良し、スケール感良し、画面に重厚感あり、クリーチャー無問題と、かなりいい感じですな。
 キャストも、コールター夫人/ニコール・キッドマンとセラフィナ・ペカーラ/エヴァ・グリーンってのは、最初にキャスティングを聞いたときから「グッジョブ!」って感じだったし、アスリエル卿/ダニエル・クレイグってのは、聞いたときはちょいと線が細くないかなんて思いましたが、後に『カジノ・ロワイヤル』のヌードシーンを見たら、もうぜんぜんオッケーに(笑)。ライラ/ダコタ・ブルー・リチャーズは、本編を見るのが楽しみ。あと、予告編を見ると、クリストファー・リーも出てるのね。IMDbによると、ボレアル卿の役……って、どんな人だっけ、覚えてないや(笑)。
 そして、一番ビックラこいたのは、ご贔屓にして最大のお楽しみだったイオレク・バーニソンの声が、イアン・マッケランだってこと。ちょいと声がオジイチャン過ぎやしないかって気がしなくはないですが、改めて考えてみると、外見が白熊で中身がイアン・マッケランって、ひょっとしたら私にとっては理想かも(笑)。

往年のゲイ受け女優、三本立て

 近所の店で、20世紀FOXスタジオ・クラシックス・シリーズDVDが半額だったので、欲しかったんだけど買い逃がしていた、『遥かなるアルゼンチン』『残酷な記念日』『女はそれを我慢できない』の三枚を買ってきました。
 それぞれ順番に、カルメン・ミランダ、ベティ・デイヴィス、ジェーン・マンスフィールドがお目当てという、我ながらゲイゲイしい、それも年喰ったオカマ好みのラインナップです(笑)。
Harukanaru『遥かなるアルゼンチン』(1940)アーヴィング・カミングス
“Down Argentine Way” (1940) Irving Cummings
 アルゼンチンの牧場の二枚目御曹司と、可愛いアメリカ娘のラブ・ロマンスを描いた、ミュージカル・ラブ・コメディ。まあ、他愛のない話ではあるんですが、全編を覆う陽気なノリが何ともゴキゲンで、見終わった後は予定調和の多幸感で満たされる、上出来の佳品でした。
 歌と踊りも存分に楽しめて、特に、舞台の殆どがアルゼンチンというせいもあり、いかにもアメリカナイズされたラウンジ調のラテン音楽の数々が楽しめるのは、モンド音楽好きとしても嬉しいポイント。
 あと、黒人二人組(ニコラス兄弟というらしい)のタップダンスがすごい。最近のミュージカル映画だと、どうしてもカメラワークやカット割りのダイナミズムを重視した、MTVっぽい見せ方が多くて、それはそれで好きなんだけど、反面、踊り自体をあまり楽しめない不満感が残ったりして、例えば、バズ・ラーマンの『ムーラン・ルージュ』のタンゴの群舞とか、その好例だった。でも、今回のタップ・シーンは、いかにもな名人芸を、舞台さながらにじっくり見せてくれて、そのワザのすごさに圧倒されて目が釘付けになり、終わった後は思わず拍手したくなる……なんていう、クラシック・ミュージカル映画ならではの醍醐味を、しっかり味わえました。
 お目当てのカルメン・ミランダは、映画の冒頭からいきなりアップで「♪アパパパパ〜」と歌い出したもんだから、私はもう大喜び。一緒に見ていた相棒は、それまでカルメン・ミランダのことは知らなかったんですが、彼女の歌の楽しさと顔の賑やかさに「笠置シヅ子みたいだ」と、やはり大喜び(笑)。
 この映画では、カルメン・ミランダは「ブラジルのスターがアルゼンチンに来てショーに出ている」という本人役なので、ストーリーには直接絡んでこないし、演技を見せるシーンとかはないのが残念ではありますが、でも歌はしっかり三曲ほど披露してくれますし、もちろん彼女の看板の、あのドラァグ・クイーンもビックリな頭飾りと衣装(……どんな感じかって? こんな感じです)も楽しませてくれます。
『遥かなるアルゼンチン』amazon.co.jp
 ついでに余談。
