4月21日発売の「バディ」6月号に、マンガ『告白(前編)』掲載です。
キャラは左の画像のように、ヒゲマッチョ系のスーツ親父(刑事です)と、ちょいとオバカ系の若者(チンピラです)。まあ、ヒゲ親父の方は、これまで散々描いてきたので、さほど新味はないんですが、今回のこの若造キャラは、個人的にかなりお気に入り。なかなかカワイク描けたような気がする(笑)。
内容は、まだ前編ということもあって、エロはあっさり目。軽い縛りがあるくらい。来月の後編では、もうちょいこってりエロも出す予定ですが、鬼畜とか凌辱とかじゃないです。かといって、ラブラブってわけでもないんですが。どっちかっつーと、メンタル重視のドラマ。
というわけで、よろしかったらぜひお読みくださいませ。
バディ6月号(amazon.co.jp)
『モンゴル』
モンゴル(2007)セルゲイ・ボドロフ
Mongol (2007) Sergei Bodrov
いや、お見事!
実は、見る前はちょっと不安でした。というのも、監督のセルゲイ・ボドロフには、『コーカサスの虜』と『ベアーズ・キス』で好感を持っていたけれど、身の丈サイズの世界を描くのに長けたタイプという印象で、それがスケールの大きな時代劇を撮るというのが、どうもピンとこなかったからです。
しかし、いざ『モンゴル』を見てみたら……う〜ん、すごい! 作家としての懐の深さを見せつけられた感じで、ほとほと感服しました。
内容的には、後のチンギス・ハーンとして知られるテムジンの、前半生を追いかけたものですが、いわゆる歴史劇とは、アプローチの仕方がちょっと異なっています。
というのも、歴史劇というものは、基本的に「何が起きたか」という叙事の要素に重きが置かれますが、この映画の場合は、そこはあまり重要なことではなく、「そういう場で、人が何を感じているか」という点にフォーカスが置かれている。
そういうわけで、歴史の絵解きを期待すると、そこいらへんはちょっとはぐらかされるかもしれない。テムジンという人間が、いかにしてそれを成し遂げたか、というパワーゲーム的なプロセスの部分が、ドラマからバッサリ省略されていてるからです。
では、ドラマの視点が個に終始していて、マクロな視点がないかというと、これまた違う。というのも、この映画には主役が二人いて(……というか「二つあって」の方が正確か)、テムジンという人間と並んで、モンゴルという場所そのものも、また一つの主役なのである。そして、その「地」を捉える視点が、歴史よりも更にマクロに引いた、神話的なスケールの巨視になっている。
このことは、ドラマを「モンゴルという地で起きた歴史事件」というよりは、「モンゴルという神話的な土地を描いたもの」といった感触にしている。そして、それと童子に、その中で蠢く「人」という個にフォーカスを置き、そこで生まれる様々な感情といった普遍的な「人の生」も、同時に描かれる。
ここいらへんは、映画の肌触りとして、イヌイットの神話的世界を描いたカナダ映画『氷海の伝説』なんかに近い。或いは、パゾリーニの『アポロンの地獄』や『王女メディア』にも、ちょっと似た感覚がある。
そして、こういった複数の視点の、バランス配分が実に素晴らしい。
映画では、テングリ(天の神)絡みのシーンで、幾つかの超常的なものが描かれる。これは、神話世界に属する要素だ。それが、リアリズムを損なわない範囲で(つまりファンタジー映画にはなってしまわないバランスで)、静かに、しかし印象的に描かれる。
そして、テムジンという人物を描くという、歴史劇としての要素。前述したように、叙事に関しては割愛要素が多いし、生い立ち等の内容も、かなりフィクションが含まれているようだが、何を考え、どういういきさつで、彼が「それ(具体的には世界帝国の樹立だが、この映画ではそこまでは描かれないので、モンゴル統一ということになる)」を行うに至ったのか、或いは、彼にそれを可能にせしめた、他と違う何が備わっていたのか、といったことは、さりげなくではあるが、しっかりと描かれている。
また、当時のモンゴルの風習や、人の価値観。これも、歴史劇に属する要素で、人間の行動原理が、現代人的なものとははっきりと異なった、いかにも、その時その地でそうであったろうと思わせるものになっている。こういった、キャラクターの非現代性が、現代人にとっては新奇に映る風習などの細やかな描写と相まって、歴史劇的な説得力が生まれている。
しかし、こういった現代人とは異なる行動原理を備えたキャラクターであっても、その場その場で生まれる感情そのものは、現代と変わらぬ普遍的なものだ。例え、それぞれのキャラクターの持つ行動原理や当時の価値観には、馴染めなかったり理解し難かったりするものがあっても、その行動によって生まれる愛とか怒りとか悲しみとかいった、感情そのものには容易に共感することが可能である。このことによって、この映画は人間ドラマとしての普遍性も獲得している。
そして、それを映像表現として、実に見事に見せてくれる。たっぷり引きのある雄大な風景と、人物の極端なクローズアップ。悠然と構えて動かぬカメラと、グラグラと揺れる手持ちカメラ。カメラの視点がドラマの視点と重なり、映像とテーマが密接に離れがたく組み合わさっている印象。
でもって更にスゴいのは、この映画が娯楽映画的な完成度も、きちんと外さずに抑えているところ。
扱うテーマに比して、ドラマのテンポは意外なほど早い。アンドレイ・タルコフスキーやテオ・アンゲロプロスと比べればもちろんのこと、テレンス・マリックがダメな人でも、この映画なら大丈夫なんじゃないかというくらい、娯楽映画的なテンポの良さがある。
また、ある意味でラブ・ストーリーが前面に出ているので、エモーショナルなキャッチーさもある。復讐譚的なツカミも効果的だし、ストーリー的に興味を引きつける娯楽要素が多い。作品の持つ多層性によって、様々なレベルでの楽しみ方が可能になっている、懐の深い内容だ。
ただし、多層的であるが故の弱さもあって、例えば前述したように、歴史の絵解きを期待するとはぐらかされるというケースもあるし、エピック的なカタルシスを期待してしまうと、これまた同様にちょっと物足りなさが残るかも知れない。
しかし、息をのむような壮大な風景を捉えた圧倒的な映像美は、それを見るだけでも損はないし、テムジン、その妻ボルテ、盟友ジャムカといった、魅力的な面々が繰り広げるキャラクタードラマも、大いに魅力的だ。クライマックスの大合戦シーンなど、スペクタクル的に明解な見所もあるし、この大合戦を含め、大小取り混ぜての繰り広げられる戦闘シーンは、アクション映画的な魅力も充分にある。
このアクション・シーンというのも、映画を見る前は、ボドロフ監督によるそれというのがちょっと想像できなかったのだが(失礼を承知で白状すると「え〜、迫力のある戦闘とか撮れんの?」とか思ってました)、これまた主観と客観の切り替えや、SEの大小やカメラのスピードで生み出される間合い、更には血しぶきが飛び散るタイミングまで、不思議なリズム感があって、すっかり魅せられてしまいました。
あと音楽も、期待通りホーミーやモリンホールの響きがふんだんに使われ、オルティン・ドーみたいな歌も出てきたし、他にもアンビエント的な音響とかあったり、あと、エンド・クレジットでモンゴル版ヘビメタみたいのまで出てきたりして(正直、個人的な趣味から言うと、このモンゴリアン・ヘビメタは、ちょっとイマイチな感じでしたが)、サントラ買う気満々で映画館を出たんですが……残念、出てないのね。ロシアのCD通販サイトも調べたけど、見つからなかった。発売希望。
役者さんは、まずテムジン役の浅野忠信。ライバル役のスン・ホンレイが、アクも押しも強いので、ちょっと押されちゃいそうな感じはあるんですが、しかしそれに負けない静かな存在感があって、演じるキャラクターとも見事に合致してマル。
ジャムカ役のスン・ホンレイ、親しみやすさと豪放さを併せ持った、いかにも魅力的なサブキャラに相応しい存在感でマル。
ボルテ役のクーラン・チュラン。かなり個性的なお顔というか、「欧米ウケはするが日本人ウケはしない」タイプの顔の女性ですが、少女的な純粋感から始まって、女性的な強さ、母性的な包容力と、ドラマの進行に伴って、魅力の幅がどんどん拡がっていってマル。
他には、子役のテムジン、テムジンの母などが印象に残ったかな。敵役が少し弱いのと、テムジンの配下あたりに、もう一つキャラの立った人物が欲しいところ。
どーでもいい追補。
捉えられたテムジンに、敵役が「いいか、この『木のロバ(……だったかな?)』に乗せて拷問してやるぞ!」みたいなシーンがあって、「うわ、どんな拷問?」と楽しみにしていたのに、そのシーンがなかったのは、ちとガッカリ(笑)。
ただ、檻に入れられて見せ物にされているテムジンの顔が、垢に覆われて魚鱗のようになっている特殊メイクは、ちょっと他の映画で見た記憶がないので、なかなか新鮮でした。
『ウルフハウンド 天空の門と魔法の鍵』

