投稿者「Gengoroh Tagame」のアーカイブ

『劇画 家畜人ヤプー」沼正三/石ノ森章太郎、復刊!

 紹介しよう、しようと思いつつ、件の「非実在」関係のせいで、すっかり遅くなってしまいました。
 ポット出版さんから、沼正三・作の天下のマゾヒズム奇書『家畜人ヤプー』を石ノ森章太郎がマンガ化した、『劇画 家畜人ヤプー』が復刻されました。

劇画家畜人ヤプー【復刻版】 『劇画 家畜人ヤプー【復刻版】』
作・石ノ森章太郎、原作・沼正三

 去年の秋だったか、この本を復刻する予定だと、ポットの沢辺さんに聞いたとき、私は、絶版になっていたとは知らずに、ちょっとビックリしました。このマンガが最初に世に出たのは1971年、私が実際に読むことができたのは、83年に復刊されたときでしたが、作品自体が有名だし「あの石ノ森章太郎が」というネームバリューもあるので、てっきりその後も地味に版を重ね続けているのだとばかり思っていたもので。
 というわけで、まずは復刻自体に乾杯。オマケに今回は、丸尾末広氏の解説付き。愛蔵版として所有するのに相応しく、ハードカバーのしっかりとした造本、黒とシルバーをベースに、隠し味に紅を効かせた(余談ですが、昨年フランス人に聞いたんですけど、黒と赤ってのは、彼らにとってはとても「日本的」な配色なんですって)シックな装丁。
 さて、装画も含んだ『家畜人ヤプー』のヴィジュアライゼーションというと、「白い女神崇拝」というテーマとヨーロッパ的な耽美趣味が良く合っていた村上芳正氏、サイケ感覚と奇形化した肉体描写の合体が、ローラン・トポルの『マゾヒストたち』のような味わいの宇野亜喜良氏、「完結編」初出時の奥村靫正氏、最近のマンガ化の江川達也氏、現行文庫版の金子國義氏……といった具合に、様々な絵師が手掛けているわけですが、その中でもこの石ノ森版は、小説家の個性とマンガ化の個性が、かなり良く合っているのではないか、と、個人的に思っております。
 まあ、解説でも指摘されているように、確かにちょっと絵が荒いきらいはありますし、デフォルメ、特に肉体描写に関しては、70年代のマンガではいたしかたないこととはいえ、やはりマンガ的な記号表現のみでそれを描く限界が感じられてしまい、肉体の持つリアルな説得力という意味では物足りない。
 それでも、石ノ森キャラの「お姉さん」的な風情は、女尊男卑で統べられた超未来社会のドミナ、サディスティン像には良く合っていると思うし、現在の目で見ると既にレトロ・フューチャーになってしまっているとはいえ、SF的な描写もお手の物。
 それに何と言っても、流石は早熟の天才にしてベテラン作家の手によるマンガ化、その、マンガとしての読みやすさが素晴らしい。膨大なテキスト量、それも俗に言う「説明セリフ」が、動きのない会話で延々と続くにも関わらず、コマ割りや構図の工夫で、その単調さを最小限に抑えて見せる手腕は、やはり「マンガ家・石ノ森」ならでは。
 ここで「What if」を語っても、余り意味のないことだとは思うが、もし、誰か他の作家が『ヤプー』をマンガ化するとしたら誰がいいだろう……などと考えてみると(因みに丸尾氏は解説中で池上遼一氏の名前を挙げておられる)、私なんかは、「『白い女神』的なドミナ美女」と「男女共に解剖学的なリアリズムのある肉体描写」という二点から、三山のぼる氏(残念ながら既に鬼籍にはいられてしまったが)の描く「ヤプー世界」を見てみたい、と、個人的には思うのだが、しかし、この石ノ森版のマンガ的な完成度、マンガとしての読みやすさは、やはりそういったものとは別種の「技術力」だと思う。
 もう一つ、私がこの石ノ森版を愛好する理由として、マゾ側の主人公、瀬部麟一郎の造形がある。
 小説版でも石ノ森版でも、この、現代から未来世界に「拉致」されて、「日本人・瀬部麟一郎」から「ヤプー(家畜人)・リン」にされてしまう主人公は、いちおう「西ドイツの大学に留学中、柔道五段」という、いわば「文武両道の男らしい日本男児」である。
 ところが小説版では、それは最初のキャラクター設定的に語られるのみで、ストーリー中では全くというほど機能していない。やはりこれは、マゾヒストの作者が己のマゾヒズムを投影しているせいか、未来世界に拉致されてから後の麟一郎のキャラクター描写に、およそ「文武両道の男らしい日本男児」らしさが見られないのだ。
 全裸のまま家畜同様に扱われ、体内に寄生虫を入れられ、糞尿や経血を餌として与えられ、皮膚や口唇の加工といった様々な肉体改造をされ、あまつさえ去勢もされ、決して後戻り出来ない道へ堕ちていき……といった展開にも関わらず、それに対する心理的な抵抗や絶望感が余りにも乏しいので、端で見ていると「いとも易々と」家畜人としての自分の運命を享受していくように見えるほどだ。で、ついつい「これだったら『原ヤプー』も『土着ヤプー』も、大して変わらなさそうだな」なんて、余計なことを考えてしまう。
 こういったことが、私が小説版を読んでいて、最も物足りなさを感じてしまう部分なのだが、この石ノ森版は、その「物足りなさ」を「絵」による「表現」によって、ある程度カバーしてくれる。
 具体的に言うと、石ノ森版の麟一郎は、その外見そのものが、さほど個性的ではないが、それでも「青年マンガのヒーロー」的な造形になっている。つまり前述したような、設定で語られながらストーリー中では抜け落ちてしまっている「男性的」な要素が、キャラクターの絵そのものによって補われているのだ。
 もう一つ、麟一郎の「表情」がある。基本的なエピソードの展開は、小説もマンガも同じだとはいえ、その場面場面で描かれる「キャラクターの表情」は、心理を表現するという点で、ある意味で文章を越える説得力をもたらす。つまり、テキストでは描かれなかった麟一郎の戸惑い、怒り、苦痛、屈辱、諦念などの感情が、その表情によって何よりも雄弁に語られる。
 これらが、私にとって石ノ森版の最大の魅力である。
 さて、石ノ森版について語ろうとする余り、ついオリジナルの小説を批判するような文言が続いてしまったが、過去にもあちこちで語ってきたように、私にとっての沼正三の『家畜人ヤプー』および『ある夢想家の手帖から』は、マルキ・ド・サドや西村寿行などと並んで、作家としての私に大いに影響を与えた作品であり、大いにリスペクトしている作品でもある。
 前述したような「不満点」は、あくまでも私の個人的な「ポルノグラフィー脳」から出る反応であり、正直、ポルノグラフィー的な観点での愉しみ方だけ言えば、私にとっての『ヤプー』は「麟一郎の去勢」あたりでストップしてしまうのだが、『ヤプー』の魅力はそれだけではない。他に類のない綺想小説として、イマジネーション迸る幻想小説として、十代の私が夢中になり、そして未だにその呪縛から逃れ切れていない感のある小説だ。
 リビドーに基づくイマジネーションの暴走と、それによって拡がっていく、有無を言わせぬほどパワフルな世界観というものは、ポルノグラフィーなど、エロティックなフィクションならではの醍醐味である。その中でもこの『ヤプー』は、最大にして最強(最凶かも知れないが)の存在だ。
 特に「『ヤプー』って良く聞くけど、実際にはまだ読んだことない」という方には、この石ノ森版はオススメである。
 原作小説のペダントリーや言葉遊びの嵐に挫折してしまった人にも、このマンガ版は、そのエッセンス、美味しくて食べやすい部分だけを味見できるだろう。実際の小説は、後年になって書かれた続編(完結編)も含めると、この石ノ森版は冒頭部分のみ、まだ全体の四分の一くらい(?)ではある。ただ『ヤプー』の「良いところ」は、全てこの冒頭部分に集約されている(ぶっちゃけ個人的には、後年に書かれた「続き」は、全く面白いとは思えなかった)ので、この部分だけでも全体のイメージを掴むには充分だ。
 もちろん、小説既読で石ノ森版は未読の方にも、前述したような「新たな魅力」も発見できるのでオススメしたい。
 余談。
 私が『ヤプー』を読むたびに「羨ましい」と思うことが一つある。それは、男女という性差の存在だ。
 私自身でも、こういった「世界レベルでの支配・被支配」を、サドマゾヒズム的なスタンスで描いてみたい、という希望はあるのだが、いかんせん「ゲイもの」だと、「人種」はともかくとして「男女」のような絶対差が存在しない。世界を真っ二つに分けることができないのだ。
 というわけで、この『ヤプー』とか、洋物のフェムダムのような、そういった「男女」という「違い」が「問答無用で活かされている」SMものに触れると、いつも「ゲイSMフィクションの限界(笑)」を感じてしまうのである。