 さっき笠置シヅ子の名前を出しましたが、この映画の主題歌の”Down Argentine Way”という曲、その笠置シヅ子が「美わしのアルゼンチナ」という題名で歌ってます。このCDで聴けます。因みにこのCD、マジで名盤です。私が持っているのは旧盤ですが、もう何度聴いたことか。しかしこのリイシュー盤、旧盤と比べて二曲増えてるって……そのためだけに買うかどうか、現在思案中(笑)。でも、持ってない人には、同じシリーズのこっちも併せて、激オススメですぞ。
Zankokuna『残酷な記念日』(1968)ロイ・ウォード・ベイカー
“The Anniversary” (1968) Roy Ward Baker
 毎年、母親と亡父の結婚記念日に、家に集まる習慣のある一族。しかし、実は息子たちは、自分たちを支配している母親から、逃れたいと思っている。今年も、末の弟が連れてきた婚約者が、さっそく底意地の悪い母親の毒牙にかかり、さらに上の兄の秘密も暴かれ、パーティーは混迷してドロドロに……という内容。
 お目当てのベティ・デイヴィスは、もちろん母親役。名作『何がジェーンに起こったか?』以来ハマり役の、奇っ怪で不気味なオバサン(もしくはオバアサン)役ですが、今回も期待に違わず、出で立ちからして、キラキラのお洋服+片目に眼帯というトゥー・マッチさ(何と眼帯のお色直しまである!)で熱演。
 加えて性格も、徹頭徹尾マジに邪悪でビッチ。相手の劣等感を探り当ててはネチネチいびったり、弱みを見せるような素振りをして、実は罠を仕掛けていたり、息子の婚約者に「警察が来たら二階に隠れていてね、売春宿と間違われると困るから」と言い放ったり、下着女装の趣味があるデブ息子が風呂に入ろうとすると、「そういえば、風呂に入る太った女の絵を描くフランスの画家がいたでしょ、何て名前だっけ?」と嫌味をとばしたり……と、もうステキ過ぎ(笑)!
 元が舞台劇らしく、映画的なダイナミズム等はあまりないですが、会話の応酬でモノガタリの輪郭が次第に明らかになっていく面白さとか、家族モノなのに人情味なんて微塵もないドライさとか、いかにもイギリスらしいシニカルなブラック・ユーモアとか、お楽しみどころも多し。オカマのツボを押すという点では、かなりポイント高い内容でした。
『残酷な記念日』amazon.co.jp
 とはいえ、「おっかないベティ・デイヴィス」未体験の人だったら、やはりまずは『何がジェーンに起こったか?』から見て欲しいですな。この映画、ゲイ映画の名作『トーチソング・トリロジー』の中で、ドラァグ・ショーのネタとして使われていたし、最近だと『蝋人形の館』でも、劇中の映画館で上映されてましたね。
 あと、内容はオカマウケする「女優の戦いモノ」で、しかも映画としてもマジで名作の『イヴの総て』も必見。これ、日本のオカマ好き映画の定番、『Wの悲劇』の元ネタです。ベット・デイヴィスが三田佳子、アン・バクスターが薬師丸ひろ子。
 この二つをクリアしてベティ・デイヴィスのファンになったら、あとは『何がジェーンに…』の変奏的なビッチ・サスペンス(……って、そんなジャンルね〜よ)『ふるえて眠れ』とか、不気味な乳母役で、しかも少女時代のパメラ・フランクリンも出ているので、「ホラー好きにはダブルでお得!」な『妖婆の家』とか、ホラーなんだけど、実は一番こわいのは、「祖母/ベット・デイヴィス、父/オリバー・リード、母/カレン・ブラック」という、主人公一家の面々なんじゃないかっつー『家』とか、まだまだお楽しみは沢山ありますよ(笑)。
Onnahasorewo『女はそれを我慢できない』(1956)フランク・タシュリン
“The Girl Can’t Help It” (1956) Frank Tashlin
 落ちぶれた芸能エージェントに、ヤクザのボスが「俺の情婦をスターにしろ!」と押しつけてくる。最初は乗り気じゃなかったエージェントも、いざ彼女に会うと、そのセクシーさにクラクラ。どのくらいセクシーかというと、彼女が道を歩くだけで、余りのセクシーさに氷屋の氷が溶け始め、牛乳配達のミルクが沸騰し、オッサンのメガネにヒビが入るのだ(笑)! でも、実は彼女自身はスターになんかなりたくなくて、一番好きなのは家事全般だった……ってなお話し。
