つれづれ

 先日、ナルニア映画第二弾『カスピアン王子の角笛』を鑑賞。前作で感じた「原作に忠実であるがゆえの物足りない感」がかなり解消されていて、なかなか楽しめる出来でした。さて、次の『朝びらき丸』では、監督の交代が吉と出るか凶と出るか。
 DVDは、岡本喜八の「暗黒街BOX」と、近所のTSUTAYAで三枚三千円になってた廉価版の「ヒッチコック劇場」をまとめ買いしたので、それぞれ交互に鑑賞中。
 音楽は、エジプト国立アスワン民族芸能団の来日公演を見に行きました。大好きなヌビア音楽と、素朴で陽気で、でも迫力もタップリな踊りを、存分に楽しめて大満足。あ〜、またエジプトに行きたくなった(笑)。
 CDは、旧譜を引っ張り出して聴き直してばかりで、これといって目新しいものは入手していませんが、自作の方は、友達に頼まれてアレンジをやったり、MIX違いを試したり、その流れでもう一曲作ったり、あれこれと。
 本は、ポット出版さんから『英語で新宿二丁目を紹介する本』をいただきました。著者は森村明生さんことエスムラルダさん、監修が松沢呉一さんと、個人的にご縁浅からずの方々。
 語学専門出版社、語研さんとのコラボレーション企画だそうで、来日したアメリカ人に日本人が新宿二丁目を案内するという設定で、英会話と日本語会話が併記されています。
 英会話云々は関係なく日本語の部分だけ読んでも、新宿二丁目の概要を知るための入門書的にも役立つのが面白いです。かつての赤線の建物が残っているあたりの話とか、ぜんぜん知らなかったので、読んでいて「へぇ〜」と感心してしまいました。
 マンガは、復刻版の『ライオンブックス』全二巻と『描きかえられた「鉄腕アトム」』で、プチ手塚フェア状態。前者は美麗でカッコイイ表紙絵の数々を大判カラーで楽しめるのが最高、後者は文字通り重箱の隅をつつくような内容の細かさにビックリの労著。
 画集は、超絶技巧ペン画のマエストロ、“Franklin Booth: Painter With a Pen”“Joseph Clement Coll: A Legacy in Line”を、それぞれ購入。正確無比な描線でカッチリと硬質な画面を描くフランクリン・ブースと、躍動する描線と大胆な明暗法で勢いのある画面を作るジョセフ・クレメント・コール、作風は好対照ですが、いずれも溜め息が出るような「匠の技」を堪能できます。
 そうそう、本と言えば、昨年の11月末に出た拙著『外道の家(上巻)』ですが、今月号の「バディ」で在庫稀少になっていたところ、さっきネットで確認したら、既に版元では在庫切れになっていました。
 増刷等の話は来ていないので、おそらく残るは店頭在庫だけのようです。ゲイショップのネット通販でも、既に売り切れになっているところがあるので、お買い求めはお早めに。
 お絵描きの方は、仕事の合間に、例によってラクガキをちょこまかと。先月中頃から、本家サイトの方でパスワード制のスケッチ・ブログを始めたので、そのうちそっちにアップするつもり。
 ああ、お絵描きとは違うけど、これまた友人に頼まれて、久々にグラフィック・デザイナーもやりました。公演のフライヤーやプログラムで、ゲイでもなけりゃエロでもない内容。しかし、Illustratorを立ち上げるのって、ホントたま〜にしかないんで、いっつも作業開始時には、使い方を忘れちゃっていて困ります(笑)。特にショートカットは、もうぜんぜん覚えられない(笑)。
 あと、今月は何だか海外からのお客様が多くて、フランス人、シンガポール人、イタリア人と、続けざまにお会いしました。その他にもメールで、アメリカ、スペイン、オーストラリアから問い合わせが。
 こういったあれこれが、また何か新しい面白いことに繋がればいいな〜、などと期待しております(笑)。
 海外と言えば、前回のエントリーでMidoriさんの写真を載せたら、それを見たアメリカの2004年度ミスター・レザー・ベアー(前にファンメールを戴いて以来、何度かメールをやりとりしている方です)が、「自分もMidoriとセッションしたことがあるんだよ〜」と、Midoriさんが撮った彼のボンデージ写真を送ってきてくれました。
 ふふふ、こーゆーのは役得ですな(笑)。

フランスの個展の写真

 フランスで現在開催中の個展の写真を、サンフランシスコに拠点を置き、ライターやパフォーマーやカメラマンとして、欧州でも活動しているアーティストMidori(美登里)さんが送ってくれました。
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 左の写真の「七人の侍」の両脇、左がギャラリー・オーナーのオリヴィエ、右が美登里さん。右側の小さな白黒ドローイングは、昔「さぶ」に描いた小説挿絵の白描ですな。右下にピンが立っているところを見ると、どうやら売れたみたい。嬉しい嬉しい(笑)。
 連作「七人の侍」は、一つの額に全点を入れてありますが……う〜ん、狙いは判るんだけど、「七曜をベースに、オーバーチュアーとコーダで挟んだ組曲的なもの」という、連作のコンセプトからはズレちゃってるなぁ。これだとちょっと、配置が感覚的過ぎる。やっぱりこういう細かな部分は、自分で現地に行って指示しないと、難しいものがありますね。
 美登里さんとは、まだ実際にお会いしたことはないんですが、メールをいただいたのをきっかけに、MySpaceなんかでちょくちょくやりとりをしています。サイトを拝見すると、フェティッシュやボンデージやキンキー系で、いろいろと面白そうな活動をなさっているんですが、個人的に一番気になるのは、廃墟の中でレザーマンをボンデージして撮影した、一連の写真シリーズ。ここで見ることが出来ます。

ちょっと宣伝、マンガ『告白』後編です

Kokuhaku02 5月21日発売の「バディ」7月号に、マンガ『告白』の後編掲載です。
 今回は、こってりしっぽりエロ描写多め。とはいえ凌辱とかハードエロって感じではなく、メンタル描写とシンクロしながらのセックス描写、ってな感じでしょうか。ほぼ全てがベッドの上だけで進行して、しかも体位を変えられないもんだから、構図や視線誘導が単調にならないようにするのが、ちょっと大変でした(笑)。
 しかしまあ、この『告白』前後編を描いて改めて、自分はつくづく「不器用な男たち」の「愛おしさ」が好きなんだな〜、と思いました。そんな意味でも、今回のキャラは、かなりお気に入りです。
 というわけで、よろしかったら是非、前編と併せてお読みくださいませ。
バディ7月号(amazon.co.jp)