ちょっと宣伝、「田舎医者(中編)」です

inakaisya2
 本日発売の雑誌「バディ 5月号」に、マンガ「田舎医者(中編)」掲載です。
 ゴツメガネキャラ萱野先生のセックス・アドベンチャーは、まだまだ続く! 今度のお相手は、マゾの太目中年とサドの白ヒゲクマ男!?
 ……な〜んて、予告編風にしてみたりして(笑)。
 相変わらず、明るくエロエロに攻めておりますので、よろしかったら先号と併せて、ぜひお読みくださいませ。
 来月号掲載の完結編もお楽しみに!

Badi ( バディ ) 2010年 05月号 [雑誌] Badi ( バディ ) 2010年 05月号 [雑誌]
価格:¥ 1,500(税込)
発売日:2010-03-20

 それはそうと、同じ号に掲載のマンガで、野原くろ先生の「下宿のお兄さん」と、前田ポケット先生の「虹色サンライズ」、続きがスッゲ〜気になるんですけどッ????

「非実在青少年」規制問題に関する追補と警鐘

 今回は、少し「ゲイ寄り」な内容です。
 前回で終わりにしようと思っていたんですが、エントリーをアップした後に、下のまとめ記事を読んだところ、これはもう一言つけくわえておくべきだと思ったので。
「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ〜Giazine
 とりあえず、私が最も気になったのは、以下の部分。

「マイノリティに配慮し過ぎた挙句、当たり前の事が否定されて通らないというのはどうしても納得出来ない」
「説明や調査データを示す必要も無いくらい規制は当たり前の事だ。正論でガンと言ってやれば良い」

 前のエントリーで私が参照として挙げた、「東京都小学校PTA協議会会長」にして「東京都青少年問題協議会委員」である新谷珠恵氏の発言だ。
 詳細を知りたくなり、実際の原典(第28期東京都青少年問題協議会 第8回専門部会議事録(PDF)/p.26〜27)に当たってみた。 すると、こういう内容だった。

「(前略)何でそういった人のことまでそんなふうに考えなきゃいけないのかなと思います。(中略)マイノリティに配慮しすぎたあげく、当たり前のことが否定されて通らないというのはどうしても私は納得できない。(中略)そういう団体の方たちに対する説明とか調査データもそうなんですが、極論を言うと、示す必要もないくらい当たり前、正論でガンと言っていいのではないかなと、そのくらい強く私は思います」

 婉曲な言い回しと語調のせいで、要約された記事ほどラディカルな印象ではないが、私が「気になった」部分に関しては、全く同じである。
 それは、世界を「当たり前」と「そうでないもの」に分けて考え、何の疑いもなく自分を「当たり前」に属するものとして定義し、その主観に基づく価値観を「正論」と表現することについても、やはり何の疑問も抱いていない、ということである。
 以前のエントリーでも危惧として述べたことではあるが、これははっきりとした言質だったので、改めて紹介してみた。
 こういった「無自覚の正義」による言動が、どれだけ恐ろしい可能性を孕んでいるのか、「当たり前」ではないセクシュアル・マイノリティならば、なおさら良くお判りいただけるのではないだろうか。
 私にとって身近なことろで言えば、以前このブログでも紹介したトルコの青年アーメット・イルディスも、2008年夏、そういう「当たり前」な人々の名誉を傷つけたという理由で、「正論」として実の家族の手で殺害されたのだ。
 元の発言を読むと、その主張をグローバル・スタンダードに基づくもののように言っているが、自分の主張を正当化するために、一部の既成事実を利用しているに過ぎないようにも見える。
 児童の保護というお題目にしても、同様だ。仮に、そもそもの発想の根本はそこにあったとしても、やはり前回のエントリーで私が想像したように、「目的」の達成のための「手段」として、意図的に「実在」と「非実在」の区別を排除した、抽象概念としての「子供のイメージ」を利用しているだけなのではないか。
 それが「教育」や「行政」の現場に存在し、その考えに基づく「法」が、知らないうちに密かに成立しそうになり、そして今も、成立の危機は去っていない……というのが、現状なのだ。
 しかも、幾らでも拡大解釈が可能なやり方で。
 それでもまだ「でもこの規制って、オタクやロリコンの問題でしょ? ゲイには関係ないじゃん」と思われる方には、昨今はネット上のコピペでも良く見かける、反ナチスを謳ったマルティン・ニーメラーの詩をもって、私の言に代えさせてただこう。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。
<参照元>〜Wikipedia日本語版

 最後にもう一つ。
 この問題に関して、私はTwitter上で、こんなことを呟いていた。

過去、行政が表現、特に絵画について、主観に基づく「健全・非健全」という定規を用いて介入した先例はと考えると、やはり最初に思い出されるのは、ナチスが唱えた「退廃芸術」かな。(original)
表現活動全般に拡げて、行政が創作物の内容を制限したり、創作者自身をも断罪した例と言えば、旧ソ連のあれこれ(社会主義リアリズムとかジダーノフ批判とかパステルナークとかソルジェニーツィンとかモソロフとかパラジャーノフとか……ああ、きりがない)とか。文革もそうか。(original)
だいたい、あんまり「健全、健全、健全……」と強調されるのを見ていると、「それって優生学?」って感じ。(original)