『ウルフハウンド 天空の門と魔法の鍵』(2007)ニコライ・レベデフ
“Volkodav iz roda Serykh Psov” (2007) Nikolai Lebedev
ロシア製エピック・ファンタジー映画。劇場未公開のDVDスルー作品ながら、本国ではかなりの大作であったらしく、総合的なクオリティは高し。
平和な村が襲撃され、父と母が殺され、一族で唯一生き残った息子が……という、既視感たっぷりのイントロに代表されるように、アクション・アドベンチャー系のファンタジーとしては、設定等にとりたてて目新しいところはなし。また、二時間を超える尺にもかかわらず、それでもまだ内容を詰め込みすぎなので、世界観の説明に舌足らずなところがあったり、キャラクターが掘り下げ不足だったりという感も否めない。
とはいえ、風景などロケーションの雄大さや、セットの規模やモブの数など、スケール感はタップリ。CGIのクオリティも高いので、いかにもエピック・ファンタジー的な絵面や雰囲気は、存分に満喫できます。
姫君が婚礼に出立するシーンや、生け贄の儀式のシーンなどで、独特な所作やディテールを積み重ねて、異文化の肌触りを描出しようとしている姿勢も、ファンタジー作品として好ましい。
ちょっと説明不足の世界観も、超常現象などの魔法的な要素が、RPG的なアイテムの性能ではなく、多神教世界におけるそれぞれの信仰に基づいて顕現するあたり、創作ファンタジーから少し神話寄りに振れたような魅力はある。世界観と魔法がリンクしていない似非ファンタジーとは異なり、そこいらへんのセオリーは比較的硬派な印象なので、ここを掘り下げ不足なのは勿体ないなぁ。
詰め込みすぎのエピソードも、モンタージュや回想シーンを上手く使って、物足りなさや意味不明感が出るギリギリ手前で、何とかクリアできている印象。キャラクターも同様で、すごく良いというわけではないものの、かといって全く印象に残らないほどでもない。
そんなこんなで、エピック・ファンタジー好きなら、そこそこ楽しめる出来映えだと思います。少なくとも、凡百の安手のファンタジー映画よりは、質量共によっぽど満足度は高いはず。映画が無名だとか、知っているスターが出ていないとかいう理由でスルーしてしまっては、ちょっと勿体ないかも。
ただ、美術や衣装などのデザイン全般は、もう一頑張りして欲しかった。悪役の仮面や甲冑とかが、ちとダサイ(笑)。
演出等は、完全にハリウッド映画的なパターンなので、ロシア映画ならではの味わいとかは全くなし。また、完全に創作エピック・ファンタジーなので、スラブ的な雰囲気とかもなし。音楽もケルトっぽかったりするし。
ハリウッド的でクセがないという点では、『ナイトウォッチ』よりも更に薄味なので、ここいらへんは、かつてのソ連製歴史&ファンタジー映画好きとしては、ちょっと淋しい感じもしますね。アメリカ映画とは違った、独自の味わいがあるファンタジー映画という点では、2003年制作のポーランド製ファンタジー映画”Stara Basn”(邦題『THE レジェンド 伝説の勇者』)の方が、滋味があってヨロシイ。
役者は、主人公のアレクサンドル・ブハロフは、大男でヒゲで汚い長髪と、私の萌えツボを刺激する造形ながら、顔があまり好きではないタイプのせいか(笑)、あんまり印象に残らない。これがもっとタイプの役者だったら、偏愛度もアップするのに、残念。しかも、脱がないし(笑)。
ヒロインのオクサナ・アキンシナは、可愛さと凛とした美しさがあって佳良。他にもいろいろキャラは出てきますが、これといって特筆するようなものはなし。どうも全般的に「そこそこ」感に留まってしまうのが、この映画の最大の弱点かも。
個人的に一番目を奪われたのは、冒頭に出てくる主人公の親父さんなんですけどね。裸エプロン(……って書くと語弊があるか)で槌を振るう、ヒゲのマッチョの鍛冶屋さん。でも、すぐ死んじゃう(笑)。
あとは、人間じゃないんですけど、何と言っても主人公のペット……というより相棒のコウモリ! コウモリ萌え! コウモリがこんなにカワイイ映画は初めてかも(笑)。このコウモリのおかげて、個人的に映画の点数が10点以上はアップしました(笑)。
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『マラソンの戦い』『大城砦』『怪傑白魔』他のサントラCD
以前にも何度か紹介したことのある、Digitmoviesの復刻サントラシリーズから、スティーヴ・リーヴス主演映画のサントラ盤CDが幾つかリリースされたので、まとめてご紹介。
“La Battaglia di Maratona (O.S.T.)” by Roberto Nicolosi
The Italian Peplum Soundtrack Anthologyシリーズ第七弾、『マラソンの戦い』のサントラ。音楽はロベルト・ニコロージ。
タイトル・バックで流れる、あの優美なテーマ曲が入っているだけでも「買い!」でありますが、他にも、キャッチーでメロディーが良く立った曲が多く、映画を離れて単独した音楽として聴いても、なかなか粒ぞろいの好盤です。
ロマンティックな雰囲気の曲は、流麗なストリングスや木管で、しっとりと、時にコケティッシュな表情も交えて、実にウットリと聴かせてくれます。舞踏のシーンで流れていた、フィンガー・シンバルや縦笛や竪琴を使った、ちょいと異教的なムードの曲も、幻想の古代ギリシャといった雰囲気が良く出ている佳曲。
戦闘シーンの曲では、吹き鳴らされる金管や、ストリングスのスタッカートで責めてきますが、いささかお行儀が良すぎるというか、悪くはないんだけど、エピック的なスケール感や高揚感には、ちと欠ける感あり。
『マラソンの戦い』サントラCD
“La Guerra di Troia / La Leggenda di Einea (O.S.T.)” by Giovanni Fusco
The Italian Peplum Soundtrack Anthologyシリーズ第六弾、『大城砦』と、その続編”La Leggenda di Einea” (a.k.a. “The Avenger”, “War of the Trojans”)をカップリングした二枚組。音楽はジョヴァンニ・フスコ。一般的には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督とのコンビで知られている作曲家らしいです。
『大城砦』の方は、最初のファンファーレは印象に残るんだけれど、全体的にはちょっと地味な感じです。とはいえ、戦闘シーンなどでかかる、低音のストリングスのスタッカートや、鳴り物で素早くリズムを刻みながら、そこに高らかに金管がかぶる曲なんかは、スピード感があってなかなかカッコいいです。不協和音を多用しているせいか、古代っぽいザラっとしたニュアンスが多いのも佳良。
もい一枚の”La Leggenda di Einea”は、映画自体の出来がアレなわりには、音楽の方は大健闘。ひっそりとした打楽器をバックに、哀感を帯びたメロディーを木管が密やかに奏でているところに、不意に異教的な金管のファンファーレが登場するテーマ曲なんか、かなり好きなテイスト。
全体的には、地味といえば地味なんですが、渋いながらもじっくり聴かせてくれる曲が多い。低音のストリングスをメインに、エモーションを抑えながらじわじわじわじわ展開して、そこにパッと金管が切り込むという曲調が多し。和声のせいか、ちょいとストラビンスキーみたいな感じもあります。ああ、あとレナード・ローゼンマンっぽい感じもするなぁ。この映画に関しては、私は映画よりサントラの方が好き(笑)。
『大城砦/La Leggenda di Einea』サントラCD