ちょっと宣伝、読み切りマンガ(西洋ヒゲ熊中世もの)描きました

Sarashidai 5月17日発売のコミック・アンソロジー「肉体派 vol.9 ゴウカン漢全攻略」に、12ページの読み切りマンガ描きました。
 タイトルは『晒し台』。中世ヨーロッパ(いつどこという設定は厳密にはしていませんが、アバウトにメロヴィング朝あたりのフランク王国とかをイメージ)を舞台にした、左上のヒゲ熊騎士長が、晒し台(ピロリー)の上で公開拷問凌辱される……ってな内容です。晒し台以外にも、判る人には判る「苦悶の梨」とかも出てきまして、凌辱度はMAX、ラブ度はゼロ(笑)。
 中世の西洋という内容に併せて、今回は雰囲気を出すために、ペンタッチをいつもと少し変えてみました。マンガ的なスッキリしたラインから、もうちょいペン画寄りの方向へ。
 あと、これは読者様には関係ないことなんですが(笑)、タッチを変えてハッチングの重ねを増やした分、その再現性を高めるために、仕上げ時の解像度を、いつもの600dpiから倍の1200dpiに上げてみました。結果、なかなか上々の仕上がりになったと思います。……ってまあ、こんなのはデジコミに興味のある方専門情報ですけどね(笑)。
 そんなこんなで、ネタ的にもキャラ的にも作画的にも、いろんな意味で楽しくノッて描けました。
 よろしかったら、ぜひお読みくださいませ。
肉体派 VOL.9(amazon.co.jpで購入)

画集”Conan, The Phenomenon”

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“Conan, The Phenomenon: The Legacy of Robert E. Howard’s Fantasy Icon”
 ロバート・E・ハワードの「蛮人コナン」の図像的イメージを、その誕生から現在に至るまで辿った大判画集。
 版元は、現在フルカラーでコナンのコミックスを刊行しているダークホース社。おそらく、自社コミックスのPR的な意味もあるのでしょう。

 ハワードのコナンといえば、ヒロイック・ファンタジーの祖でもあり、そのイメージは「裸で大剣を振り回す、マッチョの野蛮人」という感じですが、そんなイメージがいかにして確立し、そして定着していくかを、豊富なカラー図版で追うことができるので、なかなか面白く見応えのある画集でした。
 例えば、初出時の1930年代の”Weird Tales”誌では、マーガレット・ブランデージによるカバー画の中に、コナンの姿を見ることができるんですが、現在のコナンのイメージとは全く異なっています。
 ブランデージの絵の特徴は、女性的なしなやかなエロティシズムと怪奇性にあるので、例え上半身裸で剣を振り回している男を描いても、粗野とか野蛮とかいったイメージとはほど遠いもので、描かれたコナンも、まるでルドルフ・ヴァレンティノか何かのように見える。ブランデージの作風に、ハワードのそれが合致していないんでしょうな。これがハワードではなく「ジョイリーのジレル」のC・L・ムーアだったら、イメージ的にピッタンコなんですけどね。

 で、そうなるとブランデージよりも男性的な作風で、エドガー・ライス・バロウズ作品の挿画などで有名なJ・アレン・セント・ジョンや、その一世代後のロイ・G・クレンケルが描くコナンなんてのを見たくなるんですが、残念ながらそういうものは存在していないのか、この画集には収録されていませんでした。
 ただ、セント・アレン・ジョンに関しては、前述の”Weird Tales”誌のカバー絵が一点掲載されています。残念ながらハワードではなく、『火星の黄金仮面』で知られる、バロウズ・フォロワーのO・A・クラインが書いた、金星もののカバー・ストーリーらしいのですが、コナンというアイコンを考えるにあたっては、図像学的な共通点もあって興味深いです。
 この、ハワードとバロウズという比較は、作品の内容的な共通点はもとより、図像学的には、アメリカではフランク・フラゼッタが、日本では武部本一郎や柳柊二が、いずれも双方の作品の挿画で人気を博しているので、コナンからもうひとつ幅を拡げて、「空想世界で戦う裸のマッチョ」の図像学を考えると、いろいろと面白い発見がありそうな気もします。

 さて画集では、それから時代が下って、50年代にノーム・プレスから出版された、コナンの単行本のカバー画も見ることができます。
 これらは、エムシュ(エド・エムシュウィラー)やフランク・ケリー・フリース、あと私の知らないところで、ジョン・フォルテやデヴィド・カイルという作家による絵なんですが、興味深いことのこれらのカバー画からは、「野蛮人」といったニュアンスは全く感じられず、絵の内容やタイポグラフィなどのデザインも含めて、まるで古代ローマ帝国を舞台にした歴史小説か、あるいはアーサー王伝説か何かのような書物に見えるという点。
 前述したバロウズとの共通要素も皆無と言って良く、キャラクターも裸のマッチョですらなく、前述したような普通のコスチューム・プレイ(念のため、これ、いわゆる「コスプレ」のことじゃないからね!)風に描かれているんですな。作風はともかく、図像学的な共通点だけに絞れば、まだ30年代のブランデージの描くコナンの方が、現行のイメージに近いというのが面白い。
 ただ、このノーム・プレス版の中にも、50年代末期に、ハワードではなくビョルン・ニューベリイ&L・スプレイグ・ディ・キャンプ名義によるコナンの単行本で、ウォーリー・ウッドがカバー画を描いているものが載っています。
 で、これが再びバロウズ的なイメージへの再接近を見せていて、しかも顔を顰めて歯をむき出しているコナンの表情など、バロウズ的なものには余り見られない「野蛮」というニュアンスがかいま見えているのが興味深い。この後に来る、フラゼッタによってイメージが確立するに至る、その橋渡し的な感じがします。