 いささか軽口めいたものだが、下記の新谷氏の発言を見ると、どうやら冗談ごとではないようにも思えてくる。

「(前略)雑誌・図書業界のためにも、きちんとした規制をしてあげることが、結局、悪質な業者、悪質も出版社が淘汰されていくということにもなるので、(中略)健全な業者、出版社を生かすために、どんどん悪質なものはペナルティーを科して消していくというような仕組みがかえって皆さんのためにもいいのではないかと思いました。(中略)言論の自由とか表現の自由とおっしゃいますけれども、それはプラスα、芸術性のあるときだと思います。(中略)やはり社会としてのモラルとか、品格とか、いろいろなものへの影響、そういったもののマイナスを考えれば、自由とか、そういったものの権利とかプラス、そういったものも減じられるというか、なくなると私は思います。(後略)」(第7回議事録(PDF)/p.35)

 この内容、特に、後半で語られる「モラル」と「芸術性」を念頭に置いて、ぜひもう一度、ここで例に挙げた、ムーアとレイトン、二つのヴィーナス像の逸話を思い出していただきたい。

「非実在青少年」規制問題に関する余談2

 続いてしまいました(笑)。
 そろそろ仕事に集中しないとヤバいんですが、もうちょっとだけ。
 前回同様に今回も、この問題に対しての具体的なあれこれからは少し離れて、こういった問題が生まれる背景について考えてみたかったので、内容もいささか戯れ言めいて感じられるかも知れません。

 私が海外の、特に欧米のジャーナリストやファンの方と話していて、たびたび受ける質問に、こういうものがある。
「モデルを使ってるの?」
 私の答えは、毎回同じ。
「マンガに関しては、モデルは使っておらず、ほぼ全て頭の中の記憶と想像だけで描いている」
 この質問は本当に多く、中には、私の使っている(だろう)モデルを、自分もモデルとして使いたいから、紹介して欲しいという写真家もいた。
 しかし、日本でこの質問をされることは、ほぼない。せいぜい、日頃マンガに触れる習慣が全くなく、マンガを読む機会があるのはゲイ雑誌上だけといった感じの、主に年配の方から、マンガだけではなくイラストも含めた質問として、2、3回聞かれたことがある程度だろうか。

 で、今回の問題に関して、いろいろ読んだり考えたりしているうちに、ふと、こう思った。
 ひょっとして、欧米と日本では、「絵」に対する感覚が根本的に異なっているんじゃないだろうか、と。
 日本人で、日常的にマンガに馴染みのある人ならば、一般的にマンガを描くのにモデルは使わない、というのが、既に共通認識としてありそうだ。だから、前述の質問をする人もいない。
 ところが欧米だと、写実の伝統が長いこともあって、絵を描くということとモデルを使うということが、日本人が感じるそれよりも、ずっと密接なものとして、意識の奥底に根付いているのかも知れない。
 だから、いくらマンガと言えども、それがチャーリー・ブラウン級にデフォルメされたカートゥーンでもない限り、半ば無意識的に背後にモデルの存在を感じてしまうのでは。しかも、それがリアル(これは写実的という意味のリアルではなく、自分に迫ってくる生々しさを感じるという意味でのリアル)であればあるほど、そんな「モデルの気配」が強くなる、とか。

 さて、ポルノ規制を主張する人曰く、「児童ポルノの被害者」というのには二種類あるらしい。具体的には、製作過程で性的虐待を受けた児童という被害者と、製作された画像を見ることで苦痛を受ける被害者ということらしい。<参照元>
 後者の「制作された画像を見ることで苦痛を受ける被害者」に関しては、前回のエントリーで既に意見を述べている。
 では、前者の「制作過程で性的虐待を受けた被害者」についてはどうかと言うと、実写のポルノグラフィーならばそのまま納得できるのだが、マンガ(やアニメやゲーム)に関しては、とてもそんなものが存在するとは思えない。
 ならば、マンガは規制論の対象外になりそうなものであるが、上記の参照元の言う「世界的」な基準(なにをもって「世界的」と規定するのか、という問題は、ここではとりあえず置いておこう)では、そうではない。
 これは、矛盾してはいないか。
 では、エロマンガにおける「被害者」が、「見ることで苦痛を受ける」ことのみに絞られるのだとしたら、そしてその論点が、実害の有無を問うのではなく、マンガの存在そのものが視覚的な暴力だというのなら、それは「児童虐待」ではなく「セクシュアル・ハラスメント」の問題であろう。

 しかし、現実に見られる論は、必ずしもそうではない。
 例えば、「社団法人 東京都小学校PTA協議会」が提出した、「青少年健全育成条例改正案の成立に関する緊急要望書」を読むと(因みに、この組織の会長である新谷珠恵氏は、実は、今回の条例案作成に関わった、東京都青少年問題協議会委員でもあるので、この要望書と今回の都条例の主旨は、ある程度以上は合致すると判断しても良いような気がする)、「私たちは、子どもたちが児童ポルノの犠牲者となり、その姿が大人の性的視線にさらされ、インターネット上で永久に広まっていくことを許すことができません」とか書いてある。
 これが、実在する児童のことであるのなら、私も全く異論はないのだが、しかし今回は「非実在青少年」である。ということは、マンガの登場人物である青少年が、性暴力の被害者だと言いたいのだろうか。どうも良く判らない。

 そこで、なぜ名言しないかの理由を、勝手に二つ想像してみた。
 まず、あえて「架空の児童」と「実在の児童」を区別をつけないことで、現実の児童が被害にあっている「児童ポルノ」という、言葉の持つネガティブ・イメージを利用し、それで「フィクションに対する規制」という実態を覆い隠そうという意図があるのではないか、ということ。
 もう一つは、本音では「犯罪を犯した小児性愛者」だけではなく、「そういうセクシュアリティを持ってはいるが、実際の社会では問題を起こしていない小児性愛者」をも、犯罪者予備軍もしくは絶対的な社会悪として、取り締まりたがっているのではないか、ということ。
 どちらにしても、私にとっては「おぞましい考え方」としか思えない。
 特に、後者の小児性愛の存在自体を社会悪として否定することは、環境次第でそれを同性愛に置き換えても論理が成立してしまう以上、私は断固として認めることはできない。
 幸いにして私は、ゲイにとっては過酷なイスラム圏ではなく、この日本に生まれたが、それは単なる「偶然」でしかない。
 ゲイとしての私が望むことは、どんな世界でもゲイが安全に生きられるということであって、イスラム圏のように異なる状況下であれば、ゲイというだけで鞭打たれても構わないなどという世界では、断じてない。

 ただ、そういったこととは別に、実はここには、最初に述べたような「絵とモデル」に関する感覚の、欧米と日本の根本的な差異が、「マンガにおけるそれも徹底規制すべし」という論が「世界的」な標準として現れる原因の一つとして、見えないところで横たわっているのかも……と、ふと思ったのだ。
 そういう感覚、つまり「一般的に絵とはモデルを使って描くもの」という感覚が、意識的にせよ無意識的にせよ根深く存在するとしたら、確かに「児童のキャラクターが出てくるエロマンガ」にも、「マンガの制作過程上で性的虐待を受けた児童」を感じてしまうかも知れない。
 そして、前述した矛盾や疑問が感じられるポルノ規制論は、欧米的な美術史を背景とした「絵とモデルの密接さ」といった感覚を共有できないまま、規制に関するロジックだけを、「世界標準」としてそのまま日本の文化史に当てはめているために、生じている歪みなのではないだろうか。
 例として言をあげさせていただいた沼崎氏も新谷氏も、どちらも米国で学ばれた経験がおありのようだし。