“Agi Murad il Diavolo Bianco / Ester e il Re / Gli Invasori” by Roberto Nicolosi & Angelo F. Lavagnino
これはItarian Peplumシリーズではなく、Mario Bava Original Soundtracks Anthologyシリーズの第六弾。リーヴス主演のリッカルド・フレーダ監督作『怪傑白魔』(マリオ・バーヴァは撮影監督)に、『ペルシャ大王』(未見)と『バイキングの復讐』(このあいだ米盤DVDを買ったんだけど、まだ見てまへん……)をカップリングした二枚組。音楽は『マラソンの戦い』と同じく、ロベルト・ニコロージ。『ペルシャ大王』のみ、『ポンペイ最後の日』のアンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノが、一緒にクレジットされています。
『怪傑白魔』は、映画が近世ロシアを舞台にした痛快冒険アクション作品なので、音楽も同様に、時に勇ましく時に軽快に、でも基本は明るく楽しく……ってな塩梅。キャッチーなメロディーで弾むような曲調が多いんですけど、明朗さが前面に出ているせいか、ちょいと長閑な印象もあり。
ちょいとビックリしちゃうのは、民族音楽を模したと思しき一曲がありまして、コサック・ダンスなのか、テンポの速いバラライカ(?)にドンチャン打楽器がかぶる曲調なんですが、これが何だかやけにガチャガチャしていて、民族音楽っつーよりは、アヴァン・ポップかトイ・ポップみたいに聞こえる(笑)。かなり「ヘン」な曲です(笑)。
『ペルシャ大王』の方は、ファンファーレとティンパニによる雄大なテーマ曲、木管とストリングスによるエキゾでロマンティックなスロー・ナンバー……と、さながらこのテの映画の劇伴の見本市。『マラソンの戦い』同様、ロマンティックな雰囲気は、かなり聴かせてくれます。あと、イマ・スマックみたいな女声スキャット入りのエキゾチカ・ナンバーが入っていたのが、私的に収穫。
『バイキングの復讐』は、もうちょいエピック寄りな感じですが、あんまり印象に残らず、それよりやっぱり、たまに入るロマンティックな曲の方に耳を奪われる。ロベルト・ニコロージさんは、ロマンティックで優美な曲では、実に良いお仕事をなさるなぁ。ピアノとストリングスによる、ひたすらスウィートな「愛のテーマ」は、これがバイキングの映画だと思うと、ちょっと「ん?」って感じもするんですが、それを別にすれば、とってもキレイなムード・ミュージック。
『怪傑白魔/ペルシャ大王/バイキングの復讐』サントラCD
ちょっと宣伝、『外道の家・下巻』発売です
3月31日に、マンガ単行本『外道の家』の下巻が発売されました。執筆に七年間を費やした、呪われた旧家を巡る一大男色大河ロマン、ここにいよいよ大団円を迎えます。
上巻、中巻と同様に、雑誌コードでの発売となりますので、流通に制限があります。書店でお見かけの際は、早めのご購入をお勧めします。月刊バディ5月号増刊という扱いなので、一般的なマンガ単行本などとは異なり、所定の期日が過ぎますと店頭から撤去されてしまいますので。
残念ながら、ネット書店での取り扱いも、ほとんどないと思われます。通販をお考えの方は、版元バディさんの、バディージェーピィ/ビージェイストアや、あとはRAINBOW SHOPPERSさんとか、BIG GYMさんとかいったゲイショップをご利用ください。ゲイショップに抵抗のある方は、サブカル系書店タコシェさんにも、近々入荷すると思います(注/タコシェさんでは、在庫切れになるとカタログから商品が消えてしまいますが、そんなときはまた日を改めて、後日再アクセスしてみてください)。
さて、この下巻ですが、豪華ゲストによる原稿も同時収録されています。
まず、ゲストコメントで、児雷也先生と藤本郷先生が、描きおろしのイラスト付きで、それぞれ1ページずつ寄稿してくださっています。この、ゲイ雑誌でも見られない超豪華カップリング、お見逃しのなきように。それにしても、両御大に自キャラを描いていただけるとは、私としても作家冥利に尽きる嬉しさ。お二方とも、ありがとうございました!
更に、解説文を書いてくださったのが、ライター、原作、評論、復刻などで、マンガ業界を中心に幅広く活躍していらっしゃる、「漫ぶらぁ〜」こと大西祥平さん。書籍『マンガ地獄変』や『官能劇画大全シリーズ』あたりで、初めてお仕事を拝見して以来、個人的に深くリスペクトしている方です。今回、「単行本に解説を」という編集氏からの提案を受け、でしたら是非、と、無理を承知でお願いしたところ、快くお引き受けいただき、これまた作家冥利に尽きる嬉しさです。ありがとうございました!
ってな具合で、豪華ゲスト寄稿付きの、この最終巻、どうぞお買い逃しなきように! あ、因みに私自身もアッサリとですが、あとがきなんぞを書いています(笑)。
さて、昨年来から続いた単行本発売ラッシュも、これで一段落。一年間で七冊も単行本が出るなんて、今まで全くなかったことなので、正直かなりテンテコマイでした。
しかし、これで過去のストックはほぼ出し尽くしたので、仮に次の単行本が出るとしても、それはだいぶ先になるかと思います。でも、懸案だった長編連載の原稿は、既に絶版になっているものも含めて、これで全て単行本化できました。応援してくださった皆様には、深く感謝の意を捧げます。
とりあえず次は、『バディ』さんと『肉体派』さんに、それぞれ読み切りが載る予定です。時期が来ましたら、このBlogでもお知らせしますので、またお楽しみいただければと思います。
つれづれ
ここのところ連日、『ザ・チャイルド』『ファンタズム』『パンズ・ラビリンス』と、発売を楽しみにしていたDVDが届いてホクホクなんだけど、現在我が家では、HBO&BBCのテレビシリーズ『ROME ローマ』を連夜鑑賞中なので、これらの封を開けるのは、まだまだ先になりそう。
で、『ROME』ですが、期待に違わぬ面白さですな。歴史ドラマ的な要素と昼ドラ的な要素が、上手い具合にミックスされていて、実にいい塩梅の娯楽作になっている。第一話からいきなり、フロッギングだの、敗将が衆目に晒されながら素っ裸に引ン剥かれて、敵将の前に跪かされるだのといった、美味しいシーンもあるし(笑)。
まだ第八話までしか見てないので、当分の間は楽しめそう。
音楽は、ちょっと前まで Social Harp とかShape Notes とか呼ばれる、18世紀アメリカの宗教合唱曲にハマって、良く聴いていました。映画『コールド・マウンテン』で使われていたのを聴いて、宗教曲らしい荘厳さと、民衆的な素朴さが入り交じった美しさが、 すっかり気に入っちゃいまして。
で、何枚かそれ関連のCDを探して購入してみたんですが、洗練され過ぎていたり荒削り過ぎたりで、どうも帯に短し襷に長しというものばかり。未だに、これといった決定盤に巡り会えないのが残念。
読書は、オルハン・パムクの『わたしの名は紅』という本を、ちまちまちまちま、ゆっくり時間をかけて読んでいます。オスマン・トルコ時代のイスタンブールを舞台に、一人の細密画家が殺されるところから始まる、ちょっとウンベルト・エーコの『薔薇の名前』みたいな感じの話。
マンガは、ここんところあまり積極的に読もうという気分にならず、もっぱら献本で戴いた雑誌オンリーだったんですが、久々にガツンと手応えのありそうなものを読みたくなったので、近所の本屋さんの平台に並んでいた中から、江戸川乱歩×丸尾末広の『パノラマ島綺譚』と、沙村広明の『ブラッドハーレーの馬車』を買ってみました。どちらも大いに読み応えありで、大満足の読後感。
仕事の合間には、息抜きも兼ねて、イタズラ描きなんぞをつらつらと。
例えば、こんなの。珍しく二次創作で、しかも女性の絵です。