 さて、この後60年代になって、ランサー版の単行本カバーで、いよいよフランク・フラゼッタが登場します。で、やはりこれが、現在に至るコナンのイメージを決定し、しかも、オリジンであると同時に完成形でもあるというのが、以降の作家によるコナン像を見ていくと、良く分かります。
 60年代のランサー版では、他にボリス・バレジョーや、私の知らないところでジョン・ドゥイロという人のカバー画も載っています。ドゥイロの方は図版が小さいこともあって良く分からないんですが、この時期のバレジョーに関しては、完全にフラゼッタのフォロワーと言って良いでしょう。後にバレジョーは、フォトリアリズムという点ではフラゼッタを越える技術力を生かし、同傾向の作風のジュリー・ベルと組んで、共にファンタジー・アートのマエストロになりますが、その作品は物語絵というよりはピンナップ的な世界であり、ハワード的や、あるいはバロウズ的なものといったニュアンスからは遠くなっていきます。
 70年代のアメコミ版も、80年代から90年代のアーノルド・シュワルツェネッガーやラルフ・モーラーによる映画やテレビ版も、いずれもイメージの源泉は、フラゼッタの描くコナンにある。
 アメコミ版では、バリー・ウィンザー・スミスが、後にラファエロ前派やアールヌーボー絵画への接近によって、フラゼッタとは異なった味付けを見せますが、それらはあくまでも描画法や装飾性といった表層レベルのもので、コナンというイコンの造形そのものに関しては、やはりフラゼッタ直下のものにある。
 同時期のものでは、ケン・ケリーによるイラストレーションも画集には収録されていますが、これも完全にフラゼッタを踏襲したものになっています。

 ここで興味深いのは、コナンを描くにあたって、フラゼッタとケリーの作品は酷似しているがゆえに、その二つを見比べると、フラゼッタの作品には他の作家にはない、イラストレーション的には特異と言ってもいいような、ある特徴があることが判ります。
 イラストレーションというものは、基本的に「絵解き」ですから、特に物語絵のい場合は、そこには「説明」の要素が不可欠です。ケリーの絵を見ると、「なぜコナンがそういうポーズをとっているのか」といった、物語的な流れがはっきりと読み取れる。しかし、フラゼッタには、意外なほどそれがない。ある一瞬を切り取ったタブローとして、迫力はものすごいんですが、良く見るとキャラクターのポーが不可解だったりする。
 例えば、有名な赤マントのゴリラとコナンが戦っている絵を見ると、コナンのポーズもゴリラのポーズも、鑑賞者にとって「分かりやすい」決定的瞬間とは異なっている。仮に自分がこういうシーンを描くとすると、まず最初に思い浮かぶのは、コナンが剣を振りかざし、いまにもゴリラに斬りつけようとするという瞬間のポーズでしょう。しかしフラゼッタの絵では、剣を持った腕は水平に真っ直ぐ後ろへと伸びている。となると、これは斬りつけた剣を後ろに引いた、その瞬間のようにも思えますが、ゴリラ側のリアクションがそれに合致しない。ここには「これがこうなってああなりました」といった物語的な説明要素が、絵解きとしてのイラストレーションにしては、実に希薄なんですな。こういった特徴は、前述のケリーや、あるいは現在の作家の作品には、全く見られない。他の作家は、皆、イラストレーション的にもっと「明解」な画面構成にしている。

 では、フラゼッタの絵の、こういった特徴は欠点なのかというと、それが全く違うというのが、また面白い。フラゼッタの作品で重視されているのは、そういう「説明」ではなく、激しい動きを見せる複数の人体が絡み合い、それが朧な背景と共に、もやもやと画面にとけ込みながら、全部が一体化して巨大なうねりとなり、強烈なマッスとムーヴマンを醸し出すという、その「表現」そのものにあるからです。ある意味でミケランジェロ的とも言える、この表現力に、鑑賞者は圧倒される。
 こういったファインアート的な特徴が、フラゼッタを他の同傾向のファンタジー・アーティストとは一線を画した、孤高のマエストロにしているのではないか、なんてことを、この画集を見ながら感じました。

 話が逸れましたが、80年代末から現在に至る、様々な作家によるコナン像を見ていくと、キャラクターの造形はフラゼッタの流れを継承している感が強いとはいえ、その中にある種の流行のようなものや、あるいは個々の作家による個性の打ち出し方の違いなどが見えてきて、これまたなかなか面白い。
 流行という点では、フラゼッタやアメコミ版、映画版で見られた、革パン一丁というコスチュームは、現在では廃れています。どの作家の描くコナンも、チュニック様の衣で上半身も覆っていたり、あるいは上半身は裸でも、ボトムは鎖帷子やキルトのような長めの腰布であったりして、ボディービル的なニュアンスの強いかつてコスチュームよりは、だいぶ歴史物っぽいリアリズムを踏まえた傾向になっている。そして、そういったアレンジを見ていると、これはケルト風だな、とか、こっちはネイティブ・アメリカン風だな、とかいう感じで、それぞれのイメージ・ソースが分かりやすいのも特徴です。

 個々の作家の個性で言えば、ゲイリー・ジャンニの描く作品は、アラビアン・ナイトのようなオリエンタル世界への接近を見せ、画面構成や描画法にも、レオン・ベリー、エドウィン・ロード・ウィークス、グスタフ・バウエルンファイントといった、19世紀末のオリエンタリズム絵画からの影響が色濃いように見えます。グレゴリー・マンチェスの作品は、ネイティブ・アメリカン風のニュアンスが見られるし、マッスとしての筋肉のリアリズムにこだわりながら、それを粗めの筆致で的確に描くタッチは、N・C・ワイエスやハワード・パイルあたりの、20世紀初頭のアメリカン・リアリズムのイラストレーターたちとの共通点が伺われます。
 他にも、マイク・ミニョーラの描くコナンを見ると、ミニョーラは何を描いてもミニョーラだなぁと思ったり、前述したフルカラーのコミックス版の、ケイリー・ノード&デイヴ・スチュワートは、正直あんまり好きじゃなかったんですが、画集に収録されているカラーリング前のモノクロの鉛筆ドローイングを見ると、おやおや着色前の段階だとけっこう好きだぞとか思ったり。