 コメディ仕立ての音楽映画で、制作当時に黎明期だったロックンロールのスターたち(……っても、私はそこいらへんは疎いので、名前を知ってるのはプラターズくらいで、あと、ロックンロールじゃないジュリー・ロンドン)の、ライブシーンがふんだんに盛り込まれて、これまた楽しくゴキゲンな内容。
 音楽関係では、グループ名は判らないけど、主人公たちが借りに行ったスタジオで演奏していた連中や、ライバルのジューク・ボックス会社のオーディションで演奏していた連中のパフォーマンスが印象に残ります。ジュリー・ロンドンは、主人公が彼女の元マネという設定。彼女を忘れられない主人公の前に、妄想となって現れて、彼女自身のヒット曲”Cry Me A River”を、じっくり聴かせてくれます。
 お目当てのジェーン・マンスフィールドは……いやぁん、めちゃめちゃキュートやんけ!
 前に『よろめき休暇』で彼女を見たときは、いかにもマリリン・モンローのばったもんって感じで、しかも本当にどーでもいいような役で、何かちょっと気の毒な気すらしたし、愛夫ミッキー・ハージティと共演したソード&サンダル映画の”The Loves of Hercules (a.k.a. Hercules and the Hydra)”(伊語原題”Gli Amori di Ercole”)になると、赤いカツラと黒いカツラで「良いジェーン・マンスフィールド/悪いジェーン・マンスフィールド」を演じ分けている(笑)のが、もうネタとしか思えなかったんですが、今回はマジで魅力が大爆発! お色気と可愛さと、自慢の巨大バストを振り回して大活躍!
 まあ、演技力という点では、ベッドに突っ伏して泣くシーンとか、ちょっと「う……(汗)」って感じではありましたが(笑)、そんなのも、「音痴な彼女が唯一レコード・デビューする方法」として、刑務所の歌を録音することになり、マイクの前でサイレン代わりに「♪きゃぁ〜お!」と叫ぶ可愛さの前では、もう帳消し! いや、ジェーン、あんたこの映画では、ちゃんとスターオーラあるじゃん!
 今回つくづく感じたことは、ジェーン・マンスフィールドの「セクシーさ」って、例え彼女が当時のセックス・シンボルであったとはいえ、それは決して自然なものではなく、世の中で「セクシーだ」とされている要素を誇張したものなんですな。それが余りにもトゥー・マッチなので、彼女の存在は、「セクシーな女優」ではなく「セクシーな女優のパロディ」に見える。最近で言うと、叶姉妹なんかもそうですな。これは。基本的に「女のパロディ」であるドラァグ・クイーンと同じで、だからそーゆーテイストを好むゲイにも受ける。
 で、今回の映画は、そんな彼女のトゥー・マッチさが話の軸を担い、更にそれが前述したようなトゥー・マッチな演出で描かれるので、彼女という存在と映画という作品が、全くブレずに完璧に重なり合い、作品として理想的な融合を遂げているという感じ。コメディとしても、少々の洒落っ気はあるものの、決して「小粋」にはならないという、ユーモアのセンスがちょいと泥臭いあたりも、成功の一因。
 う〜ん、こうなると同じ監督と再タッグを組んで、評判も良い『ロック・ハンターはそれを我慢できるか?』を見たくなるなぁ。日本盤、出ないかな〜。
『女はそれを我慢できない』amazon.co.jp
 余談。
 この映画からタイトルを借用した歌謡曲で、大信田礼子の「女はそれをがまんできない」ってゆー歌があるんですが、これまたオカマ心をくすぐるセクシー歌謡の逸品だったりします。イカしたビートに乗せて、ちょいドス効き気味なハスキー声で「好きなひ〜とじゃ、なくちゃいや〜ン♪」って歌うの(笑)。このCDで聴けます。これ、このテが好きな人だったら捨て曲なしの好コンピレなんで、よろしかったらついでにオススメ。