私は、ファンアートは殆ど描くことがないんですけど、先日珍しく、描いてみたい気分になったので、こんな感じになりました。元の作品が何なのかは、まあ言わぬが花ってことで(笑)。
因みに「あのキャラを、自分のタッチで描くと、どーなるんだろう?」ってな感じで描いていますので、元の絵とは、似ても似つかない造形になっています(笑)。でも、描いてみたら楽しくなっちゃって、ついつい同じキャラの別バージョンと、同じ作品に出てくる別キャラも描いてみたりして。

繰り返しますが、元の絵にはちっとも似ていません(笑)。
さて、オンナノコばかりじゃ色気がないので(……って、どーゆー理屈だって気もしますが)、野郎のイタズラ描きも載っけましょうかね。

マンガ用のキャラデザを兼ねた、イタズラ描きいろいろ。この中の一人は、現在作業中の短編マンガの主人公。
……とまぁ、こんな感じの毎日を送っております、という近況報告でした。
『マラソンの戦い』+ “War of the Trojans” 新盤DVD

先日アメリカで、スティーヴ・リーヴス主演の史劇二本、『マラソンの戦い』と”War of the Trojans”(輸入DVDショップとかで、同時収録作が『大城砦』になってたりしますが、これは間違い)が収録された新盤DVDが、”The Steve Reeves Collection”と銘打って発売されたので、ご紹介。
二本とも、既に米盤DVDは何種か発売されおり、同じ組み合わせの”Gods of War”というソフトもありますが、今回の新盤の売りはワイド画面のスクィーズ収録。それに惹かれて購入してみたら、画質もかなり良好になっていて、なかなか「当たり」の好ディスクです。
ジャケが例によって、『マラソンの戦い』でも”War of the Trojans”でもなくて、『ヘラクレス』の画像なのは、まあご愛敬(笑)。
というわけで、それぞれのレビューをばいたしませう。
『マラソンの戦い』(1959)ジャック・ターナー
“The Giant Marathon” (1959) Jacques Tourneur
伊語原題”La Battaglia di Maratona”。監督は『キャットピープル』(もちろんナスターシャ・キンスキーのリメイク版じゃなくて、オリジナルの方ね)のジャック・ターナー。
いちおう、紀元前5世紀のギリシャとペルシャの戦争を題材にした、スペクタクル史劇なんですが、まあイタリア製のソード&サンダル映画ですから、本格的なものでは勿論ないです。歴史をネタに、ヒーローの恋と冒険を描いた、娯楽アクション作品、といった味わい。
前半部分は、リーヴス演じるオリンピック競技の優勝者と、ミレーヌ・ドモンジョ演じるヒロイン、ヒロインの婚約者で実は売国奴の敵役、主人公に色仕掛けで近付く敵役の情婦といった面々が繰り広げる、すれ違い恋愛劇。そして後半は、ペルシャ軍とギリシャ軍の戦闘スペクタクル、といった塩梅になっています。
正直、映画のストーリーそのものは、恋愛部分と戦争部分のギャップがキツかったり、展開が恣意的に過ぎて鼻白んだりと、イマイチな感じもするんですけど(冒頭でイーリアスを朗読するドモンジョに、女友達が「パリスとヘレネーのくだりを読んで!」とせがむシーンがあったりして、個人の恋愛劇と国家間の戦争劇をモノガタリ的に絡ませて描く、という狙いは判るんですけどね、あまり成功しているとは言えない)、各々のシーンには、そういった欠点を凌駕して余りある見所が多い。それらの映像的な見所を見るだけでも、充分におつりがくるくらいの充実した内容です。
では、見所を幾つかご紹介。
まずしょっぱなのタイトルバック。青空の下で健康的な筋肉青年たちが、白いブリーフ状の腰布一枚で、様々なオリンピック競技を繰り広げるという、まるで「動く『フィジーク・ピクトリアル』誌」みたいな、実に美しい絵面で楽しませてくれます。
ただ、クレジットの文字が邪魔なんだよな〜(笑)。例えばこーゆーのとか、もうホント、「文字どけろ!」と言いたくなる(笑)。まあ、これは一番極端な例ですけど、こんな具合に終始文字がかぶってくるもんだから、実にフラストレーションが溜まる(笑)。これが、昨今の気の利いたソフトだったら、ノン・クレジット版オープニングとかが、ボーナスで入ったりするんだけど……(笑)。
恋愛中心の前半では、ロマンチックで美しい美術の数々が楽しめます。昼間のシーンは、白大理石、色とりどりの衣装、瑞々しい緑、咲き乱れる花……と、まるでサー・ローレンス・アルマ・タデマの絵のような味わい。夜のシーンは、いかにも撮影担当のマリオ・バーヴァらしい、大胆な色彩設計による夢幻的な雰囲気が素晴らしい。
リーヴス(ヒゲなし)は古風なハンサムだし、相手役のミレーヌ・ドモンジョも文句なしの愛らしさ。美男美女の組み合わせで、しっかりロマンティックに魅せてくれます。特にドモンジョは、リーヴス映画のヒロインとしては、『ヘラクレス』シリーズのシルヴァ・コシナ、『ポンペイ最後の日』のクリスティーネ・カウフマン、『逆襲!大平原』のヴィルナ・リージ、等々と比肩する美しさ。