 まあ、我ながら、いささか想像を逞しくし過ぎているかもしれないという、自覚はある。
 ただ、そういった「絵とモデルの密接さ」に関しては、最初に述べた自分の実体験によるものに加えて、もう一つ別の例をあげてみたい。
 下の二枚の図版をご覧あれ。
carrollBouguereau
 二枚の「絵」ではなく「図版」と書いたのには、訳がある。このうちの片方は、「絵」ではなく「写真」だからだ。
 左が写真である。「不思議の国のアリス」の著者として知られるルイス・キャロルが、自分が撮影した少女のヌード写真に、彩色を施し絵画風に仕上げた作品。
 右は、19世紀フランスの画家、ウィリアム・アドルフ・ブーグローによる油彩画。
 この「写真(という現実の少女)」と「絵(というフィクションの少年)」の差異(二者間の隔たり)を見てから、改めて「写真(という現実)」と「日本のマンガ(というフィクション)」の関係を考えると、これらの二つの関係性は、その成り立ちから何から全く異なるものだ、という感じがしないだろうか。それこそ、会話が通じなさそうなくらい。
 今回は「児童のヌード」という意味で、こういう比較にしてみたが、例えば、ベラスケスの描いた肖像画と、写楽の役者絵の比較でもいい。そうすれば、同じ「実在する人物を絵に写すという行為の結果」とはいえ、それぞれの背景にある文化や感覚が、いかに異なっているかが見えるだろう。
 思想の「輸入」を考えるのならば、こういった文化的差異を踏まえるということは、大前提として必須なことだと思うのだが。

 因みに、キャロルの撮った少女ヌード写真は、ほとんどが破棄され、現存しているのは4枚程度だそうだ。対してブーグローの描く少年少女のヌード画は、美術館にも展示されているし、ポスターなどのインテリア・アートとしても大人気である。
 このことは、写真と絵という二つのメディアの間には、明確な境界線があるということの、一つの歴史的回答のように思える。
 もし今後、いたずらにその境界線をなくし、線の引けない場所に無理やり線を引き、曖昧な前提で解釈の範囲が恣意的に変化しうる状況になれば、昨日まで「健全」な家庭の壁を飾っていたブーグローの「無垢で愛らしい」複製画も、翌日からいきなり「所持することすら禁止」な「いかがわしいもの」になるかもしれない。
 そんな社会が「健全」だとは、私には到底思えない。

「非実在青少年」規制問題に関する余談

 都条例「非実在青少年」規制問題については、議決が先送りになるのではないかという観測が流れておりますが、まだまだ予断は許さぬ状況のようです。<参考>
 今回のエントリーでは、実際の「非実在青少年」規制問題からは少し離れますが、なにゆえこうした「実在(つまり現実)」の問題が「非実在(つまりフィクション)」に及ぶのか、その構造そのものについて、19世紀ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」を手本に、いま起きている問題とも絡めながら、ちょっと私見を綴ってみたいと思います。

 まず、下の二つの絵をご覧あれ。
LeightonMoor
 前回のエントリーで述べたように、19世紀ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」において、左のフレデリック・レイトンの描いたヴィーナスは「芸術」と称賛され、右のアルバート・ムーアは「猥褻」と非難を受けた。これは、当時の「モラル」に基づく判断だったわけだが、では、具体的にはどういうことなのか。
 前項では、「モラルというものの曖昧さ」を強調するために、具体的な理由には触れなかったが、実はその「理由」の中に、今回自分が考えてみたい、「現実がフィクションに干渉する」、その一例を見ることが出来るのだ。

 以下、私が参照した雑誌『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」から、該当部分を引用させていただこう。

 この2人のヴィーナスが、それぞれどういう場にいるかを、よく見比べてください。レイトンの絵の背景に顔を出す青い海は、おそらく地中海。ドーリス式の柱も立っているし、画面の左下にはヴィーナスのアトリビュート(引用者注・このモチーフはこのキャラクターを表す、という約束ごと)である薔薇の花と鳩が描かれています。
 一方のムーアの絵は、そこがどこかも判然としない室内風景ですよね。画面の下に描かれている染付の壷なんて、明らかに1869年当時(引用者注・この絵が描かれた年代)の日本趣味を反映している。
 つまり、こういうことなんです。レイトンのヌードは、その場面設定からして、古代ギリシャ世界のヴィーナス像以外のなにものでもない。一方、ムーアのヌードはといえば、画家のアトリエのような室内でヌード・モデルを描いたとしか見えない作品でした。レイトンがヴィーナス像の伝統というものをきちんと踏まえているとすれば、ムーアのヴィーナスは、A Venusという題名のとおり「ヴィーナスのようなもの」、つまりヴィーナスそのものではなくて、単なる現実のモデルをヴィーナス風に描いたヌードにすぎなかった。
 先ほど紹介したムーアの作品への2つの評が変に回りくどい言い方で貶していたのは、この事実を口に出すのがはばかられて、ぐっと呑みこんだ結果だったんですね。だからムーアの絵を見た評者も、本当は「道徳的にやましいところ」を感じていたわけですよ。
(引用者注・ムーアの絵は「あまりにも醜くおぞましいために、その趣味に反対する以外、他に反対しようという気にもならない」「このようなヌード作品には反対しようがない。というのも、まったくもって不愉快きわなりないからだ」といった具合に、具体的に「どこがどう」という指摘ではなく、ヘンに奥歯に物が挟まったような表現で批判されている)

 お判りだろうか。
 つまり、ムーアのヴィーナスを非難した評者は、それを見て「いやらしい」と感じたのだ。何故かというと、それが引用部分からもお判りのように、「フィクションのお約束ごとを踏まえていない、現実の状況を連想させるヌード」だったからである。
 ムーアの絵がモラル的に非難された理由は、それは、非難した人間自身の、アモラルな感情の反映でしかないのである。
 これが、性表現において、現実がフィクションに干渉してきた一例である。

 では、ここでその「モラルとアモラル」について、もう少し考えてみる。
 現在、この二つのヴィーナス図を見た際、どっちが「性的」だろうか。
 残念ながら私はゲイなので、女性のヌードを自分の中にある性的なものと結びつけて見ることができない。よって、古代ギリシャで女神が素っ裸になっていようと、密室で一般女性が素っ裸になっていようと、どっちも「どーでもいい」ことでしかないが、まあ、肉体表現のリアルさや肌やポーズの艶めかしさなんかから、たぶんレイトンのほうがセクシーなんじゃないかな、とは思う。セクシーであるためのお約束ごとを、ちゃんと踏まえているように見られるのでね。
 あと、状況を考えあわせても、「画家のアトリエというセッティングで、絵のためにポーズをとっている、ほとんど無表情な女性」よりも、「外から丸見えな状況で服を脱ぎ、しかも見られていることを一切意識していない女性」の方が、よりシチュエーション的にもエロいんじゃないかな、とも思う。まぁ、マッチョ好きとしては、ムーアの描くヴィーナスのバキバキの腹筋も、ちょいと捨てがたいものがあるけど(笑)。
 という具合に、絵というフィクションが非難される基準となった「モラル」は、時代によっても個人によっても、かくも曖昧で千差万別であるし、フィクションを現実と重ね合わせる行為の責任は、フィクション自体ではなく、重ね合わせた鑑賞者自身が負うべきものなのだ。