 ただ、全体的な傾向としては、”Weird Tales”から始まりフラゼッタの頃まではまだ残っていた、怪奇というかホラーというか、そういったムードは、現在では完全に消えてしまっています。
 それと同時に、朦朧とした世界の中での「個」を描いたヒロイック・ファンタジーから、細部まで作り込まれた明解な世界の中での英雄の活躍というエピック・ファンタジー、あるいはハイ・ファンタジー的な世界への接近を見せているように感じられます。見返しに使われている絵なんかは、ハワードのコナンというよりも、まるで『指輪物語』のヘルム峡谷の戦いを描いたものみたいです。

 テキストの方はちゃんと読んでいないんですが、序文はマイケル・ムアコック(……ん? あんた、アンチコナンじゃなかったっけ?)。ハワードのバイオグラフィーも、豊富な写真入りで載っています。上半身裸になって、銃やナイフを構えていたり、友人と剣を交わしているコスプレ写真(こっちは現在日本でいうところの「コスプレ」の意です)なんてのもある。
 という感じで、ハワードのファンやヒロイック・ファンタジー好きにはもとより、ハワードのコナンは読んだことなくても、マッチョ絵が好きな人ならたっぷり楽しめる充実した画集です。オススメ。
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『タブウ』およびヴァルター・シュピース追補

 前回の記事を書いた後、ヴァルター・シュピースについて、もう少し詳しく知りたくなったので、とりあえず手頃そうな『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(伊藤俊治・著/平凡社新書)という本を読んでみた。

 結論から言うと、残念ながらF・W・ムルナウとの関係については、シュピースのドイツ時代のバイオグラフィー関係や、交友がバリ移住後にも続いていたということ、ムルナウの『ノスフェラートゥ』がシュピースの写真作品に与えた影響(特に魔女ランダを撮影したもの)などについて、軽く触れられているのみで、特に目新しいものはなかった。
 しかし、「南海を舞台にした映画を共同でつくるというプランも二人の間にはあった」という記述があり、これは『タブウ』という映画の成立要因を考えるにあたっては、なかなか興味深い事実だと言えそうだ。
 またこの本は、シュピースとムルナウの関係については、前述した通りではあるが、シュピースという作家の生涯や、彼がどのようにしてバリの文化に関わり、バリ舞踏やバリ絵画が現在知られるような形に至ったのか、その経緯や時代背景や思想はどういったものであったのか、などといったことについては、とても判りやすく解説されているので、シュピースやバリ芸術に興味のある方ならば、読んで損はない内容である。

 さて、それとは別に、私がこの本を読んで、もう一カ所、興味を惹かれた部分があった。それは、1983年にシュピースが、「同性愛の罪」によって逮捕されたことに関する、その時代的な背景についての記述である。(ただし本書では、この部分以外には同性愛者について述べている部分はないので、「同性愛者としてのシュピース」の実像を本書から伺い知ることは、残念ながらほとんど出来なかった)

 では、まず以下の引用をお読みいただきたい。

「1930年代末になると、ファシズムの影が濃くヨーロッパを覆いつくし、それが世界中に広がってゆくようになった。ヒットラーの台頭と日本のアジア侵略は、インドネシアを統治しているオランダ政府にも大きな影響を与えた。(中略)
 そして何十年もの間、暗黙に了解されてきた慣習が突然、秩序にとって危険なもののように見えはじめ、いわゆる"魔女狩り"が主として性道徳上の問題(特にホモセクシュアル)に対して向けられていった。ジャーナリズムも同調し、そうした人々に対し悪意のこもったキャンペーンを始めるようになり、家宅捜索状が出され、警察が容疑者たちを次々と取り調べ始めた。
(中略)わずか数ヶ月間に、インドネシアでは風紀紊乱(ホモセクシュアル)による容疑者が百人以上も逮捕され、多くの人々が同じ事態が自らの身にも起こるのではないかという不安におびえ暮らしているありさまだった。自殺、免職、結婚の解消などが相次ぎ、バリでもそうした状況を免れることができなかった」

 私が興味を惹かれたのは、こうしたカタストロフが起きる以前の状況、すなわち同性愛が「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という状況である。
 では、なぜそれに興味を惹かれたのか。
 それは、その状況が現在の日本と同じだからである。
 日本では、欧米で見られるヘイトクライムのような、いわゆる目に見える形としての「ゲイ差別」は、幸いにして殆ど見られない。また、ある種の宗教的基盤のような、同性愛を絶対的な悪とみなす価値基準も、おそらくは文化的に存在していない。
 ただし、どの社会でも一定数はいるであろう、同性愛を道徳的に悪しとする層は、日本社会の中にも確実に存在するであろう。じっさい、ネット上の匿名の場においては、本気なのか露悪趣味的な行為に過ぎないのかは別としても、そういった論調にお目に掛かることは、決して珍しくはない。
 では、なぜそれが実社会で表面化していないかといえば、それは単に、そういった人々を後押しする大義名分が存在しないということと、そういった行為自体が、現在の社会というシステムの中で「良くないこと」とされているからである。仮に、宗教右派のような思想が後押しをすれば、同性愛批判は「正しい」という信念のもとに表面化するであろうし、社会というシステム自体がそれを制約しなければ、やはり同様の結果になる。欧米におけるキリスト教右派による活動などは、前者に相当するし、中東などのイスラム国家における同性愛差別は、前者と後者と共に相当する。
 つまり、極論を恐れずに言うならば、日本における「ゲイ差別がない」状況というのは、社会というシステムによって「何となくそういう状況に置かれている」ということでしかない。

 これは前述した「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という、1930年代の「同性愛者狩り」が始まる前オランダ領インドネシアの状況と、実は何ら変わることはないのだ。
 しかし、その同じ「暗黙の了解」が、1930年代、ほんの数年のスパンで、社会のパラダイム・シフトによって崩れた。それまで表面化していなかったものが、大義名分や社会不安の影響といった後押しを得て、政治的な力となって顕在化したのだ。これは見方を変えれば、状況次第ではそうなって然るべき潜在需要が、かつての「暗黙の了解」の時代の中でも、既に存在していたのだとも言えよう。
 そして、シュピースはその犠牲となった。(ただし、シュピースは後に釈放はされている。彼の直接的な死因となった、収容所間の移送中の爆撃において、その拘留理由となったのは、ドイツのオランダ侵攻による「敵国人」であるということだった)
 このことは、同性愛を「何となく」寛容している「暗黙の了解」というものが、社会というシステム自体が変化していく局面においては、いかに脆弱なものであるかということを指し示している。

