装甲騎兵ボトムズ DVD BOX

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TVアニメのDVD BOXは、かさばるし、そうそう見る時間もないから、極力買わないようにしているんだが、でも、これだけは出たら絶対に買う! と手ぐすね引いて待っていた『装甲騎兵ボトムズ』のBOXセットが、来年二月ついに発売!

……と、発売ニュースを聞いた瞬間は大喜びしたんですよ。
でも…でも…!
定価¥105,000って……。
ネットショップの割引き使っても、それでも8万円超えるじゃん……。しかもOVAもセットって、うーん、欲しいのはTV放映分だけなんだが。あくまでもボトムズの「ファン」で、「マニア」とまではいかない私にとっては、特典etc.にもあんまり心が動かないし、やはりこの値段はちょっと痛い。
ど〜しよ〜かなぁ……たぶん涙をのんで見送りだなぁ。
しくしく。
あ、画像はDVD BOXとは関係ありません。前に友だちに貰ったちっちゃいプラモです。高さ7センチくらいなんだけど、ヘッドを外すとちゃんと中にキリコが座ってるの(笑)。

ロード・オブ・ザ・リング・コンサート

 映画のサントラを、作曲者ハワード・ショア自らが交響組曲に編曲し、その生演奏+バックスクリーンにアラン・リーやジョン・ハウによる映画の美術スケッチを上映するというコンサート。
 会場は東京国際フォーラムAホールで、私は2日目の31日に行ってきました。
 以下、個人的な感想をいくつか。
 演奏に関しては、アンサンブルの厚みはたっぷりあり、アップテンポでぐいぐい聞かせるところなどは、楽曲の良さも手伝ってなかなかの迫力だったが、正確さやタイトさには若干欠ける印象。ただし、第一ヴァイオリン(女性)が兼任していたフィドル(かな?)や、フルート(アイリッシュ・フルートだったのかな?)などのソロは、なかなか良かったと思う。
 またコーラス全般は、発音の悪さはさっ引いても、音程や声量など、全体的にかなり不満が残る出来。ソロの歌唱に関しても、『旅の仲間』のガンダルフへのラメント(映画サントラではエリザベス・フレイザーが歌っていた)を歌った女性と、”In Dreams”を歌ったボーイ・ソプラノは、共に決して上出来とは言えないだろう。特に後者は、ある意味『旅の仲間』一番の聞かせどころでもあるがゆえに、ああいった高音になるといかにも苦しげになるような歌唱では、どうしても興を削がれてしまう。
 一方、後半の『二つの塔』『王の帰還』になると、歌唱のソロ・パートをシセル(ノルウェーの歌手。リルハンメル・オリンピックの公式テーマ曲や、映画『タイタニック』のサントラへの参加などで知られる)一人でほぼ全てこなすので、これはさすがに堂々たる歌いっぷり。私は上記以外できちんと聴いた彼女の歌は、まだシセル・シルシェブー名義だった頃のアルバム『心のままに』くらいだが、透明な美声を生かして伸びやかでクセのない歌唱をする歌手という印象だった。しかしこのコンサートでは、オリジナルではボーイ・ソプラノのベン・デル・マエストロ、元モンスーンでインド系英国人のシーラ・チャンドラ、ちょっとビョークに似た味わいのあるエミリアナ・トリーニ、元ユーリズミックスでホワイト・ソウルの名手アニー・レノックスといった、それぞれ声のタイプも歌い方も全く異なる歌い手たちによる曲を、シセル一人で巧みに歌唱法を使い分けながら歌いこなしており、それも決して単なるエピゴーネンにはならずに、聴き所によっては元歌を越える魅力も引き出しているあたり、改めてその実力に感心してしまった。特に”Gollum’s Song”と”Into The West”の二曲は、共にシングル盤を発売して欲しいほどの聴き応え。これだけ良いものを聴かされると、前半の『旅の仲間』でもシセルがソリストだったら……と、改めて残念に思えてしまう。
 バックスクリーンの映像に関しては、無彩色で紙白が多くコントラストも少ない鉛筆デッサンは、そもそもスクリーン映写には不向きだし、加えて、楽器演奏者がいるために舞台を暗くはできず、結果としてどうしても映像が白っちゃけてしまうし、思いの外スクリーンのサイズが小さいこともあって、残念ながらさほど効果はなかったように感じた。
 楽曲そのものは、映画やサントラでお馴染みのものをほとんどいじらずに、物語りの時系列そのままにダイジェストしてつなげていったという印象。よって、物語を説明するための交響組曲としてはしごくまっとうであり、それを聴くことによって映画で描かれた『指輪物語』の世界を追体験できるという意味でも、ファンならば十分以上に楽しめる内容だったように思う。こうやって映画のサントラの「いいとこどり」したものを生オケで聴くというのは、そうそうない機会であろうから、そういう点でも嬉しいファンサービスだったと思う。
 ただ、主題の変奏や展開を楽しむといった独立した「音楽そのもの」の魅力には、正直なところ若干欠ける印象だ。同様に映画のサントラを演奏会用の楽曲に書き直したものでも、マイケル・ナイマンの『ピアノ協奏曲』や伊福部昭の『交響頌偈(じゅげ)・釈迦』といった、元となる映画を離れた独立した楽曲としても聴き応えのあるものと比較してしまうと、この作品はあくまでもサントラという枠をはみ出すことがないので、どうしても独立した楽曲としては弱い印象がある。
 ただこれは良し悪しではなく、単純に作品の目指しているベクトルそのものが違うということだろう。実際、私自身も楽曲を聴きながら、幾度となく映画のシーンを思い出しては涙腺がゆるんだし、時には映画の追体験という要素を越える感動もあった。例えば、映画で使われていたときから既に音楽の力を存分に見せつけてくれていたパート、『二つの塔』のアイゼンガルドの洪水や、『王の帰還』のゴンドールの烽火のシーンの楽曲などは、生のオーケストラの迫力で聴いて、改めて高揚感に溢れた素晴らしいチューンだと思った。
 まあ総合的には、細かな不満は幾つかあるものの、それでも素晴らしい部分も負けず劣らず沢山あったし、『王の帰還』のアラゴルンの歌を男声バリトンで聴けたのが嬉しかったとか(あ、いや、別にヴィゴ・モーテンセンの歌に不満があるわけじゃないですが)、『二つの塔』のエントのモチーフなんかはサントラで聴いてたときよりも印象深かったとか、『旅の仲間』の”The Ring Goes South”はSEEバージョンを元にしてるな〜なんてサントラとの比較ができたとか、”May It Be”は意地でも入れないんかい! なんて勘ぐったりとか(笑)、細かなお楽しみもテンコモリだったので、やはり聴きに行って良かったです。あと、「この映画と一緒に過ごしたこの三年間は、ホントに楽しかったな〜」なんて、妙にしみじみしちゃったり(笑)。
 最後に一つ。
 プログラムを買う気満々で、それを入れる用に大きめのカバンまで持っていったのに、あっという間に売り切れで買えなかった。
 ……し、しどい。もうちょっと部数用意しといてくれっ!!