 それと同時に、ここからはもう一つ、現代日本の状況との近似点が見えてくる。
 ムーアのヴィーナスに対する、「おぞまし」くて「不愉快」なので、それを「酷評」するという反応。これは、ポルノグラフィー等に対する性表現への既成について語られる際の、「それを見ることで苦痛を感じる被害者がいる」ので「規制すべき」という論調と、どこか似てはいないだろうか?
 私は、「先人に学び、その過ちは繰り返したくない」という考えの持ち主なので、自分で「道徳的にやましい」ことを感じてしまったからといって、そんな自分を正当化するために「絵」を攻撃した、ムーアのヴィーナスを酷評した人々と、同じようにはなりたくない。
 同時にそこから、「社会一般の健全な考え方を代表して語っているつもり」な言動が、いかにうさんくさいものであるのか、まず疑え、という教訓も得る。
 こういったことが、歴史を学ぶ、歴史から学ぶということの、真髄だと思うのだが。
 だいいち、自分がエッチな気分になったからって、その責任を相手に問うという考え方は、まるで、痴漢や強姦の被害者に対して、「誘うような恰好をしているお前が悪い」と言うのと、似たようなものではないか。
 猥褻な絵の問題と、現実の人間の問題を、一緒にするなって?
 何をおっしゃる、最初にフィクションと現実を同列に論じ始めたのは、「非実在青少年」の方でしょうが。

 ただし、前述したような「見ることで苦痛を感じる」ということについて、それを全面的に否定するつもりもない。ヴィクトリア朝のアカデミー展なら、会場に行かなければそれを見なくて済むが、それをそのまま現代日本に置き換えるのは乱暴すぎるだろう。
 よって、繰り返しになるが、ゾーニングという考え方自体には「賛成」と言っても良いが、ゾーニングだけを欧米に倣い、性表現自体に関しては、現状の「猥褻」という曖昧至極な基準によって、表現の自由が侵害され続けるのなら、やはりそれは納得がいかない。
 ホント、どうして性表現の規制に関して、「欧米では」とか「先進諸国では」とか言いたがる人は、それと同時に「先進諸国に倣ってポルノも解禁すべき」と言わないのだろう? 乱暴な口調になるが、「自分の都合のいいことばっか言ってね〜で、自分の言ってることの変さも少しはテメェで考えろ、このノータリン!」って感じでゴザイマスわ、オホホ。

 さて、現実がフィクションに干渉した例として、もう一枚、絵を見ていただきたい。
Poynter
 これもまた、ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」で非難の的となった、エドワード・ジョン・ポインターの「ディアデーマを結ぶ少女」という絵である。
 では、この絵の何が「モラル的」に非難の対象となったのか? それを理解するには、この「ヌード論争」の具体的な流れを知る必要がある。
「ヌード論争」のきっかけとなったのは、「ヌード絵画はふしだらで、英国の品位を貶め、人々のモラルを侮辱している」といった内容の、「英国の良識ある既婚婦人」と名乗る、匿名による新聞投書だった。その結果、同紙にはヌードの是非を巡る、賛否両論の投書が殺到した。
 やがてこの論争は、画壇へも波及していったが、最初は大した騒ぎではなかったという。それが一気に激化したのは、アカデミー展開催中に新聞に掲載された、一本の記事のせいだった。

 以下、再び該当部分を引用してみたい。

 ところがアカデミー展開催中の7月、W・T・ステッドというジャーナリストが「現代バビロンの処女の貢ぎ」と題した記事を「ペルメル・ガゼット」紙に掲載し、ロンドンの少女売春の実態を赤裸々に暴くんです。この記事が伝えた現実のあまりのおぞましさに英国中がパニックに陥ったほど。
 そんな状況において、ポインター描く無防備な少女ヌードは、画家の意図に反して、あたかも少女売春をそそのかしているかのように受けとられたのでした。
(改行は引用者による)

 私が何故この絵を例として挙げたか、お判りいただけただろうか?
 この絵を巡る評価に関しては、前述の二つのヴィーナス図同様に、現実の問題がフィクションの世界に干渉しただけでなく、フィクションの意味すらも歪めてしまったのだ。
 もっとも私個人の主観で言えば、別に少女売春そのものを絵画作品で描いても、そのこと自体に全く問題はないと思っている。前項でも述べたように、私は、現実とフィクションは完全に分けて考えるべきだと思っているし、現実世界を大事に思うのと同様に、フィクションの自立性も尊重すべきだと思っているので。

 まあ、この問題はちょっと脇に置くとして、再度この絵を見てみたい。
 果たしてこれが、「少女売春をそそのかしている」ように見えるだろうか。もし、何の予備知識もなくこの絵を見て、それでも少女売春を連想する人がいたとしたら、それはそもそもその人が、普段から少女売春に並々ならぬ興味を持っていて、その興味を絵に投影しているのではないだろうか、と、私などは思ってしまうのだが。
 しかし残念ながら、この絵が発表されたタイミングが、この絵に対するニュートラルな「理解」を阻んだ。現実の抱えていた問題、それもどうやらセンセーショナルに報じられてヒステリックな反応を生んだらしき問題が、この絵の意味を歪めてしまった。
 その結果、ポインターは後に、裸体の上に衣を描き加えてしまった。つまり、1985年のアカデミー展に出品された、大作ヌード画としての「ディアデーマを結ぶ少女」のオリジナルは、既にこの世に存在しない。上の図版は、その前年に制作された同名の小さな作品、つまり習作のようなものでしかない。
 しかし現在では、この喪われなかった小品は、ロイヤル・アルバート美術館に展示されている(らしい)し、今回このエントリーを書くにあたって、ネットで画像を検索したところ、良くある「ステキなインテリア・アート」として、この絵の複製を販売しているサイトも見つかった。
 そこには既に、少女売春をそそのかすというような「アモラル」な影は、全く見られない。
 このように、「モラル」や「現実の抱える問題」を、絵という「虚構」に投影してその存在の是非を語るのは、およそ愚かしくも当てにならない行為なのだ。
 なお、このような現実をもってフィクションに干渉したがる人全般について、松沢呉一氏のこのツイートが、私にとって実に納得のいく内容だったので、宜しかったらぜひご一読いただきたい。