 では、同様のことが現在起こったならば、いったいどうなるだろう。
 欧米に関しては、同性愛者側からの抵抗がはっきりと出て、簡単に同じ結果にはならないであろうことが、充分想像できる。目に見える差別に晒されてきた欧米の同性愛者たちは、現時点において既に、政治的にも経済的にも、ある程度以上の行動力は持ち合わせているからである。
 しかし、日本ではどうだろう。

 これまで日本では、前述のように表面化したゲイ差別がないためもあり、団結や主張、或いは防衛の必要はなかった。権利を侵害されることはないが、同時に権利を主張することもなかった、あるいはする必要がなかったのだ。
 日本におけるゲイのライフスタイルは、一例を挙げれば、その多くがウィークデイやデイタイムは「普通に生活」しながら、夜や週末や自宅のパソコン・モニター上でのみ「ゲイライフ」を満喫するという、「日常と分離した非日常としてのゲイ」なのである。よって、そういった非日常としてのゲイ・ビジネスは、ある程度以上には盛んであるし、社交を目的にするにせよ、性的な充足を目的にするにせよ、そういった場には事欠かないという、楽しいゲイ・ライフを満喫できる恵まれた状況にある。
 しかし、例えばLGBT向けのTVネットワークであるとか、書店で普通に買えるエロだけではないLGBT雑誌であるとか、あるいは同性婚であるとか、そういったものになると、これらはいずれもゲイ文化、あるいはゲイという主体が、日常レベルでも機能している、あるいは消費の対象となっているがゆえに、初めて機能しうる類のものである。だが、日本では「日常」において、ほとんどのゲイが「姿の見えない存在」である以上、マーケット自体が存在しないのと同様なので、当然のように、前述したような類のものも存在しえない。
 このことは、例えばカミングアウトしていないゲイが、家族や友人、仕事の同僚などの前で、明確に「ゲイ向け」の商品を購入することができるかどうかを考えれば、分かりやすいであろう。現時点での日本のような、日常化していないゲイ・マーケットの消費層にとっては、「ゲイ向け」というそのものズバリではないが、「ゲイ受けのする」とか「実はゲイらしい」といった、ゲイ・コミュニティー内である程度の共通認識がありつつ、しかし「ゲイとは何の関係もない」というエクスキューズも可能な「商品」までが、精一杯なのである。

 こういった現象の是非は別にして、それが結果として、日本のゲイの置かれている現状が、欧米におけるそれとは異なっている状況をもたらしている。それは、政治や経済といった「日常」においては、日本のゲイ・コミュニティーは全く力を持っておらず、また、行動を起こそうともしていないということである。
 過去に何度か、ヘテロセクシュアルのサイドから、政治的に、あるいは経済的に、欧米同様にゲイという潜在人口を期待したアプローチをしたことはあった。しかし、そのいずれもが期待された成果は得られなかった。つまり、他ならぬゲイ自身が、それに賛同することなくオミットしたのだ。このことからは必然的に、多くの日本のゲイ自身が、ゲイがあくまでも「非日常」のままであることを望んでいるのであろうと思わされる。ゲイが日常化することを希望する人口は、却って少数派なのであろう。
 こういった現状を踏まえて、社会的なパラダイム・シフトが起こった場合、日本のゲイがそれに抵抗できる力を持ち合わせているかを考えると、残念ながら個人的には、どうも悲観的な予測しかできない。
 しかも恐ろしいことに、前述した1930年代のオランダ領インドネシアにおける「同性愛者狩り」は、同種の行為で知られるナチス・ドイツによって行われたのではなく、ナチスに対立しつつ、その影に脅かされていたオランダにおいて、社会的不安を背景にして生まれている。ファシズムという、いわば分かりやすい「悪」の所産ではなく、それに対峙する存在であるかのような、本書の表現を借りると「普段は明晰で合理的な考え方を持つオランダ人たち」の手によってなされたのだ。これは、こういった「同性愛者狩り」が、ナチスの優性思想などとは異なる類の、より普遍的な人間社会のありようである可能性を指し示しているようで、ある意味で、絶滅収容所よりもそら恐ろしいものを感じる。

 日本は差別もなく、ゲイにとっては住みやすい国かも知れない。しかし、その安穏さの立脚基盤は、慣習的な曖昧さに基づいているものであるがゆえに、同時にひどく脆弱である。そして、こうした曖昧さは、ゲイにとってのカタストロフが起こった際には、何の力にもなりえないであろう。
 本書でヴァルター・シュピースの晩年について読み、改めて、そんなことについて考えさせられた。

『タブウ』

tabu
『タブウ』(1931)F・W・ムルナウ
“Tabu: A Story of the South Seas” (1931) F.W.Murnau

 ムルナウが同性愛者だと知ったとき、私はムルナウの作品は『吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響楽』『ファウスト』『サンライズ』の三本を見たのみで、正直なところ意外に思った。1920年代から30年代という活動時期から鑑みても、それっぽい直截的な描写はなくて当然なのだが、それにしても、彼の映画からそれらしき気配を感じたことが全くなかったからである。
 その後、『ファントム』『最後の人』『フォーゲルエート城』などを見たときも、その印象は変わらなかった。見れば見るほどこの監督が好きになり、以前は自分の中で「ラング>ムルナウ」だったのが、いまではすっかり「ムルナウ>ラング」に逆転してしまったものの、同性愛的な要素に関しては、あくまでも「ああ、言われてみれば……う〜ん、そう深読みもできるかなぁ……?」といった程度の印象だった。

 そんな状況で、今回初めて『タブウ』を鑑賞した。
 そして、驚いた。
 そこには、同性愛者としてのムルナウの存在が、はっきりと刻印されていたからである。

 モノガタリは、南太平洋を舞台とした、寓話的とも言えるシンプルなラブ・ストーリーである。
 文明の力未だ及ばずの楽園、ボラボラ島に暮らす若い男女が恋に落ちる。しかし娘が、神に身を捧げる乙女に選ばれたことにより、二人の恋は禁忌(タブウ)の恋になってしまう。互いを諦めきれない二人は、やがて手に手をとって島から逃げ出す。駆け落ちした二人は、より文明化された島へと辿り着き、そこでひっそりと幸せに暮らす。だが、そこに追っ手が迫る。二人は再び脱出を試みるが、貨幣という「文明による堕落」が、それを阻む。
 ここをもう少し詳しく説明すると、かつて二人が暮らしていた島には、貨幣の概念がなかった。しかし、今度の島では、船に乗るにもお金がいる。貨幣の概念を知らなかった二人は、一度は追求の手を「買収」によって逃れることができるのだが、一方で、それと知らずに抱えてしまっていた「負債」が、最終的に二人の脱出行の障害になってしまうのだ。