余談ですが、ミレーヌ・ドモンジョというと、あたしゃ『悲しみよこんにちは』くらいしか見たことないんですけど、先日、相棒と一緒に『あるいは裏切りという名の犬』を見ていたら、バーの老マダムの顔がアップになったとたん、相棒が「うわ、これ、ミレーヌ・ドモンジョじゃない!」と、驚いて大声を上げてました(笑)。お元気なようで、何よりです。
さて、アクション・スペクタクルになる後半も、おそらく予算はさほどないであろうに、ミニチュアやマット画や合成などを上手く使って、なかなかのスケール感と物量感を感じさせてくれます。邦題にもなっているマラトンの戦いも、ローアングルや一人称カメラなどを上手く使っていて、かなりの迫力。
ところが、このマラトンの戦い、実はこの映画の本当のクライマックスではない。マラトンの戦いでアテナイに守備兵がいなくなっているのに乗じて、裏切り者である件の敵役は、海からアテナイを攻めようと企てる。そしてそれを知った主人公が、マラトンからアテナイまで走り抜き(……と、ここで、例のマラソン競技の起源となった伝説が、内容を大幅にアレンジされて登場します)、仲間を率いてペルシャ船団に立ち向かう……ってのが、真のクライマックス。
そして、この真のクライマックスが、もう問答無用で素晴らしいのだ!
まず、完全武装のペルシャ軍に大して、主人公率いるアテナイ勢は、兵士ではなくオリンピック競技の仲間たち。しかも、水際ということもあってか、冒頭の競技シーンと同じ、素っ裸に白フン一丁というスタイル。兜やマントや手っ甲脚絆の類すらないので、メールヌード比率は『300』も顔負け。「鎧兜の軍団 vs 白い海パン一丁のアスリート軍団」とゆー、映画史上前代未聞の戦闘シーン(ホントか?)が繰り広げられるのだ!
とはいえ、何も男の裸がいっぱい出てくるから素晴らしいと力説しているわけでもなく(まあ、もちろんそれも素晴らしいんですが)、戦闘の内容そのものも見応えがあるんですな。
例えば、先の尖った長い棒を海底に立てて、敵の船を座礁させるとか、船の先端がトゲトゲの付いたペンチ状になっていて、それで相手の船を鋏んで砕くとかいった、アイデアのユニークさ。実現性に疑問はあるけれど、ミニチュアと、大仕掛けなセットと、大規模な水中撮影を駆使して見せる画面は、迫力も臨場感もタップリ。
他にも、攫われたヒロインは船首に縛られるわ、海パン軍団が得物を手に海に飛び込み、水中から敵船の舟板を引っぺがしたり、舵をへし折ったりという戦法をとるわ、それをペルシャ兵が船上から矢で射殺すわ、海に落ちた兵士たちが短剣片手に水中で戦うわ……と、もう目が釘付けになる面白さです。
他に、ソード&サンダル映画好きにとってのマニアックな見所としては、チョイ役なんですが、リーヴス演じる主人公の盟友となるスパルタ人を演じているのが、セルジオ・チャンニこと、後に”Hercules Against the Moon Men”などのC級ヘラクレス映画のスターとして活躍する、アラン・スティールだったりします。ヒゲなし、脱ぎ場なし。
残念ながら(?)責め場とかはないんですけど、個人的には、前述したクライマックスの水中戦で、白パン一丁のアスリートどもが、次々と矢で射殺されていくシーンは、重力から解放された肉体の動きの美しさと、派手な血煙の効果が相まって、なかなかそそられます。「裸のマッチョが殺されるシーンが好き!」とゆー、あまり他人には言えない趣味をお持ちの同志の方(笑)には、このシーンはオススメ(笑)。
あと、前述したように、リーブスはかなりのシーンで、その肉体美を惜しみなく披露してくれますので、特殊趣味をお持ちでない方でも、お楽しみどころは盛りだくさんです。槍を投げるシーンとかで見せる、古代彫刻さながらの、筋肉がピンと張りつめた肉体美とか、メールヌード好きにはたまらないはず。リーヴスの股間のドアップとかもありますぜぃ(笑)。
あと、個人的には、前述のクライマックスの他にも、上半身裸のリーヴスが汗まみれになって、苦しげにマラトンからアテナイまで走り抜くシーンなんかもお気に入り。
ソフトとしては、既発売の旧盤はビスタの非スクィーズ収録でしたが、この新盤はシネスコのスクィーズ。しかも、画質もかなり向上しています。
もちろん、経年劣化かデュープのせいかシャドウ部が潰れていたり、フィルムの傷やコマ落ちが目立つシーンもありますが、色は良く残っているし、映像のボケもそれほど気になりません。ソード&サンダル映画のアメリカ盤DVDとしては、充分に上々の部類。ただし、PAL盤も含めて比較すると、退色も傷も全くといっていいほど見あたらない、スペイン盤DVDには負けます。
参考までに、それぞれのジャケをアップ。左が旧米盤、真ん中が同カップリングの旧米盤、右がスペイン盤。