 以上、「ヌード論争」で非難を受けた絵の実例を紹介してみたが、「ヌード反対派」の残した作品についても、少し触れておこう。
 下の絵をご覧あれ。
Horsley
 前項で私が、ヌード反対派の筆頭として名前を挙げた、ジョン・キャルコット・ホーズリーの「聖ヴァレンタインの日」という絵だ。
 寡聞にして私は、今回のエントリーを書くまで、ホーズリーという画家がどんな作品を描いたのか、全く知らなかった。検索したところによると、世界最初のクリスマス・カードの絵を描いた画家として知られているそうだ。
 というわけで、上の作品が彼の代表作と言えるようなものなのかどうか、正直言って自分には判らない。とりあえず、英語版Wikipediaの彼のページに載っていた絵なので、そうそう間違ったチョイスではないとは思うのだが。
 ホーズリーは、ロイヤル・アカデミーの会計局長という、アカデミー内では会長に次ぐ第二の地位にいたので、その言動にも、やはりどこか「検閲・弾圧」めいた気配があったのかもしれない。
 しかし、それと同時に彼は、あくまでもアカデミーに所属する画家、つまり「表現の送り手」という当事者でもあった。そして、それに反論したジェームズ・マクニール・ホイッスラーもフレデリック・ウォッツも、やはり同じく画家である。

 お判りだろうか。
 こうして、ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」と、今回の「非実在青少年問題」を比較していると、クィアな私としては、ついつい「う〜ん、じゃあホーズリーが『チンコで障子を破る』の人で、『英国の良識ある既婚婦人』が『ひなげしの花』の人かしらん」なんて軽口を叩きたくなってしまうのだが、この二つには決定的な違いがあるのだ。
 ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」に関して、その「愚かさ」について重点的に語ってはきたが、それでもこの論争は、あくまでも「当事者(画家)および民間人(マスコミ)による議論」なのだ。対して、今回の「非実在青少年問題」は、「非当事者(行政)による一方的な決定を巡る問題」である。
 この二つの差は、実に大きい。どのくらい違うかは、仮にも民主主義国家に生活している人物ならば、それこそ「実在青少年」(非実在じゃないよ)でも判るのでは。
 ゆえに私は前項で、「同程度どころか退行している」と述べたのである。

 最後に、ちょっと意地悪なデータを載せておこう。
 少女売春をそそのかしていると非難を受けた画家、Edward John Poynterの、Google Imageでの検索結果/約50,800件。
 ヌード絵画を「モラル」によって徹底攻撃した画家、John Callcott Horsleyの、Google Imageでの検索結果/約 753件。
(続く……かも知れません)

都条例「非実在青少年」規制問題に関する私見

 なぜ私が、この事態を憂慮しているかということについても、ちょっと意見を述べておきたいと思います。

 まず、そもそも今回の「非実在青少年」のように、「実在しない」のに「人権がある」ような考え方自体が理解できない。
 百歩譲って、フィクション上の「非実在青少年」なるものについて、積極的に考えようとしても、文章がOKで絵がNGだというのも判らない。文章よりも絵の方が、より即物的で犯罪的な存在だとでもいうのだろうか。

 次に、作家としての自分の「表現の自由」を守りたい、ということは、言うまでもない。
 そもそも私は「フィクションにタブーなし」という考え方であるし、本家サイト開設以来、トップページにずっとバナーを揚げてきたように、「フィクションと現実は明確に区別せよ」という信念を持っている。
 性表現・性文化のゾーニングに関しては、「賛成」するのにやぶさかではないけれど、ただし、よく引き合いに出されるように、「欧米では……」といったグローバル・スタンダード的なレトリックを用いるのなら、ゾーニングを徹底すると同時に、ポルノグラフィーを解禁せよ、と言いたい。
 この問題以前から、私の「表現の自由」は、「性器の修正」という形で、既に侵害されている。

 性と表現の関わりについては、まず、美術史上から先例を幾つか引いてみたい。性と表現に関してもの申すなら、もうちょっと歴史から学べることがあるだろう、と思うからだ。

 まず、有名な話から、16世紀イタリアの話。
 画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラは、ミケランジェロの「最後の審判」に描かれた、裸体画の股間を隠すために、布や葉などを加筆した。このことから、気の毒に彼は、後世まで「ふんどし画家」と嘲られてしまった。
 次に19世紀、明治期の日本。
 画家黒田清輝の「朝妝」が「裸体画論争」を引き起こし、ときに裸体画は下半身を布で覆われた状態で展示されたりした。
 そして、同じく19世紀、ヴィクトリア朝のイギリス。
 ロイヤル・アカデミーの会計会長ジョン・キャルコット・ホーズリーは、「ふしだらなヌード画」に対する徹底的な攻撃によって「着衣のホーズリー」とあだ名され、雑誌『パンチ』上で茶化され、画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは自作のヌード画に、「邪(よこしま)なるものこそホーズリーなれ」というメモを貼って出品した。
 この「ヌード論議」で、ヌード反対派を後押ししたのは、当時活発化した「社会浄化運動」だった。
 そして、当時の価値基準では、同じヌード画でも、アルバート・ムーアの「ヴィーナス」は猥褻で、フレデリック・レイトンの「衣を脱ぐヴィーナス」は芸術だった。これは、当時の「モラル」に準拠した判断なのだが、どうしてか、その理由がお判りだろうか?
 その答えは、ここでは書かないことにする。何故なら、ここでは「どうして?」と思うこと自体に意味があるからだ。

 このように、いずれも現代の感覚からすると、理解できなかったり、滑稽に感じられる「美術史上の事件」だが、実のところ、現在の日本の状況を鑑みると、あながちこれらを滑稽だと笑うことはできないのだ。
 なぜなら、こういった滑稽な事態を生み出したのは、今回と全く同じ、「健全か、不健全か」という価値基準であり、「健全はよし、不健全はダメ」という考え方なのだから。
 21世紀の日本社会は、裸体表現に対する禁忌という意味で、「ふんどし画家」や、明治時代の「裸体画論争」と似たようなものだし、モラル的な断罪といった点では、ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」と同じであり、しかも今回の「非実在青少年」によって、それが更に退行しようとしている。
 特に、後者の「健全・不健全」といったような、モラル的な断罪方法については、かつて同性愛差別が、同じモラルの名のもとに正当化され行われてきた歴史を踏まえても、私は断じてそれに同意することはできない。

 しかも今回は、それが政治という「社会の中核を成す部分」で起きている変化であるが故に、その行く先に対する懸念が、私の中では通常以上に大きくなっている。
 前述したように、こういった性を思想的に扱いつつ、それを「健全・不健全」と二項対立で判断するような考え方が、性を「マトモ」と「ヘンタイ」に分け、「同性愛」は「ヘンタイ」とされてた。そして、この性を「良し悪し」で判断するための基準とされてきたのが、学術やモラルであったのだが、いずれも社会や時代の違いに応じて、いかようにも変化してきた。
 つまり、これらは実に曖昧に揺らぎうるもので、決して普遍的な絶対律ではない。
 これは、今回の都条例の持つ「曖昧さ」、つまり、判断基準が恣意的に、いかようにも変化しうるという問題点と、相通じるもののように思われる。どちらも、「今日はOKだったものが、明日はNGになりうる」のだ。
 政治という社会の中核部で、仮にも条例という「法」が、そういった「曖昧さ」を孕んだまま、しかも「わざと議論の余裕を持たさずにスピード採決に持ち込もうとするかのような動き」(竹熊健太郎)、つまり、誰も知らないところで決定してしまい、それを既成事実にしようとするという考え方には、私は心の底から恐怖する。
 更に、山田五郎氏のラジオで聞かれるように、テレビという最も大きな影響力を持つメディアは、このことを議論はおろか、きちんと触れようとする気配すら見せない、という事実も恐ろしい。