 以下、ネタバレになるので、お嫌な方は、次の段は飛ばしてください。

【ここからネタバレ】
 脱出の道を喪い、娘は、愛する若者の命を救うために、自分は追っ手と共に島に戻ることを決意する。一方若者は、負債を返済するために、鮫が潜むタブウの海域に潜り、真珠を採ろうと決意する。結果として若者の試みは成功するのだが、家に戻ったときには、既に娘は書き置きを残して姿を消した後だった。
 若者は、恋人を連れ去る船を追う。最初はカヌーで、そして泳ぎで。帆に風をはらんで疾走する帆船を、泳いで、泳いで、泳ぎまくって、ひたすら追いかける。そしてついに、船から垂れたロープを掴む。しかし、追っ手の老人は、娘を船倉に押し込むと、若者の握ったロープを無情にも切断する。船は進み、若者は次第に引き離されていく。そしてついに若者は力尽き、大海に沈んで消えてしまう……。
【ここまでネタバレ】

 こういったモノガタリが、職業俳優ではない素人の現地人の演技と、南太平洋の美しい自然の情景に彩られながら綴られていく。
 手法としてはドキュメンタリー的だが、主題としては、民俗学的な記録映画的なものではなく、やはり寓意的な愛のモノガタリが前面に出ている印象が強い。
 寓話的世界とドキュメンタリー的な世界の齟齬もあって、私が個人的にムルナウのベストだと思う『吸血鬼ノスフェラートゥ』『最後の人』『サンライズ』の三本と比べると、若干見劣りする感はあるものの、それでも充分以上に見応えのある名作であることには変わりなく、しかも、以下で述べる同性愛的な要素も併せて鑑みると、私にとって忘れがたい一本となりそうな作品だった。

 では、この映画に見られる同性愛的な要素について。
 最も直截的にそれを感じられるのは、映画の冒頭で映し出される、ポリネシアの青年たちの美しい裸身であろう。南国の楽園で、若者たちのしなやかな裸身が、画面から飛び出さんばかりに躍動する。
 このシークエンスにおいて、それを捕らえるムルナウの「目」に、意識的にせよ無意識的にせよ、同性愛的な視点が存在するのは、後述するように、ムルナウが死んだときに一緒だったのが、フィリピン人のボーイフレンドだという点からも明かであろう。また、映画には乳房も露わな娘たちの裸身も出てくるが、この青年たちの裸身を撮るときのような、肉体の美しさそのものに耽溺しているようなニュアンスは見られない。
 いささか唐突ではあるが、私はこの一連のシークエンスを見ながら、何とはなしに、シチリアのタオルミナで古代ギリシャ憧憬に基づく青少年のヌード写真を撮り続けた、やはり同性愛者であったヴィルヘルム・フォン・グローデン男爵の写真を連想していた。

 そして、もう一つの同性愛的な要素は、禁忌(タブウ)の愛という映画の主題そのものである。
 禁断の愛すなわち同性愛の暗喩と捉えるのは、いささか安直に過ぎるかもしれない。しかしこの映画の場合、監督自身が同性愛者であるということと、特定の愛がタブウとなる背景が、共同体というシステムに起因していることが明示されているという点からも、やはり同性愛のアレゴリーであると考えたくなってしまう。
 ここで重要視したいのは、この映画は未だ文明化されていない南国の島を楽園的に描きながらも、同時にそれが二人の愛をタブウとする原因でもあるという点だ。則ちここで描かれている南国は、例えばゴーギャンが描いたような、非文明的であるがゆえの愛と生命に満ちた楽園では、決してないのだ。
 同時にこの映画には、前述したような文明批評的な要素も出てくる。では、非文明と対比された文明化された社会によって、二人の愛は救われるのかというと、これまたそうではない。文明社会は文明社会で、これまた二人の愛に代表される「純粋さ」を阻害してしまうのだ。
 原始社会が愛を阻む禁忌となり、それを人文化された文明が救うという構図ではなく、逆に、近代社会で叶わぬ純粋な愛が、原始の楽園で許容されるという構図でもなく、どちらもが純粋な愛の成就を阻害する。このことは、後述する、この映画の制作の原動力となった、ムルナウとヴァルター・シュピースとの関わりを考え併せると、よりいっそう興味深いものに映る。

 DVDには、小松宏という方による詳細な解説書が付いているので、この映画の成り立ちについて、詳しく知ることができる。
 それによるとムルナウは、「かつて生活を共にしたワルター(ママ)・シュピースが彼のもとを去って南洋の島に行って以来(中略)いつしか南海の島々を自分の船で探検するという夢を抱くようになっていた」とある。そしてムルナウは、帆船を購入し、それをバリ号と名付ける。これは、シュピースが暮らしていたのはバリ島で、彼はそこから「何通もの手紙をムルナウのもとに送ってきており、このいまだ見ぬ島はムルナウにとって憧れの場所になっていた」ことに起因している。
 やがてムルナウは、ドキュメンタリー作家のロバート・フラハティーと出会い、南太平洋を舞台に共同で『トゥリア』という映画を撮ることを計画する。そして様々な要因で企画変更を経た後、『トゥリア』ではなく『タブウ』という映画が完成する。そして、解説書に記載されている粗筋を読む限り、この『トゥリア』の内容は、文明批評的な要素のある悲恋ものではあるものの、『タブウ』のような禁忌としての愛や、その純粋な愛が、非文明にも文明にも阻害されるという構造は見あたらない。
 撮影のためにタヒチに赴くにあたって、ムルナウはフラハティーとは別行動で、一ヶ月先んじて、自らのバリ号で出発した。しかし「様々な港に寄港しながらタヒチに向かったため、彼がタヒチのパペーテに到着したのは、フラハティーに遅れること1ヶ月」だったとある。このとき、ムルナウがバリ島のシュピースのもとを訪れたかどうかは、残念ながらこの解説からは判らない。