では、続いて、もう一本のカップリング作をご紹介。
“War of the Trojans” (1962) Giorgio Venturini
最初に書いたように、これはトロイア戦争を描いた『大城砦』ではなくて、その続編にあたる”La Leggenda di Enea”(伊語原題)です。他にも、”The Avenger”や”The Last Glory of Troy”といった英題でも知られていますが、どうやら日本では未公開らしいです。
前作『大城砦』で、生き残りを率いてトロイアを脱出した、リーヴス演じるアエネイアスとトロイア人たちの後日譚。ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』は未読なんですが、ネットで梗概を調べてみたところ、この映画は叙事詩の前半部分はバッサリ割愛して、放浪の果てにイタリアに辿り着いたアエネイアス一行が、ラティウムの王ラティヌスと、その娘ラウィニアに出会い、戦いでトゥルヌスを打ち負かし、後のローマの礎となる国を築くという、後半部分のみを映画化したものです。
ただ、残念ながら映画の出来は、あまり良くないです。
前作『大城砦』と比べると、予算が大幅にダウンしているらしく、ほとんどのシーンが、トロイア人たちが村を築いている野っ原と、ラティヌス王の宮殿と、その前のちんまりとした広場だけで進行するので、話のスケールに比べて、絵的に物足りないことはなはだしい。
また、登場人物が色々といるんですが、いずれもキャラは立っていないし、魅力にも欠ける。その生き死にも、どうやら原典の叙事詩に即して描かれている様子ですが、およそ盛り上がりに欠ける。
では、単純なアクション・スペクタクル的な面白さはというと、これまた乏しく、とにかく見せ場らしい見せ場がないのが辛い。リーヴス演じるアエネイアスは、どちらかというと内省的で、戦いを忌避する性格なので、ヒーロー的な活躍も見られないし。
何度かある合戦シーンも、人海はそこそこ使っているものの、見せ方が下手なのか、どうも盛り上がりに欠ける。クライマックスが、チャリオットで仇敵と一騎打ちという見せ場を持ってきながら、場所は前述の野っ原だし、しかも途中から森に入ってしまい、最終的にはチャリオットからも降りて、ギャラリーなしの河原で斬り合いのタイマン勝負っつーショボさなのも痛い。
そんなこんなで、全体的にどうもパッとしない、退屈な内容になっちゃってます。
ただ、細かい部分で面白い要素もなくはなく、例えば、アエネイアスがラティヌス王の宮殿で、トロイア戦争を描いたフレスコ画を見て、喪われた祖国と戦いの記憶に苦しむあたりは、『大城砦』のシーンを使ったモンタージュの効果もあいまって、リーヴスが微妙な表情の変化だけで、なかなか良い演技を見せてくれます。
実際この映画では、戦いをエピックとして堂々と謳い上げるのではなく、その空しさを嘆いているかのような、どこか厭世的な空気が終始漂っている。これはどうやら、原典に見られる平和志向が反映されたものらしいんですが、そのスペクタクルな戦闘シーンに飽いているような雰囲気が、今になって見ると、何となくソード&サンダル映画の流行の終焉していく様子そのものにも見えるのが面白い。
あと、細かいところでは、合戦シーンで、砦に射込まれた敵の矢を、女子供が楯を担いで走り回って、拾い集めては再利用するなんてディテールが見られるのが、ちょっと新鮮で面白かった。タイトルバックのデザインも、なかなかカッコイイ。
とはいえ、リーヴス主演のソード&サンダル映画の中では、やはり出来はかなり下の方。脱ぎ場も一カ所だけだしね(笑)。
画質は、『マラソンの戦い』同様、既発売の旧盤と比べると向上しています。ただし、色の抜け具合とか絵のボケ加減とか、『マラソン…』よりは数段落ちる画質。良くなった、というよりは、マシになった程度かな。PAL盤では、ドイツ盤とイタリア盤が出ていますが、それらはいずれもこの米盤(新盤)と比べても、遥かに良好な画質です。
あと、イタリア盤と比べてみると、米盤とドイツ盤では冒頭シーンがカットされていて、イタリア盤の方が五分ほど長い。
下のジャケは、左がドイツ盤、右がイタリア盤。


というわけで、カップリングの”War of the Trojans”はイマイチなものの、前述したように『マラソンの戦い』は一見の価値ありですし、リージョンコードもフリーなので、リーヴスのファンなら買って損はない一枚でしょう。
オススメです。
“The Steve Reeves Collection / The Giant Marathon + War of the Trojans” DVD (amazon.com)
『七人の侍』より「侍之壱・月」メイキング
さて、昨日に引き続き、連作『七人の侍』から、第一葉「侍之壱・月」のメイキングなんぞを載っけてみませう。

まずは下絵です。手近なコピー用紙に、水色の色芯のシャーペンでざっとアタリをとり、それから鉛筆で描いていきます。
線画は後で毛筆の白描で仕上げるので、無駄な線を極力入れないよう、この下絵段階から一発描きを心掛けて、迷いを入れずに筆勢を生かす気持ちで、グイグイと描きます。これが、ペン仕上げだと、もうちょい迷い線が増えますし、厚塗り仕上げの場合は、マッスでフォルムを作っていくので、形のとりかた自体が変わったりもします。
モチーフ的には、オーソドックスな武者絵のイメージ。武者絵というと浮世絵の国芳が有名ですが、私は何と言っても芳年ラブだし、月つながりで芳年の連作『月百姿』へのオマージュにもしたいので、侍のポーズは芳年の『新形六十三怪撰』の「源頼光土蜘蛛ヲ切ル図」から引用してみました。

完成した下図をコンピュータに取り込み、本番サイズに拡大縮小。構図も決めて、それをいったんプリントアウトします。プリントアウトしたものに本描き用の用紙(これも安手のコピー用紙)を重ね、ライトボックスで透かしながら墨と毛筆で、本番の白描を描きます。
墨は少し薄目にするのが、私流。コンピュータで黒の濃度を上げるのは簡単なので、アナログでは少し薄いくらいで描いておいて、最終的な濃度調節はデジタルで。
毛筆画は、けっこうコンディションによって出来不出来のムラが出ちゃうので(修行不足です)、時として「ひゃ〜、失敗、描き直し!」なんてこともあるんですが、今回は調子良くスイスイと描けた感じ。
白描が完成したらスキャナーでコンピュータに取り込んで、Photoshopのレベル補正を使って、余計な紙白を飛ばし、黒の濃度を引き締めます。それが終わったらゴミ取り。ただ、あんまり厳密にはやらず(アナログ風仕上げにしたいので、多少のゴミは味のうち)、目立ったものだけ消していく、という感じです。

線画が出来上がったら、それをアルファチャンネルに読み込んで、白い背景の上に透明レイヤーに描かれたセル状の線画が乗っている状態のものを作ります。レイヤーの合成モードは通常で。
Photoshopを終了してPainterを立ち上げます。そして、さっきのファイルを開いて、白いキャンバス状にデジタル水彩/新シンプル水彩で着色していきます。こうやって縮小しちゃうと判りづらいけど、ある程度の紙目が出た感じにするために、テクスチャをイタリア水彩紙の200%拡大という設定にしてあります。
デジタル水彩は、全ての色面の着彩が終了するまで乾燥させず、相互のにじみを生かすようにします。水彩消しゴムを使ったり、濃い色の上に薄い色を重ねたりすると、このにじみのニュアンスが変わってしまうので、できるだけ薄い色から濃い色という順番で、細部は筆のサイズを小さくしてチマチマ……ってな感じで塗っていきます。
色彩設計は、ぶっつけ本番。最初に肌のトーンを決めて、それから衣の色を決めていく。色はくすませ気味にして、寒色系をメインにしながら、刀の緒だけビビッドにして、全体のポイントにしてみました。

下塗りが終わったら乾燥させて、キャンバスと線画の間に白で塗りつぶしたレイヤーを一枚作成し、合成モードを乗算にします。このレイヤーに、肌部分の陰影を描いていきます。
木炭(ソフト)をテクスチャが強めに出るようにカスタマイズしたブラシで、肌に陰影を重ねていきます。ただ、下塗りのときほど紙目の存在感は必要ないので、テクスチャの設定はフランス水彩紙/100%に変更しています。
陰影は、写実的な立体感ではなく、何となく立体っぽいニュアンスを与える程度にとどめます。このテの作品の場合は、主役はあくまでも毛筆による描線。その味が陰影で殺されないよう、薄い色をざっと筆で刷く感覚で色を乗せていきます。使っている色も一色のみ。濃淡は全て筆圧でコントロールして、ぼかしも筆圧オンリー。水滴ツールとか水刷毛とかの、ぼかし用のブラシもいっさい使いません。
レイヤーを分けているので、はみ出しも気にせず、とにかく筆勢をいかして、ザックザックと描いていきます。

肌の彩色が終わったら、はみ出した部分を消していきます。同じブラシの描画色を白にして、塗り消していきます。

気付かない消し残しがないかは、こうやってレイヤーの合成モードを乗算からデフォルトに変えてチェックします。ただ、あんまりきっちりキレイには消しません。だいたい消えてりゃオッケー、って感じ。ちょっとくらい色が互いにかぶってた方が、全体の雰囲気は柔らかく仕上がるので。