Dieux Du Stade 2008 カレンダー

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“Dieux Du Stade – Callendrier 2008 par Steven Klein”
 毎年出ている、フランスのラグビー代表選手のヌード・カレンダー、2008年版。今回のカメラマンはスティーヴン・クライン(Steven Klein)。
 この人は、かなり毒があったり、退廃的なイメージの作品を撮る作家という印象がありますが、このカレンダーでは、さほどアグレッシブな画面作りはしておらず、この作家にしては、ぱっと見は比較的大人しめの印象。

 とはいえ、表紙からしていきなり、全裸のラグビー選手が、金属製のラグビーボール型オブジェに、チェーンと手錠で繋がれている……なんて絵がくることからもお判りのように、単なる口当たりの良いピンナップというわけではなく、どこかビザールだったり性的だったりする仕掛けが、あちこちに散りばめられています。
 ビザール面では、鎖と枷というモチーフが頻繁に登場します。美術館か宮殿のような室内で、ギリシャ彫刻のようなポーズをとる全裸のラグビー選手の両足に、さりげなく足枷がはめられていたり、向かい合ってレスリングのようなポーズをとる二人が、足枷と鎖で連結されていたり。中には、バンザイ・ポーズで鉄格子に手錠でつながれている男……なんていう、まんまボンデージな写真もあります。
 ただ、流石にサドマゾヒズム的なところまでは突っ込めなかったのか、ハッタリを効かせたわりには、ちょいと消化不良な感じもあり。

 性的なほのめかしという点では、かなり挑戦的です。特に、小道具としてビデオカメラが配された作品が面白い。
 このシリーズは二点あり、一つは椅子に座って股間を手で覆った男と、それを見下ろすようにビデオを構えている男という構図、もう一つは、レスリングのポーズで組み合う二人の男を、別の男がビデオ撮影しているというポーズ。これらの作品は、鑑賞者に必然的にポルノビデオの撮影現場を連想させます。前者はオーディションかマスターベーション、後者はズバリセックスシーン。
 こういった、ポルノ産業的な連想を引き起こすことよって、実際に写真で描かれているもの以上の、より性的で淫靡なエロティシズムが、鑑賞者の内面に、自動的に生成されるという仕掛けになっている。アート的なアプローチを使って、ヌードとポルノグラフィーの境界を混乱させるという、巧妙かつ興味深い作品。

 この、境界の恣意的な混乱という面では、他にも幾つか面白い作例が見られます。
 例えば、片手で股間を抑えて椅子に座るという、何ということのないポーズが、一枚の鏡を配することで、自慰のイメージへと転じている作品。
 あるいは、大理石の壁龕の中に立ち、法悦的な表情でギリシャ彫刻のような力強いポーズをるという、まるで教会にあるバロックの彫刻の聖人像のようなコンポジションを用いつつ、同時に、彫刻にはあるまじき滝のような汗を流させることによって、生きた肉の存在感を強調し、肉欲的なエクスタシーも連想させるような作品。
 また、裸の男とモーターサイクルという、いささかありふれた組み合わせを使いながらも、男をバイクの正面から向かい合わせに跨らせることによって、まるで人間と機械のファックのようにも見える作品。
 こういった、一見するとさほどアグレッシブには見えないが、実はかなり挑戦的な意図が存在している作品群は、かなり面白く見応えがあります。