 こういった動きを社会全体が受容する、つまり、例え「おかしい」という声が上がっても、それについて議論されることもなく、そのまままかり通ってしまう世界であるのなら、私はそこに、以前ここでヴァルター・シュピースについて書いたときに触れた、1930年代のオランダ領インドネシアで、それまで何十年も「暗黙の了解」という「曖昧さ」によって守られてきた同地の同性愛者が、社会が保守化していくパラダイム・シフトの中で、否応なく「狩り」の対象へと変化していった、という事例を、重ねずにはいられない。
 このことが、現代の日本とどのように通じるものがあるかは、上記のエントリーで既に書いているので、ここでは繰り返しさないが、それに関してテレビが「沈黙」していることが、これまた以前ここでマンガ「MW」の映画化に際して意見を書いたときと同様の、性に対する旧弊で無知な現状を思い出させる。
 だから、「非実在青少年」という言葉は、いかにも滑稽なものではあるけれど、それを生み出した「思想」と、それを育ててしまう「状況」には、私は底知れぬ恐怖を感じてしまう。
 いささか大げさに感じられるかも知れないが、それが私の正直な感想だ。

(ヴィクトリア朝絵画におけるヌードに関しては、雑誌『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」を参照)

都条例「非実在青少年」規制問題に関する覚え書き

 この問題に関して、私個人のスタンスは「断固反対」であり、自分に出来うる行動も既に済ませました。
 ただ、現在この問題が進行中であり、残された時間が少ないことを、まだご存じでない方がいらして、そして結果が出た後、悪い方向へと進んでしまってから、初めて「知らなかったから、何もできなかった」と後悔なさることがないよう、及ばずながら情報の流布の一助になれば良いと思い、当エントリーを書くことにしました。
 まず、この問題に関して「初耳だ」という方に向けて、どういう問題がどのような状況下で進行しているのかが、判りやすくまとまっているウェブページに、以下に目的別に分けて、幾つかリンクを貼っておきます。
[最初に全体像をざっと把握したい]
都条例「非実在青少年」規制問題について
〜編集家・竹熊健太郎氏ブログ「たけくまメモ」、および明治大学国際日本学科准教授・藤本由香里氏のmixi日記より
[条例が可決した場合、何かが起こりうるのか、そのシミュレーションを知りたい]
「非実在青少年」はこのように規制される(だろう)
 〜漫棚通信ブログ版より
[現在進行中の、より詳細で具体的な情報が欲しい]
東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト
[反対したい場合、自分に何が出来るか、どうすればいいのかを知りたい]
「非実在青少年」規制問題・対策まとめ
[文化人や著名人の反応を知りたい]
(煩雑になるので、上記のリンク先にあるもの以外で、私が特に興味深く思ったものをピックアップしました)
緊急提言!都の「青少年育成条例」改正案にモノ申す!
 〜評論家・山田五郎氏によるラジオ音声。条例の持つ根本的な「おかしさ」について、判りやすく楽しく解説してくれています。オススメ。
残り100時間で出来ること、他
 〜マンガ家・野上武志氏による現場からの提言
 なお、マンガ家や作家として活動していらっしゃる方で、尚出して反対意見表明・反対署名をしたい場合。
 大手や中堅の出版社では、それぞれの編集部単位で各作家さんの意見を求め、最終的に取りまとめが行われる模様ですが、残念ながら、私の周囲のゲイ雑誌やBL雑誌などでは、そういった動きは見られません。
 ただ、太田出版さんが、現在「東京都『青少年育成条例改正案』への反対署名」を募っておられるので、そちらを通じて反対署名が可能です。
東京都「青少年育成条例改正案」への反対署名について
 〜太田出版ホームページ。Eメールによる署名、本日16時まで。
 もう一つ、Twitterのアカウントをお持ちの方は、小学館IKKI編集長氏が、「東京都青少年育成条例の改正案/疑義・反対 作家リストへの掲載」を、ツイートで受け付けておられましたが、既に本日10時までというタイムリミットを過ぎてしまいました。参考までに、該当ツイートへのリンクのみ貼っておきます。
日本書籍出版協会のほうで、「東京都青少年育成条例の改正案/疑義・反対 作家リスト」の作成を始めました
 長くなったので、ここは告知だけにして、この問題に関する私見に関しては、項目を分けます。

趣味のアニメーションとか

 先日のアニメーションもどきは、ちょっとアレな内容だったので、3年ほど前に趣味で制作した、健全(笑)なヤツもYouTubeにアップしました。
 淋しい白熊のアニメーション。

 使用ソフトはPoser(キャラクター・アニメーション)、Vue(風景アニメーション)、ArtMatic(光などのエフェクト・アニメーション)、Paiter(手描き部分原画)、Photoshop(手描き部分原画)、AnimeStudioぜんまいハウス版(2Dアニメーションとコンポジット)、iMovie(編集)。
 アニメクリエイターことSmithMicro版AnimeStudioは、このアニメーションには使用していません。
 音楽は、例によってGarageBandとLogicExpressで制作。

AnmeStudio日本語版がアニメクリエイターという名で発売開始

 以前紹介した、米SmithMicro社のアニメーション作成ソフト”AnimeStudio”ですが、日本語版が「アニメクリエイター」と名前を変えて発売されました。販売元はact2
 現時点では、エントリー・バージョンのdebutのみの販売のようですが、上位バージョンのproも、後日追加されるとのこと。
 ちょちょっとアニメーションをいじってみたい人には、なかなか手軽で楽しいソフトなので、英語版で腰が引けていた人も、この機会にお試しになってはいかが? 30日間フル機能が試用できる体験版もありますから。

 で、私も久々に同ソフトを立ち上げてみました。
 以前アップしたテスト動画は、いずれもベクター画像を使ったものだったので、今度はちょいとラスター画像のアニメーションを試してみました。
 まあ、一晩でヤッツケで作ったものなので、大したもんじゃないですけど。過去に書いた絵をアニメクリエイター(と言いつつ、私の持っているのは英語版なのでAnimeStudio……ヤヤコシイな)に読み込んで、ボーンを使って動かしたり変形させたりしてるだけです。それ用に新たに絵を描いたわけではないので、どうしてもあちこち無理が出てますが、ま、ラスター画像にボーンを組み込むと、どんな風になるかという、簡単な参考にはなるかと。
 とはいえ、ついうっかりエロいヤツを作っちゃったんで、こりゃYouTubeには載せられない(笑)。
 とゆーわけで、フリーのファイル・アップローダーに、mp4動画をアップしました。ダウンロードはこちらから。ちょっと待つと、ハードディスクのアイコンの横に、青文字で「Click here to start download..」というメッセージが出るので、そこをクリックすればOK。
 因みに、動かしてみたのは、この2枚です。
7sins_luxuriachabouzunokoi
 大人向けなので、未成年者はダウンロードしないように!