『リディック』

『リディック』デヴィッド・トゥーヒー
“The Chronicles Of Riddick” David Twohy
 レコ屋で貰った販促用のDVDを見て、凝りまくった美術にビックリ。加えて、監督さんの「……オカマ?」ってカンジの所作にも惹かれるものが(笑)。
 ってなわけで、あわてて前作『ピッチ・ブラック』を借りて見て(小粒ながら、SFものとしてはアイデアを上手く使っていて、いいカンジの佳品でした。あと、ヴィン・ディーゼルの目隠し&猿轡のボンデージ姿がエロい!)予習してから、いざ劇場に。
 お目当てだった美術面は、宇宙船や建造物のゴシック的な壮麗さといい、巨大な人面やエンド・クレジットにも出てくる彫像類の造形といい、ちょっとした取っ手やら小道具やらのデザインといい、マクロからほんの些細な細部にいたるまで、もうひたすら凝りまくっていて大満足。スケール感もタップリで、こういった「異世界の構築」に関しては、昨今のCGIの発達は、本当に目覚ましい貢献をしているなぁ〜と再確認。
 お話しとしては、次から次へと色んなものを、あの手この手で見せてくれるんで、退屈はしないんだけど、ちょ〜っとまとまりに欠けるかな? 凄まじいヴィジュアル・パワーに圧倒されつつも、ドラマ的に一番引き込まれたのは「夜明けまでに宇宙船の格納庫までたどり着けるか?」という部分だというのが、この映画の特徴を如実に表しているような気が。一つ一つのエピソードは面白いんだけど、それがリンクしてストーリーを構築していくという点が弱い印象。あ、でもラストの落とし方は好きです。
 個人的な好みから言うと、どうせならもっともっと大風呂敷拡げて、ハッタリもガンガン効かせて、ナニガナンダカワカンナイくらいのレベルまでいっちゃって欲しかったけど、でもまあ、これだけの美術を見せてくれたという点だけでも、私的には大いに満足。
 あと、ヴィン・ディーゼル君。ガタイの良さはもちろんですが、何となく愛嬌があるから好き。ただ、劇中で着ている黒のタンクトップは、もうちょい背中のくりを深くして欲しかった(笑)。

