“Saawariya”

saawariya_dvd
“Saawariya” (2007) Sanjay Leela Bhansali

 前回に引き続き、今回もインド映画です。
 2002年の”Devdas”で度肝を抜かれ、後追いで99年の『ミモラ 心のままに』を見て、「うむ、これもなかなか……」と感心させられた後、以来、個人的に「注目すべき映画監督の一人」として、頭に名前がインプットされた、サンジャイ・リーラ・バンサーリーの待望の新作。
 モノガタリのベースになっているのは、ドフトエフスキーの『白夜』。
 未読だし、57年のルキノ・ヴィスコンティ版や71年のロベール・ブレッソン版も未見なんですが、いい機会なので、小説は今回読んでみました。そこいらへんに絡めた感想は、最後にまとめて後述します。

【追記】後にヴィスコンティ版を鑑賞したところ、そこからの引用があることが判明。

 舞台は、いつともいずことも知れぬ、時代も場所も定かではない、幻想的な夜の街。
 この架空の街には、ヴェネツィアのようなゴンドラが浮かぶ運河が流れ、モスク、巨大な仏頭、ロンドンのビッグ・ベンのような時計塔、パリにあるような凱旋門、電飾を施されたナイトクラブなどが立ち並び、遠くには煙を噴き上げて蒸気機関車が走る。看板や壁のラクガキに書かれているのは、ヒンディー(デーヴァナガリー文字)だったり、ウルドゥー(アラビア文字)だったり、英語(アルファベット)だったり。
 主人公の青年ラジは、ナイトクラブの歌手として働くために、この街へやってきた異邦人で、未来を信じる無邪気さと、天使のような善良さを持った好青年。その性格は、街頭に立つ娼婦たちの心を捕らえ、孤独な人間嫌いの老婆の心も解きほぐす。
 そんなラジは、雨でもないのに雨傘をさして橋の上に佇む、サキーナという美しい娘と出会う。ラジはサキーナに恋をし、サキーナもラジを友人として受け入れるのだが、実は彼女にはイマーンという恋人がいた。イマーンは、今はこの街を離れているが、サキーナは橋の上でその帰りを待ち続けていたのだ。
 サキーナを諦めきれないラジは、彼女に、イマーンのことはもう忘れて、彼を待つのをやめて自分と一緒になろう、と迫るのだが……。

 ってなストーリーが、幻想的な極上の映像美で綴られていきます。
 まあ、とにかく、その映像美が素晴らしい!
 ロケはいっさいなく、全てがセット撮影で、しかも全てが夜のシーンなんですが、青を基調としたその映像は、最初から最後までひたすら美しいの一言!
 バンサーリー監督は、既に”Devdas”で、トラディショナルなインド文化の美を、この上もなく豪奢で華麗にして、その美しさの極限のような映像美を見せてくれています。次の”Black”(2005)では、”Devdas”とはうって変わって、イギリスを舞台にした、クラシカルではあるもののシンプルでヨーロッパ的なものを、光と影やシンメトリカルな構図を使って、やはり極めて美しく描き出していました。
 そして、今回の”Saawariya”では、今度は自然主義に背を向けて、徹底的な人工美の世界を見せてくれるます。
 まあ、論より証拠、公式サイトで予告編を見てください。見りゃ判りますから(笑)。ホント目の御馳走、美のシャワーを浴びながらの、目眩く2時間22分。
 美術だけではなく、その演出にも目を奪われます。特に、カメラワークの素晴らしさ! ハッタリやインパクトのためではなく、しっかりとした目的を持って滑らかに、しかも美しく動き回るカメラからは、この監督の映像表現における手腕の確かさが、改めて感じられました。
 エモーションの描出などに関しては、これは”Black”のときもそうでしたが、いささか感傷的でベタな部分があります。個人的には、この監督のそれは、マイナス点ではなくオーセンティックな美点だと思っていますが、嫌いな人は嫌いでしょうね。

 ストーリーの方は、原案となっているドフトエフスキーの小説と、基本的な流れは一緒で、結末もテーマも同じです。
 モノガタリの表層だけを見れば、失恋を描いた一種のメロドラマのようなものなんですが、そこで扱われているテーマは、そういったジャンル・フィクションから予想されるような、予定調和的なものではない。恋愛をテーマにしながらも、その主眼となるのは、喜びや涙といった感情のドラマや、成就や破局といった結果のカタルシスではなく、それらの中から浮かびあがる「本質」について、受け手に向けて問いかけることにあります。
 バンサーリ監督は、『ミモラ』でも”Devdas”でも”Black”でも、同様に複雑な愛の諸相を描き、愛の本質に迫ろうとしていましたが、”Saawariya”も基本的には同様です。ただし、『ミモラ』で描かれた愛ゆえの葛藤劇や、”Devdas”の古典的な悲劇、”Black”のプラトニックな絆としての愛と比べると、”Saawariya”の瞬間的な法悦としての愛(詳しくはネタバレになるので、後ほど原作との比較を交えて詳述します)は、いささか共感や理解が難しい側面があります。
 舞台やモノガタリの背景から、現実感を完全に排除していることは、根本となる観念的なテーマを、より普遍的な寓意に昇華している効果がありますが、そのことによって、逆にリアリティを感じることができず、感情的な共感はしにくくなるというマイナス面もあります。個人的には、手法とテーマの見事な合致だと感銘を受けましたが、逆に苦手な方もいらっしゃりそうではあります。