 このように、鎖や枷といったビザール的な作品、性的な仄めかしのある作品、そして、詳述はしませんでしたが、もっとシンプルな、純粋に肉体美やコンポジションを追求したヌード作品が、このカレンダーには、入り交じって配置されています。
 カレンダーとはいえ、6枚綴りや12枚綴りではなく、一ヶ月が二枚に分かれている上に、ボーナスページも加わった、総計30枚というカレンダーらしからぬヴォリュームです。しかもサイズはA3と大判で,使い終わっても切り離さずに保存できるリング製本。ページ全面が写真で、カレンダーのタマ(日付など)は上部に小さく一行入っているだけ。
 これを壁にかけても、ぱっと見ただけじゃ日付は判らないし、メモを書き込み余白もなし、といった具合で、カレンダーとしてはおよそ実用的ではないですが(笑)、紙質や印刷は文句なしのハイ・クオリティ、28ユーロというお値段に相応しい、持っていて嬉しい立派な写真集になっています。

 残念ながら、日本のアマゾンでは扱っていない様子。2007年版はあったのに、ここんところホント、日本のアマゾンはこういったものの取り扱いが渋くなっちゃいましたね。紀伊國屋BookWebにはあったんだけれど、残念ながら現時点では「入手不能」の表示が。
 本国フランスのアマゾンには、まだ在庫がある模様。アメリカのアマゾンでも、マーケット・プレイスに出品がありますが、既にプレミア扱いなのか、かなり割高です。

古代ローマ遺跡の写真など

 単行本『ウィルトゥース』発売記念……ってなわけでもないですが、古代ローマつながりで、春にカルタゴに行ったときに撮った、ローマ遺跡(とフェニキア遺跡)の写真を、スライドショー仕立てにしたムービーをアップいたしませう。遺跡とか旅とか歴史とかに興味のある方、よろしかったらご覧くださいませ。

 例によって、ビデオ編集と音楽も手作りでゴザイマス(笑)。
 古代ローマ帝国の遺跡というと、本家本元のローマには、もうかれこれ20年以上前に一度行ったきりなんですが、初めての海外旅行だったせいもあって、コロッセオのスケールには圧倒されたし、フォロ・ロマーノを散策したのがすごく楽しかったことは、今でも良く覚えています。
 イタリア本国以外では、トルコで見たベルガマ(ペルガモン)の円形劇場が、山の斜面に作られていて、急勾配の上に反対側には何にもないもんだから、今にも転がり落ちてしまいそうで超怖かったのと、同じくトルコのエフェス(エフェソス)のやはり円形劇場が、もう余りの巨大さにカメラのフレームにもぜんぜん収まらなかったことなんかが印象深いです。
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 そのとき撮った写真。左がペルガモン、右がエフェソスです。
 あと、ヨルダンのジェラッシュに行ったときは、とにかくどこもかしこも柱だらけで、何だか建物を建てるために柱を立てたんじゃなくって、まるで柱を立てるために建物を建てたみたい……なんて思ったっけ(笑)。
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 左がジェラッシュの列柱通り、右が大神殿(……だったかな?)
 カルタゴのように、ローマに滅ぼされた遺跡や、あるいはローマの支配下にあった遺跡というと、これはやはりシリアのパルミラとヨルダンのペトラが最高だったなぁ。ただ、パルミラでは、砂漠のド真ん中だというのに雨に降られてビックリしました(笑)。
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 これは、二枚ともパルミラ。右の写真、雨で路面が濡れています。
 ペトラは、何と言ってもエル・カズネが有名なので、お目当てはもちろんそれでしたけど、いざ行ってみたら、その奥にまだまだ山ほど遺跡があり、山の上に上るとエル・カズネよりもずっと巨大なエド・ディルなんてものもあるし、山頂から周囲の山々を見回すと、砂漠のあちこちの岩壁に、風化して半ばとろけたような岩窟遺跡が点在してるわで、そのスケールに大興奮しましたっけ。
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 左から、有名なエル・カズネ、その奥の遺跡群、エド・ディル、山頂から見た遺跡群。
 あと、ここいらへんをウロウロしていたときは、私は貧乏気ままなバックパッカーだったもんですから、遺跡とかでボケ〜ッとしていると、現地の人たちに声を掛けられて、ひととき仲良くなったりもするんですな。で、パルミラに行ったときも、そんな感じで、地元のトラック野郎の集団に声を掛けられて、お昼ご飯(アラビアパンと何かの実の漬け物だった)をごちそうしてもらいました。
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 これがそのシリアのトラック野郎どもなんですが、確か「お前の仕事は何だ」と聞かれて、「画家だ」とテキトーに応えたら、「俺の顔を描け」「俺も描け」ってな具合で、こいつら全員の似顔絵を描かさる羽目になってしまった。で、アラブ人って似たような顔つきだから、描きわけが難しくってねぇ(笑)。
 しかし、こうして改めて写真を見ると、自分の若さと細さの方がビックリですな(笑)。誰だこりゃって感じ(笑)。まぁ、まだ20代だったし、体重に関しても、このときは長期の貧乏旅行のおかげで、日ごと自己最低体重を更新してましたから。
 因みに、一番右の写真で私が頭にかぶり物をしているのは、これはこの中の一人が、自分の頭のやつを解いて、「お前もかぶってみろ」と巻いてくれたんです。