『シュレック2』

『シュレック2』アンドリュー・アダムソン、ケリー・アズベリー、コンラッド・ヴァーノン
“Shrek 2” Andrew Adamson, Kelly Asbury & Conrad Vernon
 前作が大好きだったんで、すっごい楽しみにしてました。
「あのキャラたちにまた会える!」ってのはシリーズものの大きな楽しみの一つだけど、これはそれに加えて「長靴をはいた猫」なんつー強力極まりない新キャラが。この猫、キャラ立ちまくりで、もう無敵。スピン・オフで番外編作って欲しいくらい。
 内容も、前作同様たっぷり笑わせてもらいました。ただ、個人的には笑えたんだけど、いかんせん笑いの多くがパロディーなので、前作に見られたような汎的なユーモアは後退。毒も薄れ気味で、ブラックな笑いがあまりなかったのも、ちょっと残念。物語的な求心力も、少し弱いかな?
 しかし「お伽噺」というものが内包する偽善的な部分にメスを入れつつ、同時にそれを単なる批判やパロディだけには終わらせず、最終的には「お伽噺」の本質と合致したところに落とし込むという、物語としてのアクロバティックさは今回も健在。とかく物事をひっくり返して考えたり、斜に構えて見るクセが抜けない「オカマ心」の持ち主にとっては、前作同様やはり最良の娯楽作でした。
 あと、相変わらず画面が美しいなぁ。3DCGなのに、あくまでも「絵が動いている」的な美しさを外さないのは高ポイント。色彩設計が見事です。こーゆー画面作りを見せられると、今度の『ナルニア』がますます楽しみになってくるぞ。
 頑張ってくれ、アンドリュー・アダムソン!

Craig Armstrong “Piano Works”

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『ピアノ・ワークス』クレイグ・アームストロング
“Piano Works” Craig Armstrong
輸入盤CD
マッシヴ・アタック、ビョークなどとのコラボレーションや、映画『ロミオ+ジュリエット』『ムーランルージュ』などのサントラで知られるコンポーザーの三枚目のソロ・アルバム。
1st “Space Between Us”、2nd ” As If To Nothing”では、メランコリックかつ重厚なストリングスや、エリザベス・フレイザーやボノをゲストに迎えた歌モノが印象的だったけど、今回の3rdはメランコリックな味わいはそのままに、全曲ピアノ・ソロを主体に微かに音飾が加わったインストゥルメンタルという、よりシンプルな内容なので、以前のちょっと勿体ぶったような大仰さ(そんなトコロも魅力だったんだけど)は、だいぶ薄れた感じ。
が、これはこれで実に美しいし、アンビエント的に聴きやすくもあるので、これからの季節、秋の夜長にはなかなか重宝しそうです。収録曲がもっぱら自作曲のセルフカバーなので、従来のバージョンと聴き比べる楽しみもあるし。
叙情的でキレイなピアノ・ソロが好きな方、例えばジョージ・ウィンストンやウィム・メルテンやアルトゥーロ・スタルテリなどのピアノ・アルバムが好きな方、オススメですぞ。

『ワイヤー・イン・ザ・ブラッド』

ワイヤー・イン・ザ・ブラッド DVD-BOX 『ワイヤー・イン・ザ・ブラッド』アンドリュー・グリーヴ
“Wire In The Blood” Andrew Grieve