 映画”Saawariya”は、決して難解というわけではないのですが、かといって、万人受けする娯楽作品でもありません。インド国内では興行的に失敗したらしいですが、インドの大衆娯楽映画の特徴である、予定調和的なカタルシスとは全く無縁の作品ですから、これは無理もないでしょう。
 バンサーリ監督は、前作”Black”で、歌と踊りというインド映画的なスタイルを完全に排除して、インド映画という枠組みそのものを越境しようとする姿を見せました。今回の”Saawariya”は、再び歌と踊りを交えて、様式としては再度インド映画に回帰しているように見えます。
 しかし、”Black”のストーリーやテーマは、『奇跡の人』で知られるヘレン・ケラーの物語をベースに、それを膨らませたエモーショナルな感動ドラマと言えるものだったのに対して、”Saawariya”の観念的テーマやモチーフは、実は”Black”以上に非インド映画的だとも言えます。
 こういったことから、”Saawariya”は、バンサーリ監督がインド映画にこだわりつつ、同時にそれを越境しようとた野心作と言って良いでしょう。同時に、過去の作品と共通するテーマ性や、確固たる映像スタイルなどからは、はっきりとした作家性も伺われる。インド映画ファンのみならず、広く映画好きには注目されてしかるべき才能を持った監督です。
 こうして、私にとってバンサーリ監督は、今後ますます目を離せない監督になりました。インド国内での”Saawariya”の興行的失敗が、その作家性をスポイルしてしまわないことを、切に願います。
 同時に、その作品が日本でも、公開やソフト化されますように! 普通に見られるのが『ミモラ』一本だけという、余りに残念な現状なので……。

 役者さんに関しては、まず主演のランビール・カプールですが、決して好きな顔立ちではないですけれど、天使的な側面を持ち合わせた無邪気でナイーブな青年を、好演しています。因みに顔は、相棒との間では、髪型などのせいもあり、「(ポール・マッカートニー+ジョン・レノン)÷2+ガラムマサラ」ということで一致しました(笑)。
 また、引き締まったダンサー体型を、惜しげもなく露わにして、全裸にバスタオル一枚で歌い踊る姿(メイキングを見ると、実はちゃんとパンツをはいているですけど、画面上では完全に素っ裸に見えます)は、メイル・エロティシズム的にも見逃せません。実に美しかった(笑)。
 ヒロインのソナム・カプールは、とにかく大きな目が印象的。演技的には、インド映画の女優の定型的なそれを、きちんとこなしているだけといった感じで、それ以上は何とも言えない感じではあるんですけれど、美しさと存在感は充分で、初々しい魅力もあります。
 娼婦役のラーニー・ムケルジー、イマーン役のサルマン・カーンは、いわば大物俳優のゲスト出演といったところで、少ない出番ながらも存在感は充分。個人的にラーニー・ムケルジーは、”Nayak”と”Black”で好印象だったので、この出演は嬉しい限り。サルマン・カーンは……「インド映画の二枚目の顔は苦手」という、私の法則通りなんで……(笑)。身体はけっこう好きだけど、今回は脱がないし(笑)。
 印象深いのは、老女リリアン役のゾーラー・セヘガル。95歳の現役女優というだけでビックリなんですが、ラジにリリポップと呼ばれてから後の愛らしさが、もう実にステキでした。オバアチャン好きなら必見。

 ミュージカル・シーンに関しては、これは意外なほど印象に薄い。
 もちろん、前編に渡って美麗な映画なので、ミュージカル・シーンも当然美麗なんですが、「これぞ!」というポイントには乏しい感じ。というか、何でもないフツーのシーンまでが実に美しいので、ミュージカル・シーンの印象が、その中に埋もれてしまうといった感じ。
 とりあえず、前述したメイル・ヌードのエロティシズムもあって、”Jab Se Tere Naina”はお気に入り。群舞好きの私としては、モスクで踊る”Yoon Shabnami”も好きではあるんですが、見ているだけで至高の多幸感に満たされた”Devdas”の”Dola Re Dola”(音楽と映像の融合という意味で、個人的に映画史に残ると思っているシーンです)には、正直遥かに及ばないのは残念でした。
 音楽のみに限って言えば、主題歌の”Saawariya”は、コブシまわし意外にはインドらしさはほとんどない、フォーク・ロック調の曲なんですが、ポップでキャッチーなメロディーの佳曲。歌以外の劇伴も、画面同様に極めて美しく、ロマンティックかつ幻想的で素晴らしい。
 ただ、これはDVDソフトとしてのマイナス・ポイントなんですが、歌詞の英語字幕が、最初の”Saawariya”以外は、いっさい出ないんですな。歌詞にもしっかりと意味があるインド映画で、これは欠陥としか言いようがない。