『ウィルトゥース』イラストのメイキング

 単行本『ウィルトゥース』の発売記念に、カバー表4イラストのメイキングなんぞを載っけてみませう。
 今回は、表題作が古代ローマものということもあり、裏表紙や口絵は、遺跡から出土した壁画のようなイメージでいきたいと思い、編集さんにも了承していただけました。
 ローマの壁画というと、ギリシア/ローマ神話モチーフが似合いそうなので、『雄心〜ウィルトゥース』の主人公たち、クレスケンスとガイウスを、アポロンとマルシュアスになぞらえて描くことにしました。
 とはいえ、実際の神話だと、音楽勝負でアポロンに負けたマルシュアスは、生きながら生皮を剥がれてしまいます。このエピソードは大好きなんですけど、流石にそんなのはカバー画にできません(笑)。よって、「二人がデキちゃったとしたら?」ってな感じでいくことにします。
01
 紙に鉛筆で、下絵を描きます。
 最終的にタッチや陰影は入れずに、線とフラットな色面を生かした絵にしたいので、下絵もシンプルな白描で描いていきます。
 筋肉や布のドレープの形は、古代ギリシアの壺絵みたいなイメージで。仕事ではあまり使ったことのないスタイルなので、自分で描いていて、なかなか新鮮な気分でした。
02
 下絵が出来たら、本描きの線画に入ります。
 今回は、イメージが壁画(フレスコ画)なので、線画にも紙のテクスチャとか、墨の濃淡などのニュアンスは必要ありません。筆致も、墨やインクのような液体を素早く捌いた感じではなく、溶いた顔料をネットリ引っぱった感じにしたいので、線画段階からコンピュータで作業することにします。
 下絵をスキャンしてPainterで開き、グワッシュでトレスしていきます。線画の色は、それぞれのパーツ(色面)ごとに変えますが、全体の色彩設計はPotoshopでする予定なので、この段階では厳密な色味にはこだわりません。ただ、Photoshop上での編集がしやすいように、1色につき1レイヤーを使います。
03
 色彩設計に入ります。
 Painterで描いた線画をPSDで保存して、Photoshopで開きます。マジックワンドツールやパスを使って選択範囲をとり、色面ごとに別々のレイヤーで塗りつぶしていきます。
 色面の色彩設計が終わったら、それに併せて、線画の色味を調整します。全て決定したら、線画のレイヤーは一つに統合してしまいます。色面のレイヤーは別々のままで保存します。
04
 彩色に入ります。
 ファイルを再びPainterで開きます。
 レイヤーの透明度をロックして、スポンジで色ムラが出るように塗っていきます。どんな感じで、どの程度ムラを出すかは、これはもう感覚勝負ですね。
05
 線画の「荒れ」を作ります。
 フレスコ画っぽくするために、線にもちょっとニュアンスが欲しいです。色面のレイヤーを全て捨てて、キャンバスと線画レイヤーだけにしたものを、別名保存して作業用のファイルにします。
 線画レイヤーの透明度をロックして、いったん白で塗りつぶします。次に、描画色を黒にしたスポンジを使って、フロッタージュ(こすり出し)のように線画を浮き上がらせていきます。やりすぎると、ただの真っ黒な線画になっちゃうので、ほどよくかすれた感じになるように作業を進めます。
 いい感じに荒れた線画ができたら、画像を統合して保存します。
06
 線画の「荒れ」の続きです。
 Photoshopで、さっきの荒れた線画のファイルを開き、モードをグレースケールに変えます。次に、彩色用のファイルを開き、アルファチャンネルに荒れた線画の画像をペーストします。
 彩色用ファイルの線画レイヤーを選択した状態で、アルファチャンネルの荒れた線画を選択範囲に呼び出し、かすれた白い部分を消去します。これで、色トレスした線画にも、ほどよい「荒れ」ができました。
07
 絵の具の剥落の雰囲気を作ります。
 古いフレスコ画っぽく、ところどころ絵の具が剥げた感じを出したいので、漆喰壁や石壁の写真画像を用意します。
 写真をグレースケールにしてから、レベル補正やトーンカーブなどを使って、好みのノイズを作ります。いい感じのものができたら、透明レイヤーに白くノイズが散っている状態にして、それを彩色用ファイルの最上層に配置します。
 ただ、この絵ではかなり控えめなノイズにしたので、こうして縮小してしまうと、残念ながらほとんど判らないですね。実際にどんな感じなのかは、現物(単行本)を見てください。
 また、同様に壁画をイメージした口絵では、もっと大胆にノイズを入れて、剥落やひび割れを作ってみました。よかったら、見比べてみてくださいな。
08
 もうちょっとフレスコ画っぽいニュアンスを加えます。
 さきほどのノイズ同様に、写真素材から適当なテクスチャを作ります。
 テクスチャができたら、それを彩色用ファイルの最上層にオーバーレイで重ねます。テクスチャの出具合は、透明度で調整します。
09
 仕上げです。
 調整レイヤーを使って、色相や彩度やコントラストなどを整えます。
 これで、できあがり。