 ここで、私がこの映画の成立背景を考えるにあたって、極めて重要だと思いつつも、しかし解説書にはそれに関する記載が一切ない、ある「事実」がある。
 それは、ムルナウ同様に、ヴァルター・シュピースもまた、同性愛者であったということだ。
 解説には「かつて生活を共にした」とあるが、シュピースはムルナウの恋人であった。そして、やがてムルナウの元からバリ島へと去るが、前述したようにその存在は、引き続きムルナウに影響を与え続ける。余談になるが、ちょっとコクトーとランボーを連想させる関係だ。
 西洋社会から南国の「楽園」へ逃れた、かつての恋人に影響され、自らも「楽園」への憧れを抱いた、同性愛者としてのムルナウ。そして、そのムルナウが、いざ自ら楽園に赴いて描き出した、純粋な愛がシステムによって禁忌とされ、文明からも非文明の楽園からも拒絶され、押しつぶされていくモノガタリ。
 つまり、この『タブウ』という映画は、制作過程や表現手法という点ではフラハティーの存在が大きいが、その起因と結果を見ると、内容的にはムルナウとシュピースという、同性愛者としての二人の関係を踏まえて、考察されるべき作品ではないかと思うのだ。
 こういった事情は、知る人には既に周知の事実なのかも知れない。また、これ以上の論考を進めるには、シュピースの伝記なり何なりを紐解く必要がありそうなので、考察はここで留めることにする。じっさい、ネットで検索してみると、『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』という書籍に、「影を共有した二人/同性愛者たちの夢の景色/孤独なムルナウの足跡と『夢の景色』の行方/ムルナウの失楽園/死してノスフェラトゥとなったムルナウ」という、興味深い章立てがあるのが見つかった。
 ただ、このDVDに付属した解説が、丁寧ではあるものの、同性愛的に関しては触れることなく、しかしそういった要素は暗示しているような、そんな、どこか奥歯に物が挟まったような物言いが多いのが気になった。
 それで、ここで自分なりに補完してみようと思った次第である。

 こういった、奥歯に物が挟まったような物言いは、解説の他の部分にも見られる。
 例えば、ムルナウの死に関する記述。
 ムルナウはこの『タブウ』の完成させた後、その公開を待たずして自動車事故で亡くなってしまうのだが、これに関して解説書では「ムルナウとフィリピン人の少年を乗せた」と書かれているのみで、そのフィリピン人の少年がムルナウのボーイフレンドであるとは明記されていない。もし、事故の際の同乗者が、監督の細君であったり、あるいは女性の恋人であったならば、こういう書き方はされるまい。はっきりと、「妻と」とか「恋人と」とか書かれるであろう。
 また、映画としての総論が述べられる部分も然りである。少々長くなるが、以下の引用をお読みいただきたい。

 ムルナウの作品には多くの場合彼の個人的な世界が反映されているように見える。彼の作品における愛の純粋性や孤独の価値といったものはその表れの事例とも看做されよう。そのような意味で見ると、『タブウ』はムルナウの最もパーソナルな映画といってよいかもしれない。(中略)ムルナウは理想郷だけでは満足しなかった。そこに彼は自分の宿命を投影した。まさにこの作品がムルナウの最もパーソナルな映画である理由はここにある。タブーに触れることが、避けられない宿命として語られる。(中略)ムルナウは(中略)この映画によって希望を求め(中略)自らを待ち受ける運命を予言した。『タブウ』はその意味で、ムルナウにとっては自己発見の映画であり、同時に自己否定の映画でもあった。(中略)映画が完成した時点で、これはフラハティーの世界とは極めて遠くはなれているムルナウの個人的な告白の映画になった。

 このように、この『タブウ』がムルナウのパーソナルな告白といった要素を持ち合わせていることに触れつつ、しかし、具体的にそれが何であるのかについては、一切触れることなく曖昧にぼかされた内容になっている。
 この結論部分に限らず、シュピースに関する記述同様に、この解説文中には、ムルナウが同性愛者であったという記述は一切ない。これは、ムルナウの他の作品ならいざ知らず、この『タブウ』のクリティカルな解説としては、余りに片手おちであるように、私には感じられる。
 また、それと同時に、同性愛という言葉を周到に避けながらも、しかし知っている人には判るような、この暗示めいた文章が生み出された、その由縁が気になる。これは、ある種の「配慮」によるものなのだろうか。だとしたら、この解説文の内容を批判する気はないが、しかし、そういった「配慮」をすること自体が、同性愛に対して差別的なのだという指摘はしておきたい。理由はどうあれ、その根底には、同性愛とは隠匿すべきものだという思想が隠れているのだから。
 そして、私にとって最大の悲しむべきことは、ムルナウが自らの『タブウ』に踏み込んで描いたこの映画のテーマが、21世紀の現代日本においても、いまだに「タブー」のように扱われているという、シンプルにして恥ずべき事実だった。これは、この映画を撮ったムルナウの精神そのものにも反しているだろう。

 前述したように、ムルナウはこの映画の公開を待つことなく、自動車事故によって夭逝した。それから7年後、シュピースは「同性愛の罪」によって逮捕される。そして釈放と再逮捕を経て、1942年、船によって身柄を移送中に、日本軍の爆撃を受けて死亡した。このように『タブウ』は、同性愛者の表現者による最後の作品が、作家の人生における同性愛者としての側面と、不思議な符帳を見せているという点で、パゾリーニの『ソドムの市』やファスビンダーの『ケレル』と似たものを感じさせる。
 またこの作品を、上に述べてきたような同性愛的な視点で読み解いていくと、映画のクライマックス、泳いで、泳いで、泳ぎまくる青年の姿に、同性愛者としてのムルナウの姿が重なって浮かびあがり、その結末には涙を禁じ得ないだろう。

『タブウ』は、同性愛の映画ではない。
 しかし、同性愛者ならば必見の映画である。
『タブウ』DVD(amazon.co.jp)