【追記】後にBlu-rayで再購入したところ、こちらはちゃんと歌詞の英語字幕が出たので一安心。

 購入したDVDはPAL、リージョンコードは5。スクィーズのワイド収録。
 インド映画のDVDって、正規盤でもジャケットだけが豪華で、肝心の本編は画質が悪いことも多いんですけど、これは流石にSony/Columbia映画だけあって、DVDもSONY Pictures Entertainment India盤なので、画質は極めて美麗。Blu-rayディスクも発売されただけのことはあります。
 オマケはメイキング、プレミア・ナイトの映像、未使用シーン、予告編。

 では、最後にまとめて、ドフトエフスキーの『白夜』との比較も交えた、ヤヤコシイ感想をあれこれ。
 ネタバレも含みますので、お嫌な方は読まれないように。

 映画”Saawariya”でも小説『白夜』でも、最終的に主人公の恋は破れます。主人公は、モノガタリの終盤になって、ようやくヒロインの心を自分に向けさせることに成功し、ヒロインも帰らぬ恋人を待つことはやめ、主人公と一緒になろうと決心するんですが。その刹那、恋人の帰還によって、一瞬だけ成就した恋は、脆くも崩れ去る。
 しかし、モノガタリの本質、その着地点は、壊れた恋による「涙」や、喪失の切なさといった、感傷的なロマンティシズムではない。小説『白夜』(小沼文彦・訳、角川文庫版)は、下記のエピグラフで始まり、下記の独白で締めくくられます。

「それとも彼は、たとえ一瞬なりともそなたの胸に寄り添うために、この世に送られた人なのであろうか?」 トゥルゲーネフ

ああ! 至上の法悦の完全なひととき! 人間の長い一生にくらべてすら、それは決して不足のない一瞬ではないか?

 ここで見られる、たとえ最終的には破れた恋(或いは愛)ではあっても、ほんのひとときでもそれが成就した瞬間があったのなら、それは至福ではないかと問いかけが、映画”Saawariya”のテーマでもあります。
 だからこそ主人公ラジは、サキーナが去った後、映画の前半でラジがサキーナに、「『アンハッピー』と戦って打ち負かせ」と言って、ボクシングの真似をして見せたのと同じ場所で、ひとりボクシングのポーズをとって、微笑みを浮かべて去っていく。そしてラジ自身も、前述した『白夜』の巻頭言のように、天使的な存在として世界(=この架空の街)に出現し、映画オリジナルの登場人物である、老婆リリポップや娼婦たちに、ひとときの至福の瞬間を与えていく。
 この様に同じテーマを扱いつつも、それと同時に、小説から映画へのトリートメントとして、必要とされるであろう様々な変更も、そこかしこできちんと見られます。
 例えば、メイン・キャラクターの性格は、『白夜』(「私」とナースチェンカ)ではかなり特異なもので、小説世界ならいいんですが、現実に身近にいたら、イタい人認定されて周囲から引かれまくること間違いなしなんですが(笑)、”Saawariya”のラジとサキーナは、そこまでエキセントリックではない。二人の関係が近付いていく様子も、『白夜』よりは自然なプロセスを踏んで描かれます。
 また、ヒロインが、最終的に主人公ではなく、戻ってきた恋人を選ぶ場面でも、『白夜』では言葉もなく去ってしまい、その後、ナースチェンカから届いた手紙を読む「私」の場面で締めくくられますが、”Saawariya”では、別れの場面に延々と葛藤のシーンを挿入することで、エモーショナルなクライマックスを描出し、手紙云々のくだりは省かれる。
 映像言語的にも、『白夜』のナースチェンカには、彼女を溺愛する盲目の祖母がいて、その祖母は、孫娘が勝手にどこかにいってしまわないよう、自分の衣と孫娘の衣をピンで止めているという、印象深いエピソードがありますが、”Saawariya”では、同じエピソードを用いつつ、更にそれを、サキーナとイマーンの間の恋愛感情の芽生えと発展を示す、図像的な表現へと展開して見せる。
 あるいは、もっと些末なことで、『白夜』ではオペラだった要素を、”Saawariya”ではクラシック・インド映画に、それぞれ「歌(と音楽)」という共通要素を介して置き換えている。つまり、原作における文化的背景を、監督自身の属する文化のそれに、きちんとアダプテーションして描いているわけです。
 映画と小説という二つのメディアの、マーケットや特性の違いという点でも、また、この監督が『白夜』を元にした映画を作るにあたって、原典の精神を生かすと同時に、いかに自分自身の作家性を盛り込んだかという点でも、文芸小説の映画化として、実に見事な成果と言って良いと思います。