ちょっと宣伝、単行本『ウィルトゥース』発売です

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 明日10月12日、オークラ出版さんから単行本『ウィルトゥース』が発売されます。収録作品は「雄心〜ウィルトゥース」「雪原渺々」「誰にも言えない」の三本。
 版形は、一般の青年コミックなんかと同じB5版。これまでの私の単行本と比べると、一回り小さなサイズ。お値段も、648円+税というお手ごろ価格。
 装丁の方も、アクアコミックスというレーベルなので、その基本フォーマットは決まっているんですけど、その中での自由度はけっこう高かったので、デザイナーさんにお願いして、カバーの折り返しとか口絵とか、いろいろ楽しんで凝らせていただきました。

 表題作でもある『雄心〜ウィルトゥース』は、古代ローマを舞台にした、二人の剣闘士のお話。アンソロジー「激男」で連載していたものの、諸般の事情で中断してしまった作品です。自分では、かなり「意欲作」のつもりでしたから(まあ、どこがどう意欲的なのかは、言わぬが花ですけど)、未完になってしまったときは、本当に悔しかった。
 それを今回、最終章を描きおろし、無事完結させることができました。他にもちょこちょこ手を入れていて、総加筆枚数は42枚、総計は124ページという、内容もヴォリュームも、読み応えのある中編になったと思います。
 繰り返しになりますが、とにかく、無事に完結できたこと、そして単行本として世に出せたことが、本当に嬉しい。しかも、中断〜未完といった経緯も、今となっては災い転じて福となった感があり、連載の制約から離れた描き降ろしという形で完結させることによって、当初予測していた以上に、作者として満足度の高い作品になりました。

 同時収録の『雪原渺々』は、アンソロジー「肉体派」に描いたもので、日露戦争を舞台にした軍人もの、『誰にも言えない』は、雑誌「Super SM-Z」に描いた、現代もののソフトSMです。
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