 レンタルDVDで鑑賞。

 まず、素っ裸の男が磔刑に処せられているような、血みどろホラー系のジャケがイカしてます。
 加えて内容はサイコ・サスペンスもので、描かれる事件は「残酷な拷問を受けて殺された、全裸死体が次々と発見された。しかも犠牲者はいずれも30歳前後の壮健な男性」とくれば、こりゃあ私としては見るっきゃないってカンジでしょ? 実際、ソッチ系で趣味を同じくするジープロのろん君からも「見ました〜?」って聞かれたし(笑)。
 とはいえ、実はこれは劇場用映画ではなくイギリス製のTVシリーズなので、当然のごとく、それほど過激な描写はございません。イカしたジャケも「イメージ写真」の類らしく、本編にそういうシーンはない。ホラー味・スプラッタ味は皆無で、そういった描写そのものは、このテの映画の嚆矢である『羊たちの沈黙』なんかと比べてもずっと大人しいんで、心臓の弱い方でも安心してご覧いただけます。

 お話しの大筋は「心理学専門の男性教授が、女性警察官に協力して、連続猟奇殺人の犯人をプロファイリングしていく」という「どっかで聞いたような話」ではありますが、それなりに途中で飽きさせることもなく無難に引っ張っていきます。TVシリーズ的にキャラを立てるためか、何かとゴチャゴチャと枝葉が多いのは、まあ楽しくもあり、時に鬱陶しくもあり。

 では、お目当ての拷問マニア向けの鑑賞ポイントをば。
 前述したように比較的大人しめのTVモノなんで、拷問マニアが一番「見たい!」と思うようなそのものズバリのシーンは、ぶっちゃけたところありません。ただ、それでも要所要所で、それなりに「好き者のツボ」も押さえてくれます。
 一番グッときたのは、「犯人が警察にビデオを送りつけ、それには誘拐された警察官(いちおうジム通いもしていて体格も良く、笑顔もカワイイ人好きのする好青年)が、カメラに向かって泣きながら自己紹介した後に惨殺される光景が映っていた」というヤツ。この無惨味・残酷味は、なかなか良ろしい。
 犯人が、「座部のない椅子の下部に、金属の円錐に有刺鉄線を巻き付けたものを取り付け、それで肛門を串刺しにする」ような拷問器具を手作りしているディテールとか、「気を失った男の服をハサミで切り裂き、全裸にした後、手足に拷問用の枷などを順々に装着していく」といったプロセスの描写があったりするのも良い。これ、拷問マニア的にはけっこう重要。自分のマンガでもそうなんですけど、こういった「拷問の準備段階の描写」が、一コマでもいいからあるのとないのとでは印象が大違い。
 クライマックスの「全裸男性への古典的な吊り責め」シーンが長めなのも、ポイント高し。加えて受刑者の胸のおケケがフッサフサなので、個人的なポイントはさらに倍。
 ってなわけで、直截的な描写はほとんどないにも関わらず、それでも拷問マニアを自認していらっしゃる方でしたら、意外に楽しめると思いますよ。具体的に「見せる」シーンは少なくても、セリフでどういう拷問をされたか(謎の器具で無数の火傷を負わされていたとか、関節が外れていたとか、性器が切り取られていたとか)説明はしてくれるので、あとは脳内で補完しましょう。過度な期待は禁物ですが、レンタルで借りるぶんには、充分にオススメです。

 ついでに、ゲイ的にマジメに気になった部分についても書いておきます。
 概してサイコ・サスペンスものって、とかくゲイやら性同一性障害やらが絡んでくるものが多い。で、自分たち(の仲間)が「ヘンタイの殺人鬼」みたいに描かれることに、いい加減に辟易しているゲイたちが、抗議したり批判することも珍しくない。そのこと自体に関しては、複雑だし長くなるのでここでは触れませんが、とりあえず、この作品もその例外ではない。やはりセクシュアリティの話が幾つか絡んでくる。
 ただ、ちょっと興味深かったのは、そういった問題に関して、制作者側もおそらく注意深く取り扱っているらしき節が伺えることです。

 例えばセリフに出てくる「同性愛者」を指す言葉が、ケース・バイ・ケースで「ゲイ」「ホモセクシュアル」「クィア」などと使い分けられている。で、「クィアの殺人事件」と言った若い刑事に対して、主人公の学者が「差別的だ」とたしなめたり、同じ主人公のセリフで「トランスジェンダーだ、トランスベスタイトじゃない。これは重要だ」なんてのがあったりする。
 しかし残念ながらそういったニュアンスは、日本語字幕では全くといっていいほど拾われていない。「ゲイ」も「ホモセクシュアル」も「クィア」も、字幕では全て「ゲイ」一つに統一されてしまい、「トランスジェンダー云々」というセリフも、字幕では「トランスベスタイトじゃない、これは重要だ」に該当する部分がスッポリ抜け落ちている。
 後者に関しては、まあ字幕の限界もあって仕方ないことだとも思いますが(けっこう早口のシーンでしたし)、前者に関しては、ちょっと考えるべき余地が残されているような気がします。