パリ絡み2本

 パリ絡みで、一つ新情報です。
 ゲイ雑誌でもお馴染みの、画家の奥津直道さんからお知らせをいただいたんですが、直道さんが所属していらっしゃるヴァニラ画廊の作家21人を集めた展覧会「現代日本のエロティックアート展」(Japon Erotica – la nouvelle generation)が、パリ市内にあるエロティック・ミュージアム(Musee de L’erotisme)で開催中だそうです。
 直道さんも数点作品を出展なさっているとのことなので、渡仏のご予定がある方は、ぜひ足をお運びになってください。
エロティック・ミュージアムのサイト
展示詳細(ヴァニラ画廊のサイト)
 因みに、期間が2008年4月3日〜10月16日と長期なので、夏休みの旅行とかでも充分間に合いますよ。
 お次に、私の個展絡みの近況。
 個展で販売される『七人の侍』のプリントセットには、制作コンセプト、七曜や陰陽五行の解説、各作品の解題などを記した、解説文書が同梱される予定です。
 で、だいぶ前に、それを苦労して下手な英語で書いて(約2000ワードの文章を書くのに、丸々三日かかった……)、「これを元に仏訳を作ってね」とメールで送っていたんですが、今になってオリヴィエ(ギャラリー・オーナー)が、「このまま英文で使う」とか言ってきたもんだから、もうビックラギョーテン。
 え〜い、あんなブロークンな英語を使われてたまるか、恥ずかしい! とゆーわけで、慌てて普段から懇意にしているアメリカ人のファンの方に、マトモな英語にトリートメントしてくれないかと打診。快く引き受けてくれて、翌日には早くも修正版が届きました。
 で、それをフランスに送って、ようやく一安心。
 因みに、どんなもんかといいますと、例えばこれが私が書いたブロークン・イングリッシュ版からの抜粋。
3) 水 Wednesday (Water)
In Japanese folk tales, there are many fascinating specters. This Kappa who lives in water is most popular one. A lot of Japanese artist loved to draw this little creature. For example, Ogawa Usen (Japanese-style painter), Shimizu Kon (cartoonist) and Mizuki Shigeru (comic artist). And if you like Japanese animations, you may have heard about Hara Keichi’s wonderful film “Summer Days with Coo” what was made in 2007.
Kappa likes to eat cucumbers, and likes to to do Sumo wrestling with a human being. But most interesting thing for me, Kappa likes to push his arm into men’s asshole, to take men’s “Shirikodama”. What is Shirikodama? It is a imaginary organ, and is believed that there is inside a male’s asshole. And the folk tale told that, when a man who is taken his Shirikodama by Kappa, must lose his power and his manliness.
This legend is looks like an allegory of “a man who was anal raped”. And thinking that, this little creature was already enjoying fist fucking, since the age of the fairytale, is very amusing for me.
 で、こっちが彼が修正してくれたバージョン。
3) 水 Wednesday (Water)
In Japanese folk tales, there are many interesting spirits. Kappa, who lives in water, is an especially popular one. Many Japanese artists have depicted this little creature, among them, Ogawa Usen (a Japanese-style painter), Shimizu Kon (a cartoonist) and Mizuki Shigeru (a comic artist). Devotees of Japanese animated cartoons, may have heard about Hara Keichi’s wonderful film “Summer Days with Coo,” made in 2007.
Kappa likes to eat cucumbers, and likes to engage in Sumo wrestling with human beings. But the most interesting thing for me is that Kappa likes to insert his arm into a man’s anus, to steal his shirikodama. What is shirikodama? It is an imaginary organ, believed to be inside a male’s rectum. According to the folk tale, when a man’s shirikodama has been stolen by Kappa, he loses his power and his manliness.
This legend is an obvious symbol for anal rape; but I also delight in thinking that the little creature enjoyed fist-fucking, way back in the age of fairytales!
 流石、ラストの一文なんか、とても自然な感じになっている……って、当たり前だけど(笑)。
 更にこの彼、友人の学者さんに頼んで、仏語訳も頼んでみてくれるとのこと。個展に間に合うかどうかは微妙ですが、いやありがたいことです。
 先日の記事では、ギャラリーのサイトがまだ更新されていなかったので、キャラリーオーナーのMySpaceの方にリンクを貼りましたが、遅ればせながら、本家にもようやく情報が掲載されました。とゆーわけで、リンクも改めて張り直し。
ArtMenParis Gallery
 こちらは5月5日から6月26日まで。この期間中にパリに行かれる方は、ぜひ直道さんと私と二つハシゴしてご覧くださいませ。

フランスで二回目の個展をします

carte 1taga
 フランスはパリのArtMenParisギャラリーで、5月5日から6月26日まで個展をします。
 内容は、これまでも何度かお伝えしてきた、この個展用に描きおろした連作『七人の侍』の限定プリントをメインに、過去のドローイングも一緒に数点展示して販売します。オープニング・パーティは5月5日の18時から23時まで。
 残念ながら、私は今回は渡仏しませんが、フランスおよび近郊のヨーロッパ諸国ににお住まいの方、よろしかったらお出かけくださいませ。
・詳細はこちら。(ギャラリー・オーナーのMySpaceページ)

 でもって、それに併せて直前にクラブ・イベントもあるようで。前回の渡仏時に私も遊びに行った、"Yes Sir!"という野郎&ベア系のゲイ・ナイトです。
 で、これがそのフライヤーなんですが……う〜ん、個展のフライヤーより、こっちの方がカッコイイぞ(笑)。
yes_sir2008
 このパーティーは、音も雰囲気も好みだったので、行けないのが残念。誰か代わりに行って、どんな感じだったか教えてください(笑)。5月3日です。
・詳細はこちら。(イベントのMySpaceページ)

『七人の侍』プリント到着

seven_samurai_all
 前にここで書いた、フランスのギャラリーの依頼で制作した連作『七人の侍』。先日、エスタンプ(プリント)が送られてきました。
 左の画像が、それ。「侍之壱 月」以外が白っちゃけているのは、保護用の包みをまだ剥がしていないせい。やっぱ、中身を出してから撮影したほうが良かったかな(笑)。
 さて、これからこれに、一枚一枚サインとエディション・ナンバーを書き込んで、それをフランスに返送することになります。エディション数は七枚セットの限定七部、それプラス、A.E.(アーティスト用の控え)が、作者である私と、ギャラリーと、プリンター用に、それぞれ一部ずつ。
 五月からパリのギャラリーで、私の他の原画数点と一緒に、展示販売される予定です。