鐘馗地獄行(1)

 その日、ふと思い立って、鐘馗(しょうき)さまは地獄へ降りてみることにした。
 特に、これといった理由があったわけではない。お馴染みの追儺(ついな)の最中に、ちょっと気まぐれを起こしただけだった。
 鐘馗は、金色の神雲(しんうん)に飛び乗ると、そのまま一気に黄泉(よみ)の坂を駆けくだった。
 行く手の深淵から、硫黄と血の臭いが混じった風が吹きあがり、鍾馗の黒々とした豊かなヒゲを吹き散らした。それと共に、恐ろしげな声もかすかに聞こえてきた。亡者たちの悲鳴や哀願や呪詛、そして彼らを責め苛む牛頭馬頭(ごずめず)どもの、怒号や罵声や雄叫びの声だ。
 こいつは手応えがあるかも知れん。
 そう思って鐘馗は、思わずにまりと笑みを浮かべた。
 かれこれ百年も千年も、相も変わらず鬼を祓い続けているだけでは、自づと惰性も芽生える。ましてや、自分の姿を見ただけで、きゃあきゃあと悲鳴を上げて逃げまどうような鬼どもを、一方的に捻りつぶし、踏みつぶすのだ。仕事として、あまり後味の良いものではない。
 つまり鍾馗は、そんな日常にいささか退屈していたのだ。
 しかし、現世に湧いてでた鬼ども相手ではなく、自分自身が鬼どもの本拠地に降りていけば、また勝手が違うかも知れない。ひょっとすると、自分が本気を出して挑まねば祓えぬような、手強い相手もいるかも知れない。
 鍾馗は、そんなあまり誉められたものではない期待に胸を膨らませながら、神雲を駆る速度をいっそう上げた。

 地獄の空は、濁った血の色をしていた。そして渦巻く、泥を流したような黒雲。陽も、月も、星もない。時の流れから見放された虚空だ。
 鍾馗は、神雲の上から下の様子を見回した。
 血の池、針山、紅蓮の炎。蛆のように蠢く裸の亡者と、それを追い立てる裸の鬼たち。
 鬼たちの背丈は、亡者の二、三倍はあり、肌の色は赤、青、黒と様々である。人に似た顔の者もいれば、獣に似た者もいる。いずれも裸で、筋骨逞しい身体に獣皮の腰布一枚という姿だ。それらの鬼たちが、三叉、金棒、大包丁など、思い思いの得物を手に、哀れな亡者たちを、あの手この手で責め立てている。
 ちょうど今も、女の亡者が一人、黒い肌の馬頭の手で、血の池に放り込まれたところだった。
 長い黒髪の、美しい女だった。
 鍾馗はふと、自分がまだ現(うつ)せ身(み)の人間だった頃を想った。
 あまりに遠い昔のことであるので、正直なところ、あまり良くは覚えていない。確かその頃の自分は、今のように容貌魁偉でも筋骨隆々でもなく、あまつさえ武人でもなく、気の弱い文人であったような気がする。
 それがいつしか、このように恐ろしげな神の姿となり、巨大な破魔の剣を手に鬼を追い回す身となった。そのきっかけは何であったろうか。どこかの天子様が絡んでいたような気がするが、あまり良く覚えていない。自分が人でなくなってから、さほど長い年月が経っているのだ。
 しかしともあれ、自分は確かにかつては現せ身の人であったのだ。そしてその頃は、あのような女人に恋をしたこともあったような気がする
 そして今、眼下にそんな女人がいる。闇の中に白い裸身を仄かに光らせながら、血の池の中で魚のようにのたくっている。豊かな太股が左右に分かれ、むっちりとした尻のあわいから、黒く茂った叢が覗いている。
 その叢の中で、女の秘所が赤い口をぱくりと開いた。
 それを見た瞬間、鍾馗は、自分の下帯の中身が固くなるのを感じた。
 いかんと思ったのも束の間、時既に遅く、足下の神雲は煙のように消え失せ、神通力を喪った鍾馗は、まるで久米の仙人よろしく、真っ逆さまに地上へ落ちてしまった。
 いきなり上空から大男が降ってきたので、鬼たちはびっくり慌てふためいた。しかも良く見ると、落ちてきたのは、日頃自分たちをいじめている、あの恐ろしい鍾馗さまではないか。
 鬼たちは、柄にもなくきゃっと悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らすように逃げた。
 鍾馗は、落下したときに打った頭をさすりながら、何とか身体を起こして立ち上がった。
 しかし、まだ足がふらつく。剣を握る手にも、力が入らない。
 それもそのはず、神通力はまだ戻っていなかった。下帯の中は相変わらず固いままで、未だ萎える気配がない。しかし鍾馗にしてみれば、自分が『男』であることを、実に千年ぶりに思い出したのだ。無理はないことかも知れない。
 ともあれ鍾馗は、心中で己の肉体の浅ましさを呪いながら、鬼どもに何も気取られぬよう、両足をしっかり踏ん張り、ぐっと周囲を睨み回した。
 亡者たちは、何が起こったのかわからぬまま、いきなり自分たちを責め苛んでいた獄卒が消え失せたので、きょとんとしてその場に立ちつくしていた。いっぽう、逃げ出した鬼たちは、しばらく物陰に隠れて遠巻きに鍾馗の様子を窺っていたが、やがて、いつもとどこか様子が違うのに気がついた。
 鍾馗の目に、力がない。いつもなら凄まじい眼力に、鬼たちはひと睨みされただけで、恐ろしさに竦んで身動きがとれなくなってしまうのだが、今日の鍾馗は、いかにも恐ろしげな顔で睨みつけてはくるものの、真っ直ぐ目を見返すことができるのだ。
 鬼たちは、まだ半信半疑ではありながら、やがて隠れていた物陰から姿を現し、じりり、じりりと鍾馗に近付いた。
 鍾馗は、思わぬ展開に焦りつつ、必死に肉体の炎を鎮めようとした。しかしそこは、相変わらず猛ったままであった。
 周囲を取り囲んだ鬼たちの輪が、次第に迫ってくる。やがて一匹の赤鬼が、おっかなびっくり金棒で鍾馗に殴りかかった。鍾馗は、手にした剣でそれを受け流そうとしたが、まるで風になびく葦のごとく、くにゃりと力なく打ち伏せられてしまった。
 それを見て、それまで尻込みしていた他の鬼たちも、勢いづいて一斉に鍾馗に飛びかかった。神通力を喪った鍾馗は、抵抗もむなしく、したたかに打ちすえられたあげく、太い鉄鎖で何重にもぎりぎりと縛り上げられてしまった。