 まあ、下手に「オカマ」とかいう言葉を使うと、それはそれでまた、その言葉を使用すること自体が差別的であるといった批判が出てくる可能性があります。とりあえず全て「ゲイ」にしておけば、差別云々といった問題は起こりにくいので、無難な選択ではあるでしょう。これもまた一種の配慮が働いた結果であるともいえます。
 ただ、この場合の「蔑称としての『クィア』を使った人間に対して、『差別的だ』と批判が出る」シーンで、「クィア」の訳語を「ゲイ」にしてしまうと、それを受ける「差別的だ」という反応の意味が通らなくなってしまう。やはりここは訳語も「オカマ」か何かにして欲しかった。言葉が使われ方次第でネガティブにもポジティブにもなるという点でも、「クィア」と「オカマ」は良く似ていますしね。
 言葉の差別的な用法の一例をきっちり描けば、少なくともそれによって、観客が言葉と差別の関係性を学んだり、差別的だとされる言葉の使用法について考える手助けになる。しかし、いわゆる「放送禁止用語」のように、差別的だとされる用語の使用自体を完全に禁止してしまうと、そういった学習の機会は永遠に訪れない。それどころか、それはまるでこの世界にそういった差別が存在していないように見せかけているだけであり、ある意味では表面だけを取り繕った一種の欺瞞ともいえます。同じ「デリケートな素材を取り扱うに際しての配慮」として考えると、この二つのもたらす結果の違いはかなり残念です。
 もちろん「ゲイにとって侮蔑的な言葉」を「ゲイを指す一般名詞」としては「使わない」という配慮は、それは充分に歓迎するところではあります。しかし「ゲイにとって侮蔑的な言葉」を「絶対に使わない」もしくは「使ない」という配慮(もどき)によって、ゲイが侮蔑されているシーンを表現することすらもできなくなってしまっては、これはやはり本末転倒だと言わざるをえないでしょう。