肌の陰影が終わったら、キャンバスに固定してしまいます。それから、次に唇や乳首(この絵ではないけれど、性器や肛門も)の色を付けます。
新規マスクを作成して、そこにエアブラシ系のブラシで、唇の色を付ける部分の形を描きます。ベタッと塗るのではなくて、唇の立体を意識しながら、濃淡つけて描くのがコツ。ここもチマチマいじらずに、筆勢を生かした一発描きのニュアンスで。

完成した唇マスクを非表示にして、選択範囲として読み込みます。

選択範囲内の画像の色相と彩度と明度をいじって、唇をほんのり赤く染めます。

染まったら選択範囲を解除して、テクスチャの明暗を反転した後、肌の陰影と同じブラシで、唇にハイライトを入れます。これで出来上がり。
同じ要領で、乳首にも色を付けます。

髪やヒゲを描きます。再度、キャンバスと線画の間に、新規レイヤーを作成します。ただし、今回は白で塗りつぶさずに透明のまま、合成モードもデフォルトです。
肌の陰影を付けたのと同じブラシで、眉やヒゲを描き込んでいきます。ただ、肌の陰影以上にテクスチャを抑えたいので、設定をベーシックペーパー/100%に変えています。
色は筆の線から少しはみ出させるように、フワッと柔らかい印象になるように乗せていきます。濃い部分は一気に塗りつぶそうとせず、軽めの筆圧で複数方向からクロスハッチングするように、焦らず丁寧にタッチを重ねていく方が、キレイに仕上がります。アナログの鉛筆画と同じ要領ですな。
これまた出来上がったら、さっさとキャンバスに固定しちゃいます。

衣に柄を入れる準備にかかります。いったんPainterを終了し、再度Photoshopを立ち上げます。
白描の画像をテンプレートにして、新規レイヤーを作成し、そこにフリーの図案集からとってきた柄を、シアーや自由変形を使って、布の流れに併せて変形させながら張り込んでいきます。
柄の配置が終わったら、それをさっきまで彩色作業をしていたファイルのアルファチャンネルに読み込んで、マスクとして保存します。

再びPainterに戻ります。さっき作った衣の模様を選択範囲に呼び出して、スポンジで塗っていきます。ベタッと潰すのではなくて、ところどころカスレやムラがある感じにします。

最後に背景を入れます。衣の模様と同じ要領で、マスクを作ってスポンジでニュアンスを付けながら塗っていきます。この月とススキのパターンは、琳派の図案を用いてみました。
これで、完成。
……とまぁ、こんな感じで、全七点の連作を仕上げたわけです。
いちおう予定としては、既にフランスにデータを送っているので、それをあちらで枚数限定のエスタンプとして作成、出来たプリントを日本に送ってもらい、私がサインとナンバリングを入れてフランスに送り返し、五月からパリのギャラリーで展示販売……ってなことになるはず。
ただ、ギャラリーオーナーのオリヴィエの組むスケジュールは、けっこうアバウトっつーか、いい加減なところがあるから(笑)、ホントに五月に展示が始まるかどうか、実はまだ半信半疑なのだ(笑)。そもそもこの連作も、最初の予定では去年の十二月に……という話だったしね(笑)。
連作『七人の侍』

去年個展をしたフランスのギャラリーから依頼された連作絵画、さきほど完成。個展の時は『七つの大罪』というオーダーでしたが、今回のお題は『七人の侍』。ニッポン人といたしましては、いささかコテコテ過ぎじゃないかと思いますが、フランス的にはキャッチーなんでしょうね、きっと。
さて、『七人の侍』というお題はあるものの、テーマ的なオーダーはなかったので、そこいらへんは自分で考えなきゃいけない。連作である以上、通しテーマがあった方が、描く方としても見る人の側に立ってみても面白いし。とはいえ、まさか黒澤映画のキャラクターのポートレートを描くわけにはいかないし、この「全体のくくり」というところで、いささか悩んでしまいました。
七という数字で、しかも日本文化を踏まえて連想するものは……と考えてみて、最初に浮かんだのは「七福神」ってヤツだったんですが、いかんせん私の男絵のテーマには合いそうにない。亀甲縛りにされている福禄寿……なんて、どう考えてもギャグにしかならないし(笑)で、。次に思いついたのは「春の七草」だったけど、これも……ねぇ(笑)。スズシロ(大根)くらいだったら、まあ何とかネタも浮かぶけど、ナズナ(ぺんぺん草)とかはお手上げ。更にゴギョウだのホトケノザだのになると、もうどんな草かも良く知らない(笑)。
というわけで、七のつく言葉を探すために、今度は辞書をひいてみました。……どらどら。「七覚/仏教で悟りを得るための七つの要素」……面白いけどテーマとしては私には手強すぎ。「七観音/衆生救済のために七種の姿に変幻した観音」……へぇ〜、千手観音とか馬頭観音とかはこれだったのか、知らんかった。面白いけど、私よりも故・長谷川サダオ先生向きの題材だなぁ。お次は「七去/大載礼。妻を離縁できる七つの事由」……完全にハズレ。……ってな具合で、どうにも上手いネタが見つからず。
で、きっとこれは下手に背伸びするのがいかんのだろうと思い直し、もっと素直に考えることにしました。で、身近な七というと「一週間」というのがすんなり思い浮かぶ。余りにもヒネリがないような気もするし、あんまり和風という感じもしませんが、ちょっと調べてみたら、一週間という概念が日本に入ってきたのって、平安時代と、いがいと古いんですな。てっきり近世のことかと思っていたので、ちとビックリ。
でもって、日本における一週間の曜日の呼び方は、易教絡みの七曜(地上から視認できる移動する星)に基づいているらしい。そして、この七曜の名前は、太陽と月に陰陽五行を併せたものになっている。そうなってくると、惑星に神の名前が配されている欧米文化との差もでてくるし、陰陽五行も欧米の四大元素と比較できる面白みがある。
更にこじつけると、日本における曜日の誕生は、前述したように平安時代。そして武士の誕生も平安時代。まあ、じっさいはこの二つの間は、優に百年以上は離れているようではありますが、細かいことを気にしなけりゃ、共通項はちゃんとあるわけで……なんて感じで、調べているうちに乗り気になったので、「七曜」というテーマで「七人の侍」を描くことに決定しました。