ゴードン・スコット(Gordon Scott)版ターザン映画のDVD

dvd_tarzan_scott_6pack
 ゴードン・スコット主演のターザン映画のDVD(アメリカ盤)が届いたので、ご紹介。
 ラインナップは、以下の6本。
『ターザンと隠された密林 Tarzan’s Hidden Jungle』(1955)
『ターザンと消えた探検家 Tarzan and the Lost Safari』(1957)
『Tarzan and the Trappers』(1958)
『ターザンの激闘 Tarzan’s Fight for Life』(1958)
『ターザンの決闘 Tarzan’s Greatest Adventure』(1959)
『ターザン大いに怒る Tarzan the Magnificent』(1960)

 前に紹介した、レックス・バーカー版DVDと同様に、今回もワーナー・アーカイブ・コレクションというオンデマンド・サービスによるもの。
 というわけで、やはり、ジャケは簡素なプリンタ出力、ディスクはDVD-R、メニューはシンプル、チャプターは10分刻みの機械的なもののみ、字幕や音声切り替え等はなし。
 ただし、これまたやっぱり、画質は充分以上のクオリティ。オンデマンド・サービスとはいえ、流石に正規盤だけあって、良くあるPDの安価な商品とは雲泥の差。ワイド画面作品は、ちゃんとスクイーズ収録で、退色やディテールのツブレといった劣化は、ほぼ見られず。
 どのくらいちゃんとした画質か、サンプルを原寸解像度のキャプチャ画像でお見せしませう。
tarzan_fightforlife_gashitsu

 んでもって、これまた例によって、米ワーナーのサイトからの直接購入は不可能。メーカーから直で買えば、6本パックなら50%offのサービスがあるのに、残念ながらそれは使えず、米アマゾンで割引なしで買うしかなし。
 というわけで、とりあえず二本鑑賞しました。

 まず、『ターザンと消えた探検家 Tarzan and the Lost Safari』から。
 これは何でも、ターザン映画史上初の、ワイドスクリーン&総天然色作品だそうです。というわけで、ゴードン・スコット君はターザン役なので、シャツを着てるシーンなんか一秒たりともなく、徹頭徹尾腰布一丁の半裸でゴザイまして、その滑らかな筋肉や艶やかな肌が、美麗なカラーでたっぷり拝めます。
 いや、これ以前の白黒版と比べると、カラーのターザンは何だかなまめかしいなぁ(笑)。
 ヘラクレスとかを演ると、ちょい筋量が足りない感じがしちゃうスコット君ですが、ワイズミューラーやバーカーと比べると、やっぱ腕とか太いですね。アスリート系とビルダー系の中間で、ビーフケーキって感じ。

 話の方は、いたってシンプル。
 ジャングルに墜落した飛行機の乗客が、蛮族に追われながら脱出するのを、ターザンが助ける……ってな内容なんですが、この脱出行、ビックリするくらいマッタリ模様(笑)。危機また危機でスリルとサスペンスがテンコモリかと思いきや、さしたるビッグ・トラブルもなく、ゾウやらカバやらキリンやらを見物しながら、まるでアフリカ観光旅行ハイキングみたいなノンビリさ加減。
 人間ドラマも、いちおう悪党がいたりとかもするんですが、メインに描かれるのは、そういった極限状態のヒリヒリ系ではなく、パイロットの夫と不仲だったヒロインが、自分たちを助けてくれた逞しい裸の男に心惹かれてしまい……ってな、ヨロメキ不倫劇だったりするし(笑)。

 まあ、現代の目で見てしまうと、何ともノンビリとした映画に見えますが、1950年代だったら、総天然色の大画面で、アフリカの風物とか原住民の踊りなんかを見るだけでも、充分スペクタキュラーで、立派に映画の「売り」になったんでしょうね、きっと。
 前述したように、スコット君のヌードはふんだんに拝めますが、責め場はなし。

 お次は、『ターザンの激闘 Tarzan’s Fight for Life』。
 これは、『消えた探検家』と比べると、ドラマはもうちょっと複雑だし、起伏もあります。
 舞台は、ジャングルにある白人医師の診療所。呪術医療に頼る原住民を、近代医学で救おうとしているんですが、呪術医はそれが面白くない。村の女が重傷を負って、診療所に運び込まれたものの、呪術医は親族が輸血に行くのを禁じ、そのため女はあえなく死んでしまう。また、若い酋長が病気になり、その母親が呪術医よりも診療所を頼ろうとしていることを知り、激怒する。
 一方ターザンは、チータが体温計に悪戯をしたせいで、ジェーンが瀕死の高熱だと思い込んでしまい、ボーイともどもジェーンを診療所に運ぶ。呪術医は、死んでしまった女性の夫に催眠術をかけ、報復としてジェーンを暗殺するよう命令し、更に、自分の威信を取り戻すために、診療所から薬を盗んで若い酋長を治療しようと企むのだが、間違って治療薬ではなく毒薬を盗んでしまう。
 ボーイの機転で、ジェーンは危機一髪で救われるのだが、呪術医は既に毒薬を手に若い酋長の元へ向かっていた。それを止めようと、ターザンは後を追うのだが、呪術師の仕組んだ罠に落ちて捕らえられ、牢獄に入れられライオンの餌にされるか、それとも生きたまま心臓をえぐり取られそうになる……! てな感じで、なかなか楽しめるオハナシです。

 ボーイが作ったカヌーでジェーンを診療所に運ぼうとすると、途中に滝で行く手を阻まれたりとか、滝を迂回して途中にジェーンが独りになると、そこに危険な大蛇が現れるとか、若い酋長の家来が呪術医に捕まって拷問されているのを、ボーイが発見してターザンが救出するとか、スリルとアクションをマメに盛り込みつつ、かつチータ絡みで笑いもバッチリとゆー感じで、いかにもプログラム・ピクチャー的な、オーソドックスな娯楽感がイッパイ。

 んでもって嬉しいことに、責め場もなかなか良くて、こんな感じ。
 ターザンは、滝を昇って疲れたところを、敵に襲われ棍棒で殴られて昏倒。そのまま木枠に縛られてジャングルを運ばれた後、二艘のカヌーの間に磔状態で川下り。ここ、絵面的に、かなりグッときます(笑)。ただ、惜しむらくは、カヌーのシーンで縛られているのは、おそらくスコット君ではなくボディ・ダブルの人。この映画、アフリカのロケシーンでは、どうもスコット君ではなくこの代役さんが、全て演じてるっぽいので。
 村に着いたターザンは、そのまま首枷横木両手縛りで引き回し。ここもまた、グッとくる(笑)。
tarzan_fightforlife_1
 首枷のまま、ライオンのいる檻に入れられた後は、お約束通り、拘束から逃れるための身悶えという名の筋肉ショー。
 直截的な拷問こそないものの、この一連のシークエンスを、けっこう時間もタップリとって見せてくれるので、責め場的な満足度はかなり高し。
tarzan_fightforlife_2
 もう一ヶ所、若い酋長の家来(若い黒人)が捕まって拷問されるシーンもありますが、これは椅子に縛られて焼いた槍の穂先で脅されるのと、殴打されるのをロングで見せる程度。
 マッチョでは、悪役の黒人戦士が、カーク・ダグラス版『スパルタクス』にも出ていたウディ・ストロードという男優さんで、これまたなかなか見事な筋肉を見せてくれます。