エロの考古学 in 伏見憲明Blog

 伏見憲明さんのBlogで御自身が所有しているヴィンテージ・ゲイ・エロティック・アートを、「エロの考古学」というタイトルで幾つか展示してくださいました。
 絵も写真もあるのですが、その中でも2点ある「髷もの写真」に、希少性・作品としての力強さ・時代背景といった点で、特に目を奪われました。
 興味深いのは、この写真はメイクアップなどから推察すると、時代劇全般を指す「髷もの」の中でも、特に大衆演劇へのフェティシズムに依るものではないかと思われることです。
 時代ものに対するファンタジーは、数こそ少なくなったものの、それでも現代でも僅かながら見ることができます。しかし、こうした大衆演劇に対するファンタジーは、ほとんど全くといっていいほどお目にかかれません。
 ところが、実は昭和30年代の『風俗奇譚』などを読んでいると、大衆演劇に関して、自分の性の芽生えはそれであるといった手記や、どういった性的刺激を受けたかという話、フェティッシュな思い入れを綴った手記、自らそういった扮装をして楽しんでいるという話などが、少なからずあるんですよ。
 そこで、改めて分析的に考えてみると、実のところ大衆演劇の中には、ゲイたちを惹きつけてしかるべき、いくつかの特徴があるように思われます。
 一つに、立ち回りの際にちらりと除く褌や、啖呵をきる際の諸肌脱ぎといった、純粋に視覚的な性的刺激。
 二つめに、渡世や義兄弟といったものが内包している、ホモソーシャルなファンタジー。
 三つめに、女形のようなトランスベスタイト、トランスジェンダー的なファンタジー。
 これは更に「女形=実際は男性」なので、「舞台の上の男女=実際は男同士」となり、「芝居の上では男女の性愛=現実に見ているのは男同士の性愛」という具合に、ちょっとメタフィクションめいた構造を経て、結果として、そこでは男同士の性愛が「正当化」されているような、そんなイメージを併せもっていた可能性もあります。
 四つめに、捕り物などにおける、サディスティック/マゾヒスティックな刺激。
 五つめに、実はこれはかなり大きい要素ではないかと個人的には推察しているのですが、上に挙げたような諸々のことが、最終的には芝居という「美しい」ものとして提示されるということ。
 この「美しさ」は、当時の多くのゲイたちが抱えていた、ホモフォビアとセックスフォビアが合体してしまった深い自己嫌悪、すなわち「同性に欲情する自分=変態=きたならしい存在」という悩みを、ある程度は解消してくれた可能性があります。
 こういった形による自己受容、つまり、現実の自分そのものを受け入れるというよりは、自分をフィクションに仮託する、自分自身をフィクション化することで自己受容するというのは、なにもこの大衆演劇フェチに限ってことではありません。
 例えば、古代ギリシャや江戸時代以前の日本に例を求めて歴史的な安心感を得たり、世紀末ヨーロッパ文化などの「異端の美学」に範をとったり、欧米のオーバーグラウンド化した「かっこいい」ゲイ・カルチャーを求めたり、こういったことは手を変え品を変えして、綿々とゲイの中で繰り返されているように思えます。
 つまり、それだけゲイは、己の存在の正当性へのエクスキューズを求めてきたということであり、大衆演劇にもそれを満たす側面があるということが、前述した「大きな要素」という推察につながります。
 以上のような前提を踏まえ、当時の人々にとっての娯楽としての大衆演劇の身近さや、更に範囲を髷もの全般に拡げて、小説、挿絵、映画などで時代物に触れる頻度なども併せて考えると、ひょっとすると、この頃のゲイたちの中では、髷ものフェチ全般はもちろんのこと、大衆演劇フェチもそれほど珍しいものではなかったのかも知れません。
 だとすれば、この二葉の写真は、現代では絶滅してしまった、過去のフェティシズムの遺産なわけです。これこそまさに考古学。
 まあ、そういったことを抜きにしても、この写真は実に素晴らしいです。
 ここには、最良のエロティック・アートならではの、個々のテイストを突き抜けた普遍性がある。例え自分自身はチンピクしなくても、脳髄はしっかり勃起させられます。
 この純粋さと力強さ。一種の畏怖のような感動を覚えます。
 伏見さん、自分は飽きっぽいなんて言わないで、ぜひこれからも続けてください。