テーマさえ決まってしまえば、こっちのもの。後は、それぞれの曜日に併せてどんなネタを描くか、全体の構成とかも踏まえて、楽しくアイデア出ししていきます。
まず、五行から外れる「月」から始まって「日」で終わる構成にして、この二つにプロローグとエピローグっぽいニュアンスを持たせつつ、間を五行に絡めたバリエーションをつけた男絵で繋いでいく感じにすると決定。それから、五行のキイワードからぱっと思いつく「描きたい」ネタを、優先して先に決めていきます。
うん、「火」で「箕踊り」を、「土」で「土八付」を描きたいなぁ。どっちも拷問処刑ネタだから、他の曜日には、もうちょっと軽めのネタも混ぜよう。だったら「水」で「河童」ってのはどうだろう。尻子玉を抜かれる侍なんて、絵にしたらフィスト・ファックだから面白いかも。あと、土八付は横位置で描きたいから、あと一点は横位置の絵も欲しいな〜、なんて感じで進めていきます。
全部ネタが揃ったら、ラフスケッチとかで形にしていくわけですが、今回の連作も、以前の『七つの大罪』同様、フランスのギャラリーでの展示販売のみ。日本での発表は未定なのが残念なので、ちょいとこのブログを使って、下絵を二点ほどお披露目です。
『ライラの冒険 黄金の羅針盤』
『ライラの冒険 黄金の羅針盤』(2007)クリス・ワイツ
“The Golden Compass” (2007) Chris Weitz
残念ながら、諸手を挙げて絶賛……とはいかない仕上がり。
美術や配役は素晴らしく、完全に満足がいく内容だった。異世界やモノガタリ世界のヴィジュアル化という点に限って言えば、これはもう100点満点の出来映え。しかし映画としての出来映えはどうかと言うと……正直ちょっとウムムな感じ。
満足半分、ガッカリ半分で、しかもその二つのギャップが激しもんだから、もう、自分もダイモン切り離された気分(笑)。美術100点、俳優100点、演出60点、脚本30点ってとこです(笑)。
まあ、尺が短いせいもあって、展開が駆け足になってしまうのは、仕方がない部分もあるんですが、それにしても、もうちょっと何とかならんかったもんかなぁ。ストーリーは、単に原作の粗筋をかいつまんで繋げただけに終始していて、小説を視覚言語化する技術や工夫やセンスがあまりにも乏しい……ってか、はっきり言って下手。
その結果、緻密であったはずのモノガタリは、行き当たりばったりのイベントの連続にしか見えなくなり、キャラクターへの感情移入や、その行動からエモーションが揺さぶられることもない。
ちょっとね〜、ヴィジュアル面が素晴らしいだけに、なおさら勿体ない感が募るのだ。
以降、ちょっと実例を挙げるので、ネタバレがお嫌な方は、次の段はスルーしてください。
じっさい、脚本や演出の欠点を挙げ始めれば、もうきりがない。
ライラとロジャーの結びつきの描写が不足しているために、友(原作の表現を借りれば「親友で戦友」なのだ)との約束を守るため少女が一人危地へ赴くという感動がない。それどころか、ライラが何のために行動しているのか、その行動原理すら希薄になっている。
人とダイモンの結びつきの描写も不足しているので、それが切り離されたり失われることの重みや恐怖感が伝わってこない。ほんのワン・エピソード、ライラとパンタライモンが、少し離れるだけでも互いに苦痛だという描写を入れるだけでいいのに、それがないので、実験によって二人が切り離されそうになるシーンの、恐怖感や緊迫感がない。
ダイモンを喪ったビリー(原作では別の少年)が、死なずに母親と再会して救われるのも疑問だ。これではまるで、ダイモンの喪失がペットロスか何かのようではないか。これは、世界観の根幹を揺るがしてしまう。だいいち、ここでそういった世界の残酷さを見せないのならば、このエピソードを入れる意味はない。
似たようなことは他にもあり、些細な例を挙げると、攫われた子供たちに親への手紙を書かせるシーンを入れるのなら、その手紙が出されることなく焼かれるシーンも入れなければ意味はない。かと思えば、アスリエル卿が襲撃されるといった、映画オリジナルでありながら、同時に全く無意味なエピソードが入ったり、まったく理解に苦しむ脚本だ。
魔女セラフィナ・ペカーラや気球乗りリー・スコーズビーといった、モノガタリのキーパーソンの登場シーンも、モノガタリ的な前振りや映像的なケレン味が皆無なので、まるで唐突に表れて主人公にとって便利に動いてくれる、ご都合主義の産物という印象しか与えない。
つまり、エピソードが有機的にリンクして、一つのストーリーを織り上げていくという、作劇法の基本が全く出来ていない脚本なのだ。
演出に関しては、とにかく地味でワクワク感に欠ける。
飛行船のシーン一つとってもそうで、あれだけ美麗なデザインのガジェットと、雄大なCGIを用いながらも、主人公が「閉ざされた小さい世界」から「広大な外の世界」に向かうというワクワク感は、全く体感させてくれない。
ライラがイオレク・バーニソンの背に乗って、雪原を疾走するシーンも好例。絵的には美しく仕上がってはいるものの、「あたし、白熊の背中に乗って北極圏の雪原を走っている!」という主人公のワクワク感が描けていないので、見ているこっちもワクワクしない。
危機一髪のタイミングで駆けつける援軍たちも、こういったクリシェは、受け手に「待ってました!」という爽快感を与えてこそなのに、それがない。
そんなこんなで、どのシーンも、絵的には決してマズくはないのに、何か盛り上がりに欠けるのだ。カッコイイものやスゴイものを見せるというセンスが、根本的に欠如している感じ。日常ドラマならともかく、ファンタジーやエピックでこれじゃマズいっしょ。
そして、最大にして致命的な欠点は、あの中途半端なエンディングだ。
いろいろ事情はあるのだろうが、個人的には許し難い暴挙に思えて、怒りすら覚えた。こういった、口当たり良く終わらせようという、及び腰な「配慮」は、実に不愉快この上ない。そういう立場で制作するという態度そのものが、原作の挑戦的な態度とも、ライラというキャラクターの性格にも、全く反しているからである。
ネタバレ、ここまで。
という具合に、脚本と演出は欠陥だらけではあるものの、それでもやはり、美しい美術の数々には魅了されました。特に、真理計や飛行船や三輪車(?)のデザインの、その優美で古雅な美しさは、本当に素晴らしい。船や気球のデザインも良いし、エクステリアやインテリアも見応えあるものばかり。
俳優陣も、こんな酷い脚本なのに、それでもあれだけの存在感とキャラ立ちを見せているという点で、これまた誰もが素晴らしい。前にここで、イオレク役にしては声がオジイチャンすぎやしないかと心配だったイアン・マッケランも、そんな不安は微塵も感じさせない力強さで、改めて「巧いな〜!」と感心したし、ニコール・キッドマンもダニエル・クレイグもエヴァ・グリーンも良かったし、サム・エリオットも良かった。ホント、繰り返しになるけど、皆さんよくも、あんなストーリーや設定の説明だけで、心理描写や人間ドラマの欠片もないセリフばかりなのに、よくここまで存在感を出せるな〜、と、ひたすら感心しました。
メイン・キャラだけではなく、ほんのチョイ役も、前に触れたクリストファー・リー以外にも、デレク・ジャコビとかキャシー・ベイツとか、無駄な豪華さが嬉しい(笑)。贅沢な役者が出演している。そうそう、エンド・クレジットの歌がケイト・ブッシュだったのも、私にはちょっと嬉しいオマケだったなぁ。
ああ、あともちろん、白熊を筆頭に動物の数々も良かった。存在感と説得力がある視覚化という点では、全く問題なしの出来映え。
まあ、私は原作のファンなので、内容的にはかなり辛い評価にはなってしまいますが、ファンタジー映画好きなら、見所やお楽しみどころも色々とあると思います。少なくとも、『エラゴン』や『ゲド戦記』よりは、よっぽどマシだと思う……って、大して褒め言葉になっていないような気もするけど(笑)。
ただ、もし続編が制作されるなら(正直、これで打ち切りでもむべなるかな、という感ではありますが)、お願いだから監督は、別の人にしてください。クリス・ワイツ氏の脚本と演出手腕には、もう微塵も期待はできないんで(笑)。