『ザ・ヒル』

ザ・ヒル [DVD] 『ザ・ヒル』デヴィッド・デコトー
“Leeches!” David DeCoteau

 レンタルDVDで鑑賞
 え〜、下心バリバリで借りました。っつーのも、何でも裸のイケメンマッチョが大勢出てきて、そいつらがバタバタ殺されてく映画だっつーし、IMDbでもallchinema Onlineでも「ホモ大喜び」みたいなユーザーズ・コメントが登録されてるし、「やだ、ひょっとして野郎版ジャーロ? 憧れの野郎系スラッシャー?」なんてワクワクしちゃいまして。
 んでもって再生。タイトル・デザインはクラシックB級SFみたいなグニャグニャのクリーピー系で、ちょっといい感じ。
 そして早速、競泳ビキニ一丁のイケメンが。カメラがスローモーションで、その肉体美を舐めるように追いかける。……どこのゲイビデオですか?
 ストーリーは、大会目指して特訓中のカレッジの水泳部部員が、次々に巨大化したモンスター・ヒルに襲われて、その餌食になっていく…というもの。あとはそれにちょっと殺人事件やドーピングが絡んだり、馬鹿馬鹿しい青春映画チックな乱痴気騒ぎがあったり。
 まあ、低予算なのには目を瞑りましょう。モンスター・ヒルはどう見ても、ゴム製のスリッパかナベツカミに、人が手を突っ込んでウネウネ動かしてるだけだし、床を這うときは露骨にテグスで引っ張ってるし、身体に吸い付いた小型のヒルは、身動きひとつせずにブラ〜ンとぶら下がってるだけだし、まあローテクと言ったらローテクに失礼なんじゃないかっつーくらい、果てしなく底なしに安い。
 で、お目当てのイケメンマッチョの方はというと、これはまあ惜しげなく出てきます。しかも、ほとんど服を着ない。まあ、水泳部だからってのもあるんですが、プール以外でも何のかんのでとにかく脱ぐ。ただ、全員イケメン揃いってのもクセモノでして、とにかくみんな似たタイプなもんだから、誰が誰やら区別が付かない。どーゆーイケメン・マッチョが出てるのかというのは、まあこちらの公式サイトのギャラリーをご覧あれ。……えー、もう一度。どこのゲイビデオですか?
 というわけで、こいつらがゴム製のスリッパに襲われて次々とくたばっていくんですが、はっきり言ってスリルもサスペンスも全くない。当然のことながら、恐怖感も皆無。シャワーを浴びたりプールに浸かったりする裸のイケメン相手に、カメラが動いたりスローモーションになったりしても、それはスリルやサスペンスの演出とは全く無関係。安手のイメージビデオよろしく、イケメンの筋肉美を撮すだけ。
 ……とすると、いささか変態ちっくで面白いかとも思われるけど、残念ながら変態性は「ホモっぽい」だけに留まっていて、それ以上のものは何も無し。襲われるシーンも、派手な音楽が鳴り響いて、色照明の中でアタマを振るイケメンのクローズアップばっかりで、工夫のないことはなはだしい。シャワー室で昏倒したイケメンの口に、件の巨大ヒルが潜り込む……なんてシーンは、ちょいと変態ちっくで期待させられるんですが、それだけ。(だいたい、何でヒルのくせに口に入るんだ???)まあ、撮影の裏側を想像すると、裸のイケメンにスタッフの男たちが群がり、「ヒル手袋」をはめた手で凌辱している……と考えられないわけでもないので、そこんとこは変態っぽいっちゃあ変態っぽいけど。
 まあ、こんな具合で、ハラハラドキドキも全くせず、緊張感も微塵もないまま、ダラダラと話が進んでクライマックスへ。ヒルが巨大化した理由が告げられるアタリは、もう突っ込む気力も起きずに乾いた笑いが。ラストのどんでん返しも「ふ〜ん、さいですか」だけ。やれやれ。
 なんかな〜、襲われるのが裸の男ばっかりなんつーホラー映画は稀少なんだから、もうちょっと何とかして欲しかった。これで『マニアック・コップ』や『エルム街の悪夢2』ばりの、ステキな惨殺シーンがあれば、もう大絶賛しちゃうし、DVDだって即購入しちゃうんだが……残念。
 こうして私のよこしまな期待は、シュウ〜と音を立てて萎んでいきましたとさ。
 でも、感想を書いていたら、何だかもう一回見たくなってきた……(笑)。

『慕情』サントラ

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『慕情/オリジナル・サウンド・トラック』アルフレッド・ニューマン
“Love Is A Many Splendored Thing (OST)” Alfred Newman
輸入盤CD
主題歌は既にスタンダード・ナンバーになっている『慕情』ですが、レコ屋のPOPに「実は過去レコードになったことがなく、今回が初」とあって、ビックリです。ホント?
まあ、有名な主題歌はもちろん良いのですが(それでも当時は、プッチーニの『ある晴れた日に』の盗作じゃないかなんて話も出たと聞いたことがありますが)、何といっても香港を舞台にした映画ですんで、いかにもらしげなエキゾ風味が全編に漂っていて、加えてちょっとラウンジなムードもあったりして、マーティン・デニーとかレス・バクスターとかが大好きな私としては、思わずニヤニヤ頬がゆるみっぱなしです。4トラック目の”The Moon Festival”とか、9トラック目の”Chung King”とか、17トラック目の”The Fortune Teller”なんて、まんまエキゾチカ。かと思えば、ロマンチックなチューンは流麗なストリングスで、これまたこのうえなく甘美に盛り上げてくれて、いやぁ、満足、満足。聴いてると、ちょっと悲恋がしたくなります。(ウソ)
ただ一つ難点が。値段が高い。確か3500円くらいした。
…まあ、2000枚プレスの限定盤じゃあ、しかたないか。

ジャン・ジュネ『愛の唄』

chantdamour
『愛の唄』ジャン・ジュネ
“Un Chant d’amour” Jean Genet
イギリス盤DVD(Region 2 / PAL / スタンダード)
デジタル・リマスターされた画質は極めて鮮明。少なくとも、以前持っていた輸入VHSよりは遙かに良い。
元々はサイレントだが、このDVDにはデレク・ジャーマン映画でお馴染みの、サイモン・フィッシャー・ターナーによる新スコアを収録。これはゲイ映画ファンには嬉しいプレゼントかも。
ただし、近年のターナーの音楽自体からは、かつてジャーマンの『カラヴァッジオ』『ラスト・オブ・イングランド』『ガーデン』あたりで聴かせてくれたような天才的な煌めきは感じられず、残念ながら今回のスコアもまたその例外ではなかった。ただまあ、特に光るものがなくても、別に耳障りなものでもないし、それでも嫌なら音を消せばいいだけのことなので、オマケとしてはやはり嬉しいコンビネーション。
オーディオ・コメンタリーはジェーン・ジャイルズとリチャード・クウィートニオースキー。前者はジュネに関する本を書いている作家らしいが、浅学のため私は良く知らず。後者はジョン・ハート主演のゲイ映画『ラブ&デス』の監督兼脚本の人。
ついでにもうひとつ、『美しい部屋は空っぽ』や『ジュネ伝』のイギリス人ゲイ作家エドマンド・ホワイトが、パッケージの推薦文を書いてます。
さて、この映画は、ゲイ映画の古典にして、現代でも色褪せることのない名作です。
ここで描かれる牢獄の壁に隔てられた「愛」は、ある意味「ゲイ=禁断の愛」であるとゲイ自身も感じていた(感じざるをえなかった)時代を思わせ、今となってはいささか古びてしまっているかも知れない。ペニスのメタファーである拳銃のフェラチオ(正確にはイラマチオか)も、藁しべとタバコの煙を介して壁の穴越しに交わされる接吻も、あるいは切なく揺れ続ける花綱の美しさすらも、もし同じことを現在したならば陳腐とそしられてしまうだろう。
しかし、ここで「愛」と同時に描かれる「欲情」は、過去も現在も変わらない。例え愛を交わす相手がいなくとも、我々は同性相手に欲情することで、脳裏で同性との触れ合いを思い描き、独り同性を思ってマスターベーションすることで、自分がゲイだと知る。この映画では、そういったゲイの普遍的な本質が、きっちりと描かれている。
その本質があまりにも赤裸々に表れるために、時としてこの映画は、そこに観念的な美やアート性を求めている観客を裏切る。ここで描かれている「美」とは、あくまでもゲイという実存に基づくものであって、観念の所産ではないからだ。そして、そういった「美」は「理解」を拒む。
それゆえにこの映画は、優れてポルノグラフィー的であり、同時に優れて詩的な芸術作品だ。もし観客が、この映画のポルノグラフィー的な「ドキドキ感」に共感しえないのならば、この映画で描かれている「世界」に触れることは難しいだろう。
現在、映画に限らずゲイ・アートと呼ばれるものは数多くあるが、ポルノグラフィーというフィールドを除けば、えてしてそれらは「愛」は語っても「欲情」には触れずにいたり、あるいは「欲情」というメカニズムが内包するポルノグラフィー性を観念で分解したり、そこに理由付けのためのエクスキューズを加えることに腐心しているものが多いように思われる。
私は個人的に、そういったものをあまり好まない。そういうものを見ると、その裏に、作者が単純に同性に欲情してしまう自分という現実を受け入れられずにいるような、一種のセックス・フォビア的な視点を勘ぐってしまうからだ。
己の欲情のメカニズムに「なぜ」という理由を持ち込むということの裏には、「本来の自分はこうではないのだ、それがなぜかこうなってしまったのだ」という、価値観の多様性とは正反対のベクトルが潜んでいるように思われる。これは一見、自分自身を受容している(あるいは、受容しようと努力している)姿勢に見えながら、実は自分自身のありかたを否定してしまう価値観に、根本で依存してしまっていることに他ならない。
しかし『愛の唄』には、そういった要素は微塵も感じられない。仮に、はみ出してしまった者の悲哀はあったとしても、はみ出してしまったことへの呪詛はない。はみ出している自分を、ただ真っ直ぐに受け止めている。表現としての手法が古びても、ゲイというものが置かれている社会状況が変化しても、個としてのゲイを捉えた普遍性は全く揺るぎない。こういった「実存としてのゲイ的な美」をきちんと描き出した作品は、実は現代においてもそれほど多くはないように思われる。
日本で『愛の唄』が、このイギリス盤のように完全な形でDVD化されるのは難しそうだ。少なくとも、勃起したペニスで石壁を擦る、あの美しいシーンには、醜いモザイクが入ってしまうだろう。
ならばせめて、同じくジュネを原作とした、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ケレル』か、あるいは同じくジュネをモチーフとした、トッド・ヘインズの『ポイズン』だけでも、ソフト化して欲しいものだが……。